EP.20 金焔の来訪者
咆哮窟は、いつもと変わらない喧噪に満ちていた。
格闘技場では、さまざまな種族の闘士たちが火花を散らし、観客席からは歓声と罵声が入り混じって降り注ぐ。勝敗に合わせて金が動き、興行は滞りなく回っている。
昼休憩が終わり、ノタルは両腕いっぱいに古い本と、紐で束ねられた紙束を抱えて、受付前の通路を歩いていた。
「なんだそれ。歴史書?学者にでもなる気か」
通りすがりに声を投げられ、ノタルは本を抱え直す。
受付の奥では、鼠族のラティが椅子に腰かけ、細いガラスペンで管理帳に午後の持ち場を書き込んでいた。
「調べものだよ。気にするな」
格闘場のほうからは、昨日と変わらない歓声と怒号が響いていた。
ラティはペン先を止め、帳面に視線を落としたまま、ぽつりと零す。
「あいつら、ほんとに、帰ってこないんだな」
「生きてりゃ、また会えるさ」
ノタルはそれだけ答え、本の山を抱えたまま地下配管路へ続く裏口へと消えていった。
しばらくして、受付脇の影からミルミが顔を出した。
「おひるからの、そうじ」
「書いてある。ほら」
差し出された持ち場表を、ミルミは両手で受け取る。紙を一度見下ろしてから、胸元に留めた小さな胸飾りに指が触れた。
「あの、」
言いかけて、言葉を探す。
「たのしくない」
「すぐ慣れる。そういう場所だ」
ミルミは肩を落とし、ぱたぱたと廊下の奥へ駆けていく。
ラティは小さく息を吐き、管理帳の角で額をとんと叩いた。
「俺だって、寂しくないわけないのに」
ぼそりと呟き、仕事へ目を戻す。
ふと、奥の入口で、誰かの足音が止まった。
普段なら、咆哮窟に雇われている獣族の誰かか、酔って間違えて入り込んだ客、その程度のはずだった。
ラティは無意識に顔を上げた。
薄明るい通路の向こう、ゆっくりと、金と朱の色を溶かしたような長い髪の男が歩いて来る。
深紅の外套が揺れ、金糸の紋が、灯りに照らされて淡く光を返した。
長くしなる鳳凰の尾羽を模した赤と黒の意匠。細い金の糸が幾重にも重ねられ、炎の軌跡のように流れを描いている。この街ではまず見ることのない、皇族級の証。
咆哮窟にはあまりにも場違いな気配に、ラティの鼓動が跳ねた。
「どちら様で?」
ラティの問いに、男は静かに微笑んだ。
なぜか背筋が冷える。
「私の名はアーヴェント・フォル=フェニストラ。少し、探しものがあって」
男は懐から一枚の写真を抜き取った。
「この者を見なかったか?」
差し出された写真に、ラティは思わず目を凝らした。
(……誰だ?)
最初は本当に見覚えがなかった。
そこに写っている青年は──
骨ばった頬は影みたいに落ち込み、肌の色は血が通っているのかすら怪しく青白い。眼窩は、穴のように空っぽで。
髪は剃られ、白い壁の前で虚に立たされている。
生きているのに死んだみたいな顔。
だからこそ、一瞬、誰なのかわからなかった。
「い、いや、知りません」
言った瞬間、ラティの視線は再度写真に吸い寄せられる。
「え?…リフ……?あぁ!!えっ?これ、リフ?」
アーヴェントは写真をゆっくりと畳み、ラティの顔を覗き込むように見下ろした。
「知っているのか?」
「ここで、少しの間だけ働いてた。いい奴で」
アーヴェントの口元が、ほんのわずかに緩む。
「彼と、親しかったのですね」
声は驚くほど柔らかく、目元にはわずかな微笑さえ浮かぶ。
「彼は、今どこに?」
「ここにはもう……数週間前に、いなくなりました。
何も言わずに。どこへ行ったのかも、俺たちには、」
「そうですか。教えてくれてありがとう。彼がここで優しくされてたのなら、それは、とても良いことだ」
ラティは気恥ずかしそうに笑い、頭をかいた。
アーヴェントはゆっくりと頷き、まるで礼を返すように柔らかく微笑んだ。
「それなら、すべて消しておかないと」
そして、まるで挨拶するように、ごく自然にラティの肩へ手を置いた。
「……え?」
次の瞬間だった。
「っ、な、なに……これ……!?」
──ボッ
アーヴェントが触れた場所から、金色の焔が一気にラティの全身を包み込んだ。
「やっ……あ、熱い、熱いぃぃぃぃっ!!」
ラティは狂ったように叫ぶが、悲鳴は出ない。
声帯は内側から焼け落ちていた。
「大丈夫。喉はもう焼けてしまったから、悲鳴は漏れない。安心してください。誰にも、君が苦しんでいるところは聞かれない」
突然噴き上がった焔は、皮膚を焦がし、肉と血を焼き、骨の髄まで燃え広がる。
「っ……あ、あぁ……!!」
アーヴェントは黄金の瞳で、焔の中で崩れていく鼠族をただ静かに見ていた。
ラティの輪郭は崩れ、形が失われていく。
炎がふっと消えると同時に、そこには灰が小さく積もっているだけだった。
*
地上で起きつつある異変とは切り離された地下配管路。
ゆるく揺れる魔灯石の明かりの下で、ノタルは床いっぱいに広げた本の山に埋もれていた。
「どれが正しいんだよ、これ、」
分厚い歴史書を引き寄せ、指先で古い文字を追う。
「終身奴隷」
声に出すと、空気が重く沈む気がした。
ノタルも知っていた。
獣族なら誰でも教えられる、
たった一つの恐ろしい決まりごと──獣族の絶対的な理。
《 終身奴隷に関わった全ての者は “抹消対象” となる 》
逃亡奴隷ならなおさら。
かつて獅子族王家が、一族まるごと生きたまま焼かれたという話を聞いたことがある。
ノタルは喉を鳴らし、次の行を追う。
「終身奴隷とは、」
その文字を目で追うだけで、胸がざわつく。
「どの種族も所有している人の中でも、極めて罪の重い者」
リフの顔が思い浮かんで、眉をひそめた。
さらに読み進める。
“反転の日”──
「反転の日以降、人間は最下層の労働階級として再分類された。そのうち、最も罪深き者を、久遠の奴隷として別枠に収容し、実験研究および資源運用に供する」
ページをめくる。
「終身奴隷は主にルーメンの人体実験に利用される、
獣族が保持する貴重な資源……」
実験の様子が描かれたページは、恐ろしくて見ることは、出来なかった。
「そもそも罪深きって、なんの、罪だよ?」
別の資料を開く。
「どこにも記載がない……」
リフの背中の焼印が脳裏に浮かぶ。ひと目でわかる終身奴隷の証である漆黒の焼印。そして、その刻印を彩る赤と金。鳥の尾羽のような、滑らかな曲線の意匠。
ノタルは別の資料を乱暴に引き寄せて開く。
獣族紋章集
紋様誌
所有刻印の分類図
数冊を重ね、ページを端から荒くめくりながら字面を追う。そして、それは唐突に見つかった。
「赤と金の二重紋、これ、鳳凰族か……?」
指が止まる。
そこには、紋章の図が描かれていた。燃え上がる尾羽を模した二重の曲線。火が昇るような意匠の、禍々しいほど整った紋章。
リフの背で見た刻印と、ほとんど同じそれ。
「鳳凰族所有の証、皇族の、直轄……」
ノタルは震える手で次の資料をめくる。
神獣一覧の図。
古い挿絵が並んでいた。
鳳凰、麒麟、天狗、そして、竜の項には、天空に大きく翼を広げた黒い影の絵。
ゼルがイサリスと戦った時に変化させた、鋼の翼と酷似していた。
「神獣──竜属?」
声が震えた。
分厚い歴史書をそっと閉じる。
ぱたん、と重い音が、小空洞にひどく大きく響いた。




