EP.19 罪の烙印
深夜の咆哮窟は、昼間の熱気が嘘のように静まり返っていた。
灯りはほとんど落とされ、闘技場の鉄格子の奥からは、遠い風のうなりだけが聞こえる。
リフは肩で息をしながら、石畳を駆け抜けた。
血の匂いが自分の背から上がってくる。
足がもつれそうになるたびに、頭の中でゼルの声が響いた。
配管整備路へ続く地下の入口、鉄の取っ手を掴んで身を滑り込ませようとしたその時、下から誰かが顔を出した。
「なんだ、リフ?どうした、こんな夜中に」
ノタルだった。
額に汗を滲ませ、工具を片手にしている。
趣味の穴掘りとやらの途中だったのだろう。
リフは言葉も出せず、両手を膝に置いて上半身を折り、荒い呼吸を整えようとする。
肩越しに見えた背中の血に、ノタルの表情が変わった。
「おい!その怪我……って、そ、それ、」
ノタルの声が止まる。
リフの上着が裂け、背中が顕になっていた。
左肩にはっきりと残る、古い見慣れぬ烙印。
黒い焼印を取り囲むように刻まれた、鮮やかな赤と黒の尾羽を模した紋様。
ノタルは数歩、無意識に後ずさる。
「その…焼印、まさか……リフお前、終身奴隷なのか」
リフはとっさに肩を抱き、背を向けて隠す。
指の間から血が滴り落ちた。
ノタルはしばらく何も言わず、それからゆっくりと自分の上着を脱ぎ、リフの肩にかけた。
「隠せ、それに寒いだろ」
「ノタル、ごめん、俺、……」
「いいから、どうしたんだ、何があった」
リフは唇を噛み、かすかに頷いた。
「急いでるんだ、俺、ゼルのためにルーメンを」
「分かった。ヴォルガ様はまだいる。きっと力になってくれる」
ノタルはそう言って、工具箱を置いた。
その手には金木犀祭の露店で、リフがお土産にと買ってくれた皮の手袋が嵌められていた。
「傷薬、持ってくる。お前はヴォルガ様のところへ行け」
「……ありがとう」
リフは小さく息を吐き、震える手で上着の裾を握りしめた。
咆哮窟の最奥、執務室の扉の隙間から廊下に光がこぼれていた。
リフは静かに扉を叩いた。
短い間のあと、低い声が返る。
「入れ」
扉を開けると、金貨の詰まった袋が机の上にいくつも並び、その向こうで、総元締ヴォルガがゆるやかに酒を煽っていた。
「こんな夜中に顔出すなんて、ろくでもない用件に決まってる」
ヴォルガは手にしていたグラスを軽く傾け、薄く笑った。
「勝利の美酒ってやつだ。たまには浮かれても罰は当たらないだろ」
少し赤くなった頬に笑みを残したまま、彼はゆるやかに酒を煽る。
「どうした。俺は今夜、機嫌がいい」
ヴォルガは、目の前に転がる金貨をひとつ手に取った。
「言ってみろ。用件次第じゃ、気前よく聞いてやる」
「ルーメンを、分けて欲しい」
ヴォルガは無言のまま、グラスの酒を飲み干した。
そして立ち上がり、棚の奥へ手を伸ばす。
「目ぼしいコレクションは全部、あいつに渡した。もう大したものは残ってないが、あるだけ持っていけ」
リフは瓶を両手で受け取り、鞄に詰め込む。
「ありがとう」
「で、あいつはどうした?」
「すぐ来ると、思う」
ヴォルガは鼻で笑い、机の上に転がった金貨を指先で弾いた。
「理由は聞かない。どうせロクでもないんだろ。面倒ごとは御免だからな」
視線をリフに向けず、重く続ける。
「出て、行くのか」
リフは深く頷いた。
ヴォルガは引き出しを開け、革包みを取り出して放る。受け止めた瞬間、硬貨のぶつかる音がした。
中には金貨が詰まっていた。
「やつの取り分だ。少なすぎるだろうが、持っていけ」
声はぶっきらぼうでも、その響きにはどこか、見送る温もりのようなものがあった。
リフが頭を下げると、ヴォルガは椅子を押しのけて立ち上がった。そして、ゆっくりと手を差し出した。
「お前は真面目で誠実なやつだ。よく働くし、俺の部屋の掃除も上手い」
滅多に見せない優しい微笑を浮かべて、ヴォルガは言葉を続けた。
「懐かしくなったら戻ってこい。好きなだけ雇ってやる」
リフはその大きな手を両手で包み込み、目を伏せた。
「たくさん優しくして、ありがとう」
深々と頭を下げ、廊下へと駆け出す。
背後で扉が静かに閉まり、ヴォルガの部屋に再び静寂が戻った。
*
リフが息を切らして戻ると、ノタルはすでに入口で待っていた。
「ヴォルガ様に会えたか」
「うん」
ノタルは頷き、持っていた包みを差し出す。
「これ、持ってけ。止血と薬だ。あとで塗っとけよ」
「ありがとう。助かる」
差し出した指先が、リフの手に触れそうになった瞬間、ノタルの動きが止まる。
さっき見た焼印が、脳裏にこびりついて離れなかった。
禁忌とされる終身奴隷の刻印。
この世で最も重い罪を刻む印──
「……あ!!」
ノタルは反射的に手を引っ込め、包の中身が足元に散らばる。乾いた音が、地下の空気にひどく響いた。
「いや、ちっ、違うんだ、リフ、……」
落ち着かない手つきでノタルは、視線を逸らした。
リフはかすかに首を振り、「大丈夫」と、散らばった薬剤や包帯を拾い集めていく。
ノタルは何も言えず、ただその背中を見つめていた。
助けたいのに、怖かった。
助けることが、罰になる気がして、体がすくんだ。
通路の奥でかすかな足音が響く。
反射的にノタルが顔を上げると、闇の奥を、皮膜の翼を背負った黒い影がゆっくりと進んでくる。
迷いもなく、まっすぐリフたちの方へ。
「ゼル!!」
リフが駆け寄る。
ゼルは無傷に見えた。
だが、その呼吸は浅く、腕の血管は微かに青白く浮き上がっている。
擬態を解き放った代償。
ルーメンの効力がほとんど残っていない証だった。
「足止めはした。けど、長くはもたない。奴らはすぐにでも動けるようにな、」
言葉の途中だった。
リフがいきなり飛び込んでくる。
ゼルの胸にぶつかるように抱きついた。
「……っ」
息を呑んだゼルの身体が一瞬だけ固まる。
「無事でよかった、ほんとに」
リフは顔を押しつけたまま、震える声で息を吐いた。
「おい」
声をかけても、リフは顔を上げない。
震える指先が、ゼルの背に縋るように触れていた。
何も言えず、ゼルは短く息を吐く。
そのまま、軽く腕を回してリフを抱き寄せた。
「大丈夫だ」
ただその細い背を抱きとめた。
「行けるか」
ゼルは短く告げ、乱れた髪をかき上げた。
リフは頷いて、肩掛け鞄の奥から、丁寧に畳んでいた外套を取り出した。
「これ、預かってた」
ゼルは短く「助かる」と返し、差し出された外套を受け取った。
「行こう、余り時間がない」
ゼルは外套を羽織りながらノタルに視線を向けた。
「外へ抜ける道は?この地下配管路から確か外に出られるんだったよな」
ノタルは息を呑み、すぐに頷く。
「南側の排気管をずっと辿って、大きく曲がるところがある。折れた配管がむき出しになってるから、俺の掘削道具、まだ置きっぱなしなんだ。そこを抜ければ、街の外へそのまま出られる、迷うなよ」
「恩に着る」
ゼルは頷き、リフの肩にそっと触れた。
「行こう」
「途中、かなり狭くなるから気を付けて」
ノタルがそう言い添えると、リフは小さく「うん」と返し、もう一度だけ振り返った。
暗い通路の灯に照らされたノタルが、そこに立っている。
「ノタル、元気で!!」
できるだけ明るい声でリフは叫んだ。
ノタルの肩が小さく揺れた。
何か言おうとして、喉の奥で言葉が詰まる。
さっき見た終身奴隷の焼印が脳裏から離れなかった。
「リフ、ごめん……俺、」
リフは首を振り、少しだけ微笑んだ。
込み上げる思いに耐えきれないように、ノタルはリフに駆け寄り、強く抱きしめた。
「……辛いこと、いっぱいあったんだろ。その肩の烙印、俺、見るんじゃなかったって」
ノタルはゆっくりとリフから離れ、両肩に手を置く。
「みんな絶対寂しがる。ヴォルガ様の部屋もまた散らかるし、ラティもグレンも、ミルミも。だからさ、辛くなったら、いつでも。待ってるから」
リフは唇を噛み、笑った。
「ノタル、たくさん優しくしてくれて、ありがとう。みんなに元気でって」
ノタルは声を返せず、ただ何度も強く頷いた。
リフはゼルのもとへ駆け寄り、二人は闇に沈む配管路の奥へと消えていく。
足音が細い通路に吸いこまれ、ほどなくして気配すら消えた。




