EP.18 襲来
長屋へ戻る道は、今年の収穫祭の終わりを告げるように静かだった。
露店の明かりは次々と消え、店主たちは残った品を片づけている。通りからは、笑い声も、音楽も、もう聞こえなかった。
ゼルは無言のまま、長屋の幌を押し上げて中に入った。
リフもあとに続く。
ゼルは黙って自分の荷をまとめはじめた。
勝負を受けた瞬間から、こうなることは多少は予想がついていた。
イサリスの声が、まだ耳の奥で残響のように響いている。
見つけた──
名を呼ばれた時点で、終わりだった。
ゼルは短く息を吐き、静かに告げた。
「夜明けには、この街を出る」
リフは、理由を問い返すことはなかった。
静かに「わかった」と答える。
「荷物なんて、もともとないし。すぐにでも行ける」
ゼルはわずかに視線を上げ、リフを見た。
「別れの挨拶は、出来そうにないな」
「いいよ、俺にはもう十分過ぎるから」
リフは部屋の隅に置いていた、肩掛けの革のカバンを手に取る。ミルミが「ボロボロ」と言って、渡してくれたものだった。
中に入れるのは替えの服と、錠剤のルーメンが詰まったタブレットケース、コアレット、ノタルからもらった灯石だけ。
これが最後の夜になると思うと、この狭い長屋でさえも、少しだけ名残惜しく思えた。
リフはいつも通りに横になり、ゼルも背を向けて目を閉じた。
出会ったばかりの頃は、ゼルが我が物顔で寝床を占領し、リフは隅で息を潜めるように眠っていた。
今では、ゼルが翼をたたみ、壁際に身を寄せてリフの場所を空ける、すっかりそれが当たり前になっていた。
互いの呼吸が微かに重なり、外の風が幌を揺らした。
……静寂。
ゼルがふと、目を開けた。
胸の奥に、ぞわりとした違和感、気配が走る。
そんなはずはない、あり得ない。
ゼルは眠るリフの肩に手を置き、低く囁く。
「起きろ、荷物を持て」
「え……?」
「いいから急げ」
自分の外套をリフの肩に掛け、背を押す。
「今すぐここを出ろ!」
その瞬間、突然、爆ぜるような衝撃音が夜を切り裂いた。長屋の幌が裂け、土煙と木片が宙に舞う。
ゼルは反射的にリフを抱え、転がるように外へ飛び出した。崩れた壁の向こう、闇夜の空から光の粒が降ってくる。
月明かりを背に受け、巨大な白銀の翼が音もなく舞い降りてきた。
空を覆う巨大な翼。
目の前に静かに降り立ったのは、
まだ瀕死のはずの──白い男。
イサリス。
月光を浴びたその姿は、もはや白蛇族とは似ても似つかない姿をしていた。
蛇に翼など、ありはしない。
リフは、見たこともない何かを見ていた。
「誤算でしたか?治癒力を見誤ったようですね」
イサリスはゆっくりと微笑んだ。
血の跡すら残さず、裂かれたはずの胸の傷もすでに塞がっている。
「そんなに驚かなくても、あなたも、僕と同じ側のはずでしょう?」
長屋から他の住人達が何事かと、ぞろぞろと外へ出てくる。
見上げた夜空から、白い影が二つ降りてくる。
イサリスの背後に、同じ白い外套を纏った影が二人、音もなく着地した。
ゼルはリフを背に庇いながら、告げる。
「いいか、咆哮窟まで走れ。ノタルがいつも整備してる配管整備路の地下入口、分かるな、そこで待ってろ」
「ゼルは……?」
「俺も後から行く」
「わかった」
「あと、頼みがある。ヴォルガの部屋から、ルーメンをあるだけ持ち出してくれ」
「絶対、来るよね」
「当たり前だ、勝手に置いていくなよ」
短く笑うゼルの背で、皮膜の翼が形を変え始める。
イサリスのものとは比べ物にならない巨大な翼が闇夜に広がり、風圧で、長屋の幌が吹き飛ぶ。
「リフ、行け!」
リフは飛び出し、咆哮窟の方向へと駆け出した。
イサリスが振り向かずに視線だけで命じる。
背後の二人のうち、一人が音もなくリフの前に降り立つ。
白い外套の裾が、月光を反射して不気味に光る。
「逃げることは、出来ない」
機械のような声。
リフは息を呑み、足を止める代わりに身を低く沈める。地を蹴って、影の脇をすり抜けるように駆け抜けた。
刹那、背後から風が唸りを上げる。
かまいたちのような風圧がリフの背を裂き、上着が破けて血が滲む。
「下がれ、リフ!」
ゼルの爪が閃き、リフを襲った影を一撃で弾き飛ばす。白い外套が宙を舞い、石畳に激しく叩きつけられた。
「大丈夫か」
リフは息を呑みながらも、小さく頷いた。
「行け!」
その声に背を押されるように、リフは再び走り出した。
焼けるような痛みに体が傾ぐも、振り返る暇はない。
ただ前へ、 咆哮窟の灯を目指して、必死に走った。




