EP.21 痕跡なき静寂【⭐︎挿絵】
午後の試合が一区切りついた頃、執務室の扉の前で腕を組むグレンのところへ、片耳の潰れた山猫族が報告書の束を抱えて歩いてきた。
「戦況報告、持ってきた」
「ご苦労さん、入れ」
いつもと変わらない短いやり取り。
グレンが顎で扉を示し、山猫族はそのまま中へ入っていく。
執務室の扉を開けると、そこには相変わらずの散乱が広がっていた。
グレンは小さく、苦笑にもならない息を漏らした。
「はは、やっぱりこうなるか」
リフがいなくなってから、執務室は毎日この調子だ。
ヴォルガは椅子に深く腰掛け、山猫族が差し出した報告書を受け取る。
ふと、眉をひそめた。
「今日は、妙に静かだな」
気づけば、格闘技場の歓声が遠く聞こえるどころか、ほとんど何も聞こえない。
裏方の気配も薄い。
廊下のざわつきも消えている。
グレンは鼻を鳴らした。
山猫族も、帳簿を抱えたまま周囲を見回す。
「確かに、人が少ない気がしますな」
その直後だった。
──カタン
誰も触れていないのに、執務室の扉がゆっくり閉じた。グレンは、低く唸る。
「……誰だ!?」
問いかけに返事はない。
ただ、部屋の中央、ヴォルガと山猫族の中間に、いつの間にか男が立っていた。
深紅の外套、裾に揺れる金糸の紋、炎の尾を模したような赤と金の意匠。
男は優しげに、微笑んでいた。
「すみません。探しものがありまして」
戸惑いながら一歩下がった山猫族の足元から、灼熱の光が噴き上がった。
膝から上まで、一瞬で包み込む。
「ギャァァァァっ!!?」
悲鳴を上げようとした喉が、焔に塞がれた。
皮膚が裂ける音より先に、肉が蒸発していく匂いが走る。
灰が、はらり、と落ち、一瞬で跡形もなく消えた。
「……っ!!」
グレンが拳を構えようとした瞬間、首筋に冷たい指が触れた。
「大丈夫です、すぐに終わりますから」
耳元で囁かれた瞬間、その手が触れた場所から皮膚が剥がれ落ちるような激痛が走る。
「っ、グァァッ……!」
金の焔がグレンを包み込み、骨の髄が焼ける。
声を出そうとしても、熱で喉が泡立つだけだった。
「ただ関わった、それだけで充分罪です。死に値する」
アーヴェントは微笑んだまま告げた。
グレンの瞳から光が消えていき、やがて膝から崩れ、灰となって散った。
ヴォルガは、椅子を跳ねのけて立ち上がる。
「その紋章。鳳凰属か、なぜ、こんな場末の窟に」
アーヴェントの瞳がわずかに細くなる。
「こちらの存在を知るものが一人だけでもいて、よかった」
表情も声も優しい。
だからこそ、底なしの恐怖が滲む。
「彼の気配が、ここにも残っていたものですから。
穢れは残せません。あなたも、あれに触れたのなら、ここで消えていただきます」
「彼……?」
アーヴェントは一歩、踏み出す。
深紅の外套が揺れ、金糸の紋様が炎のように光った。
「あれは、鳳凰属・人体資源管理局、遺骸再生研究塔の所有物です」
ヴォルガの全身を金色の焔が貫いた。
「ぐっ――ッ……あ……!」
熱ではなく、痛覚すら焼き尽くす炎。
魂を削るような光。
皮膚が割れ、血が蒸発し、肉が白く膨張して崩れ落ちる。
アーヴェントは一歩も動かず、その光景をただ眺めていた。
「ありがとう、あれに優しく接してくれて」
ヴォルガの体が完全に崩れ落ち、灰だけが、静かに床へ降り積もる。
咆哮窟の執務室には、金色の残光と焦げた匂いだけが残された。
*
昼休憩が終わっても、通路は静まり返ったままだった。
足音を立てて歩いても、返ってくる気配がない。
ミルミは清掃籠を抱え直し、受付の前で立ち止まる。
「ラティ?」
呼びかけても、返事はなかった。
格闘技場の方を窺っても、金属の擦れる音一つ聞こえない。
胸の奥が、じわりと冷える。
ふと、背後の廊下で、足音が止まった。
「……だれ?」
深紅の外套が視界を塞ぎ、長い影が床に落ちていた。
「少し、探しものをしていまして」
赤と金が混じる長い髪を揺らし、男は首をわずかに傾けた。
ミルミは無意識に後ずさる。
「ここは、しらないひとは……」
言葉の途中で、身体が前に崩れ、足が滑る。
頬に触れた指先から、熱が走った。
「……っ」
黄金の焔が、ミルミの肩口を包んだ。
「ほう、貴女は獣人に、なりたいのですか」
その言葉と同時に、身体の内側から熱が押し上げてきた。
「強くて、綺麗で、同じ場所に立ちたい」
喉の奥が焼けつくように塞がり、息を吸おうとしても、空気がうまく入らない。
「……っ」
「半端なままでは、並べないと思っている」
声を出そうとした拍子に、肺まで熱が流れ込み、胸がひきつった。
「愚かな夢」
アーベントの指先で、焔がわずかに揺れる。
「半獣人は、獣人にはなれない」
ミルミは必死に首を振る。
違う、と言いたかったが、熱で喉が震え、言葉にならない。
「……うそ……」
掠れた声に、男は穏やかに言葉を返した。
「嘘ではありません」
一歩、距離が縮まる。
「誰かに、偽りの希望を与えられましたか?」
ミルミの指が、無意識に胸元へ伸びる。そこにあった胡桃とどんぐりの胸飾りを、ぎゅっと握り締めた。
熱が、さらに強くなる。
「あつ……あつい……」
床に手をつき、身体を引きずるように後ずさる。
涙が滲み、視界が揺れ、それでも必死に前へ進もうとする。
「あつい……やだ……」
焔に追い立てられるように、這うように通路を進み、やがて力を振り絞って立ち上がった。
残された熱が、背中にまとわりつく。
乾いた音とともに、どんぐりと胡桃の飾り細工が焼け崩れて散らばる。
男の視線が、床に落ちたそれを静かに捉えた。




