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この世界で、君だけが獣を王にした  作者: そよら
フェーズI 裏路地で、獣は奪う
19/33

EP.19 罪の烙印

 

 深夜の咆哮窟は、昼間の熱気が嘘のように静まり返っていた。

 灯りはほとんど落とされ、闘技場の鉄格子の奥からは、遠い風のうなりだけが聞こえる。


 リフは肩で息をしながら、石畳を駆け抜けた。

 血の匂いが自分の背から上がってくる。

 足がもつれそうになるたびに、頭の中でゼルの声が響いた。


 配管整備路へ続く地下の入口、鉄の取っ手を掴んで身を滑り込ませようとしたその時、下から誰かが顔を出した。


「なんだ、リフ?どうした、こんな夜中に」


 ノタルだった。

 額に汗を滲ませ、工具を片手にしている。

 趣味の穴掘りとやらの途中だったのだろう。


 リフは言葉も出せず、両手を膝に置いて上半身を折り、荒い呼吸を整えようとする。 


 肩越しに見えた背中の血に、ノタルの表情が変わった。


「おい!その怪我……って、そ、それ、」


 ノタルの声が止まる。


 リフの上着が裂け、背中が顕になっていた。

 左肩にはっきりと残る、古い見慣れぬ烙印。

 黒い焼印を取り囲むように刻まれた、鮮やかな赤と黒の尾羽を模した紋様。


 ノタルは数歩、無意識に後ずさる。


「その…焼印、まさか……リフお前、終身奴隷なのか」


 リフはとっさに肩を抱き、背を向けて隠す。

 指の間から血が滴り落ちた。


 ノタルはしばらく何も言わず、それからゆっくりと自分の上着を脱ぎ、リフの肩にかけた。


「隠せ、それに寒いだろ」


「ノタル、ごめん、俺、……」


「いいから、どうしたんだ、何があった」


 リフは唇を噛み、かすかに頷いた。


「急いでるんだ、俺、ゼルのためにルーメンを」


「分かった。ヴォルガ様はまだいる。きっと力になってくれる」


 ノタルはそう言って、工具箱を置いた。

 その手には金木犀祭の露店で、リフがお土産にと買ってくれた皮の手袋が嵌められていた。


「傷薬、持ってくる。お前はヴォルガ様のところへ行け」


「……ありがとう」


 リフは小さく息を吐き、震える手で上着の裾を握りしめた。



 咆哮窟の最奥、執務室の扉の隙間から廊下に光がこぼれていた。

 リフは静かに扉を叩いた。

 短い間のあと、低い声が返る。 


「入れ」


 扉を開けると、金貨の詰まった袋が机の上にいくつも並び、その向こうで、総元締ヴォルガがゆるやかに酒を煽っていた。  


「こんな夜中に顔出すなんて、ろくでもない用件に決まってる」


 ヴォルガは手にしていたグラスを軽く傾け、薄く笑った。


「勝利の美酒ってやつだ。たまには浮かれても罰は当たらないだろ」


 少し赤くなった頬に笑みを残したまま、彼はゆるやかに酒を煽る。


「どうした。俺は今夜、機嫌がいい」


 ヴォルガは、目の前に転がる金貨をひとつ手に取った。


「言ってみろ。用件次第じゃ、気前よく聞いてやる」


「ルーメンを、分けて欲しい」


 ヴォルガは無言のまま、グラスの酒を飲み干した。

 そして立ち上がり、棚の奥へ手を伸ばす。


「目ぼしいコレクションは全部、あいつに渡した。もう大したものは残ってないが、あるだけ持っていけ」


 リフは瓶を両手で受け取り、鞄に詰め込む。


「ありがとう」


「で、あいつはどうした?」


「すぐ来ると、思う」


 ヴォルガは鼻で笑い、机の上に転がった金貨を指先で弾いた。


「理由は聞かない。どうせロクでもないんだろ。面倒ごとは御免だからな」


 視線をリフに向けず、重く続ける。


「出て、行くのか」


 リフは深く頷いた。


 ヴォルガは引き出しを開け、革包みを取り出して放る。受け止めた瞬間、硬貨のぶつかる音がした。

 中には金貨が詰まっていた。


「やつの取り分だ。少なすぎるだろうが、持っていけ」


 声はぶっきらぼうでも、その響きにはどこか、見送る温もりのようなものがあった。

 リフが頭を下げると、ヴォルガは椅子を押しのけて立ち上がった。そして、ゆっくりと手を差し出した。


「お前は真面目で誠実なやつだ。よく働くし、俺の部屋の掃除も上手い」


 滅多に見せない優しい微笑を浮かべて、ヴォルガは言葉を続けた。


「懐かしくなったら戻ってこい。好きなだけ雇ってやる」


 リフはその大きな手を両手で包み込み、目を伏せた。


「たくさん優しくして、ありがとう」


 深々と頭を下げ、廊下へと駆け出す。

 背後で扉が静かに閉まり、ヴォルガの部屋に再び静寂が戻った。


 *


 リフが息を切らして戻ると、ノタルはすでに入口で待っていた。


「ヴォルガ様に会えたか」

「うん」


 ノタルは頷き、持っていた包みを差し出す。 


「これ、持ってけ。止血と薬だ。あとで塗っとけよ」


「ありがとう。助かる」


 差し出した指先が、リフの手に触れそうになった瞬間、ノタルの動きが止まる。

 さっき見た焼印が、脳裏にこびりついて離れなかった。 


 禁忌とされる終身奴隷の刻印。

 この世で最も重い罪を刻む印──


「……あ!!」


 ノタルは反射的に手を引っ込め、包の中身が足元に散らばる。乾いた音が、地下の空気にひどく響いた。


「いや、ちっ、違うんだ、リフ、……」


 落ち着かない手つきでノタルは、視線を逸らした。

 リフはかすかに首を振り、「大丈夫」と、散らばった薬剤や包帯を拾い集めていく。

 ノタルは何も言えず、ただその背中を見つめていた。


 助けたいのに、怖かった。

 助けることが、罰になる気がして、体がすくんだ。


 通路の奥でかすかな足音が響く。

 反射的にノタルが顔を上げると、闇の奥を、皮膜の翼を背負った黒い影がゆっくりと進んでくる。

 迷いもなく、まっすぐリフたちの方へ。


「ゼル!!」 


 リフが駆け寄る。


 ゼルは無傷に見えた。

 だが、その呼吸は浅く、腕の血管は微かに青白く浮き上がっている。

 擬態を解き放った代償。

 ルーメンの効力がほとんど残っていない証だった。


「足止めはした。けど、長くはもたない。奴らはすぐにでも動けるようにな、」


 言葉の途中だった。

 リフがいきなり飛び込んでくる。

 ゼルの胸にぶつかるように抱きついた。


「……っ」


 息を呑んだゼルの身体が一瞬だけ固まる。


「無事でよかった、ほんとに」


 リフは顔を押しつけたまま、震える声で息を吐いた。


「おい」


 声をかけても、リフは顔を上げない。

 震える指先が、ゼルの背に縋るように触れていた。

 何も言えず、ゼルは短く息を吐く。

 そのまま、軽く腕を回してリフを抱き寄せた。


「大丈夫だ」


 ただその細い背を抱きとめた。


「行けるか」


 ゼルは短く告げ、乱れた髪をかき上げた。

 リフは頷いて、肩掛け鞄の奥から、丁寧に畳んでいた外套を取り出した。


「これ、預かってた」


 ゼルは短く「助かる」と返し、差し出された外套を受け取った。


「行こう、余り時間がない」


 ゼルは外套を羽織りながらノタルに視線を向けた。


「外へ抜ける道は?この地下配管路から確か外に出られるんだったよな」


 ノタルは息を呑み、すぐに頷く。


「南側の排気管をずっと辿って、大きく曲がるところがある。折れた配管がむき出しになってるから、俺の掘削道具、まだ置きっぱなしなんだ。そこを抜ければ、街の外へそのまま出られる、迷うなよ」 


「恩に着る」


 ゼルは頷き、リフの肩にそっと触れた。


「行こう」


「途中、かなり狭くなるから気を付けて」  


 ノタルがそう言い添えると、リフは小さく「うん」と返し、もう一度だけ振り返った。

 暗い通路の灯に照らされたノタルが、そこに立っている。


「ノタル、元気で!!」


 できるだけ明るい声でリフは叫んだ。

 ノタルの肩が小さく揺れた。

 何か言おうとして、喉の奥で言葉が詰まる。

 さっき見た終身奴隷の焼印が脳裏から離れなかった。


「リフ、ごめん……俺、」


 リフは首を振り、少しだけ微笑んだ。


 込み上げる思いに耐えきれないように、ノタルはリフに駆け寄り、強く抱きしめた。


「……辛いこと、いっぱいあったんだろ。その肩の烙印、俺、見るんじゃなかったって」


 ノタルはゆっくりとリフから離れ、両肩に手を置く。


「みんな絶対寂しがる。ヴォルガ様の部屋もまた散らかるし、ラティもグレンも、ミルミも。だからさ、辛くなったら、いつでも。待ってるから」


 リフは唇を噛み、笑った。


「ノタル、たくさん優しくしてくれて、ありがとう。みんなに元気でって」


 ノタルは声を返せず、ただ何度も強く頷いた。


 リフはゼルのもとへ駆け寄り、二人は闇に沈む配管路の奥へと消えていく。


 足音が細い通路に吸いこまれ、ほどなくして気配すら消えた。

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