II-EP.2 森の中の薬師
──あたたかい。
心地よい温もりに包まれて、リフは、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
(ここ、どこ……?)
まぶたを開けると、見知らぬ部屋だった。
壁には乾かされた草束や薬草が吊るされ、暖炉の火が静かに燃えている。
癒される森の香りと、ほのかに薬草の甘い匂いが鼻をくすぐる。
リフはソファの上に、うつ伏せに寝かされていた。
軋む体をゆっくりと起こしかけ、背中に布の感触がないことに気付く。
左肩に貼っていたはずの医療テープも、どこかに消えている。
「なんで?!」
その声に応じるように、誰かが近付いてくる足音が聞こえた。
「目が、覚めたか」
瞬間、身体が跳ねた。
ソファから転がるように床へ飛び降り、そのまま部屋の隅まで後ずさる。
背中を隠そうと、ソファの毛布を引っ掴み肩から羽織った。
「誰!!」
リフは、反射的に低く唸るような声で、威嚇しながら身構えた。
視界の端で ふわりと灰銀の大きな尻尾が揺れる。
「大丈夫だ、落ち着け」
その声音は低く穏やかで、危害を加えるようには思えなかった。
それでもリフは、警戒を解くことはできなかった。
左肩を抱きしめるように腕を回し、震えを押さえようとする。
「く、来るな、近づくな!!」
男はゆっくりと一歩だけ歩みを進め、それ以上は近づこうとはしなかった。
尻尾がゆっくり左右に振れる。
「何もしないから、あまり派手に動くな」
「信用、できない!」
リフの鼓動は早鐘のように打ち、あの白い部屋の幻影が頭を過ぎる。
「お願いだから、近寄らないで」
「その焼印のことなら知っている」
リフは息を呑んだ。
「俺は、お前を傷つけない、安心しろ」
リフはびくりと顔を上げる。
涙のにじむ瞳に映ったのは、
灰銀の髪を後ろで無造作に束ね、
鋭い三日月のような琥珀色の瞳をした狼族の男だった。
その表情は驚くほど静かで、怯えるリフをどうにか安心させようとしているようだった。
「ここは安全だ」
狼は距離を保ったまま、目線を合わせるように腰を落とす。
リフは震える息を飲み込み、毛布を握りしめたまま、じっと狼を見返した。
「俺はナトカだ。灰色狼族の、ただの薬草研究者だ」
「ゼルは?一緒にいたはずの蝙蝠族」
「別室で眠ってる」
それでもリフは少しでも距離を取ろうと、背後の壁に思いっきり後ずさる。
「ゼルは本当に無事?」
「嘘だと思うなら、あとで奥の部屋を案内してやる」
ナトカと名乗った灰色狼族はリフのそばに片膝をつき、ずれた毛布をそっと肩へかけ直した。
「俺を、信用できそうか?」
ナトカは立ち上がり、手招きする。
「話はその背中の裂けた傷の手当てをしながらでも出来るだろう」
リフは小さく頷き、ナトカに促されるまま暖炉の前の椅子に腰を下ろした。
「まずは、背中を見せろ、きちんと手当てしないと化膿する」
リフは不安げにナトカを振り返り、羽織っていた毛布をずらした。
ナトカは銀のトレイに揃えた医療器具の中から、消毒剤を染み込ませた縫合針を手に取る。
「少し痛むが、動くなよ、」
「痛いのは慣れてるから、問題ない」
「慣れてるか」
ナトカは苦笑いして、裂けた皮膚の縁を指で押さえ、針を滑らせた。
「背中の焼印を見たのに、どうして、驚かないの?」
ナトカの手は止まらない。
ただ、わずかにまぶたが伏せられた。
「驚く理由がない。見慣れている」
リフは息を呑む。
「見慣れてるって……」
「ルーメンの研究施設にいた。数年前までな」
ナトカの声には憐れみも嫌悪でもなかった。
「辞めた理由は、聞くなよ」
「なんで辞めたの?」
間を置かぬ問いに、ナトカは苦笑しながら答える。
「わからん。あの頃の俺には、選ぶということができなかった」
またひと針、裂けた皮膚に縫合針が深く刺さる。
「その焼印と同じものなら、色んな実験個体の背中に見てきた」
リフは黙って言葉を受け入れる。
「ただ、鳳凰属所有の烙印を持つ終身奴隷は初めて見た」
「そう、かもね」
「聞いたことがある。ルーメンに異常な耐性を持つ実験個体がいる、と」
ナトカは淡々と続ける。
「アーヴェント卿、人体資源管理局 、遺骸再生研究塔所属の皇族。その実験個体の所有者だったな」
その名を聞いた瞬間、リフの顔から血の気が引いた。
「鳳凰属は、その実験個体の存在によって研究が他の種族よりも遥かに進んだと言われている。現在の繁栄も、その恩恵だという話を聞いた」
呼吸が浅くなり、指先が震える。
「灰色狼族の研究所にも、何年か前にその個体が貸し出される予定だった。だが直前で逃げ出した、と」
リフの喉が僅かに震え、言葉にならない呼吸が漏れた。
「ただの噂だ、気にするな」
背中に刺さる針の感触を感じながらリフは、ぽつりとつぶやく。
「耐性が、あるだけなんだ。痛いのも、苦しいのも他の人と、何も違わない」
リフはゆっくり他人事のように続ける。
「耐えるから、長くなる。普通なら気を失える痛みでも、醒めたまま、全部、終わるまで、終わらない」
ナトカは一拍だけ沈黙した。
縫い目を一つ締めながら、重く言葉を受け止める。
痩せた身体に残る、古く深い傷痕は、
どれも試薬実験と呼ばれるものの残酷な名残だった。




