EP.17 最終闘宴
収穫祭の最終夜──
咆哮窟には至るところに金木犀の枝が飾られ、甘い花の香りに包まれていた。
いつもは冷たく無骨な石壁も、この日ばかりは金色の花で飾られ、むせかえるような香気に包まれている。
上層の観覧席、黒豹族のヴォルガがゆっくりと立ち上がった。
「今宵は、金木犀祭の終わりを飾る特別闘宴だ。挑むは白蛇族、イサリス。迎えるは、無敗を刻み続ける蝙蝠族、ゼル。勝利者に賭けた観衆にも、今日一日の賭け金すべてと特別賞金を授ける!」
歓声が沸き上がり、熱気が一気に広がった。
屋台の酒を手にした獣たちが立ち上がり、観客席が揺れる。
「ゼル!」「ゼル!」その名を呼ぶ声が波のように広がる。
控え通路の奥では、他の格闘士たちが冷やかし混じりにゼルの背に声をかけていた。
「ゼル、今日も勝てよ!」
「お前に賭けてんだ、大金掴ませてくれよ」
「全員分の酒、奢る準備しとけよ!」
笑い混じりの声に、ゼルは片手を軽く上げて応えると、静かにリングを取り囲む檻へと歩き出した。
檻の反対側から現れた白蛇族イサリスは、白い外套の裾を翻し、静かに笑んだ。
肩で切り揃えた銀髪がサラサラと静かに揺れ、紅い瞳が暗闇で妖しく光る。
両者、歩を進め、沸き立つ観衆の声援と視線を浴びながら、リングを囲う鉄格子をくぐる。
「お手柔らかに」
イサリスは穏やかに微笑んだ。
観客席の端では、リフとミルミが息を詰めて見つめていた。ラティとノタルは、立ち上がって声を張り上げる。
その後ろで腕組みしたグレンが、無言で見守っていた。
鐘が鳴る。
飾られた金木犀の花びらが、檻の中に舞い落ちた。
戦いの幕が、上がる。
鉄の檻の中央で、二人は向かい合った。
イサリスは、均整の取れた細身の体に黒の密着衣をまとい、静かに微笑んでいる。
ゼルは上衣を脱ぎ、鍛え上げられた上半身が露わになっていた。
手首と拳には白いバンテージが巻かれ、節くれだった指が静かに握られていた。
まず、ゼルが踏み込む。
拳が振り抜かれる瞬間、イサリスの姿はすっと掻き消えた。
視界から消えた──
そう思った刹那、背後で気配が揺らぐ。
振り向くより早く、白い腕が首元に絡みついた。
喉元を締め上げるように腕が食い込み、次の瞬間には身体ごと宙を舞う。
ゼルの背がリングに叩きつけられ、鉄板が鈍く響いた。
観客席がざわめきに包まれる。
イサリスの一撃は流れるように速く、間合いを取る隙すら与えなかった。
掌の裏で受け止めようとしたゼルの腕が弾かれ、体勢を立て直す前に次の一撃が来る。
「ちっ、速ぇ……!」
蹴りが脇を掠め、視界が揺れる。反射的に距離を取るが、イサリスはすでに次の位置に立っていた。
息を整える間もなく、白い影が再び視界の端を掠める。
攻撃は重くはない。だが、確実に急所を狙い、迷いがない。
ゼルは初めて、自分が追う側ではなく、追われる側に立っていると悟った。
「本気を出さないと、当たりませんよ」
イサリスは、耳元で静かに囁いた。
吐息がかすかに触れる距離。ゼルは歯を食いしばり、拳を振り抜く。だが空を切る。
すぐさま反転し、もう一撃。
その拳は、白い影を捉える事は出来ない。
イサリスの姿は一瞬ごとにぶれては消え、背後、横、正面と現れる。
「その姿のままでは、僕に勝つことはできませんよ」
イサリスの声は静かで、どこか哀れむようだった。
言葉と同時に、肘が閃く。
ゼルの脇腹に鋭い衝撃が突き刺さり、ゼルは膝から崩れ落ちる。
観客席がざわめきに包まれた。
「は、早ぇ……!」
グレンが思わず身を乗り出す。
「見えねぇ、動きが……」
ミルミは両手を胸の前でぎゅっと握りしめた。
「まけない、よね?」
ラティとノタルが顔を見合わせ、言葉を失う。
「だ、大丈夫……だよな……?」
リフは声を出せず、ただ手を組んだまま、リングを見つめていた。
イサリスは涼しい顔で観客席に視線を向けた。
観客の熱狂をよそに、身を屈めゼルの耳朶で囁く。
「もしあなたが負けたら、最初にあの人間を殺します」
ゼルは驚いて顔を上げた。
見開かれた瞳孔の奥、紫が一瞬、紅を孕んだ。
──そして、すべての音が消えた。
観客のざわめきも、
鉄格子の軋みも、
金木犀の花びらが散るその音でさえも。
まるで世界そのものが息を潜めたかのように。
そして次の瞬間、
「……ッ──グゥォオオォォォッ!!」
生き物の声とは思えぬ咆哮が、檻の中を突き破った。空気が弾け、地を這うような振動が咆哮窟全体を揺らす。
音ではなく圧として叩きつけられるような叫び声。
獣の叫びとは明らかに違うそれは、観客席の獣達を本能的に震え上がらせた。
イサリスの口角がゆっくりと吊り上がり、次の瞬間、理性の皮が剥がれ落ちたように叫んだ。
「見つけた!見つけた、見つけた、見つけたぁぁぁぁああッ!!!」
ゼルの背に、裂けるような亀裂が走る。
黒い膜翼の表面が砕け、下から金属の光沢を帯びた巨大な鋼色の鱗翼が姿を現した。
翼の鱗が光を反射し、バチバチッと派手な音を立てて紫電を散らす。
翼の先端には、巨大な鉤爪が現れ、指先にも同様の鉤爪が長く伸びる。瞳が燃えるように紅く染まり、視線ひとつで空気が軋んだ。
観客が息を呑む。
この瞬間、檻の中の男はもう蝙蝠族ではなかった。
「間違いない、ようやく辿り着けました」
イサリスはニタリと笑って一歩前に出た。
「隠し通すには無理があったようですね、ゼルヴァルド=セレス=エルネスタス」
聞き慣れない名前をイサリスが口にした刹那、視界からゼルの姿が消えた。
いや、消えたのではない。
速い。
気づいた時には、ゼルがもう目の前にいた。
その手がイサリスの首を掴み、容赦なく捻り上げる。
「……ぅ……あ、ぁ……ッ……」
次の瞬間、しなやかな体躯がリングに叩きつけられた。
ゼルはそのまま倒れた身体を掴んで左右の檻へ叩きつける。
壁が鳴り、観客の悲鳴が上がる。
さらに勢いをつけて、天井へ。
打ち上げられた身体が鉄檻にぶつかり、落下した背中を鋭い爪が裂いた。
「ぐぁぁぁぁぁあッ!!!」
鮮血が噴き出し、赤い軌跡を描いて肉片が飛び散る。掴み上げた首が、無防備に揺れた。
そして、翼の鉤爪が突き出され、胸を一撃で貫いた。血飛沫が静かにリングを叩き、観客の呼吸さえ止まる。
「勝敗は決したッ!!!鐘を鳴らせ!!」
観客席からグレンの怒号が響いた。
だが、鐘を打つ係の獣族も、審判も、呆然としたまま立ち尽くしている。
視線はまだ、血に濡れたリングの中央から動けずにいた。
「チッ……!」
グレンは舌打ちし、観客席の柵を飛び越える。
そのまま鉄檻の上を蹴ってリングに飛び上がり、鐘を打ち鳴らした。
カァァァン──!
甲高い鐘の音が、静まり返った空間に響き渡った。
「勝者!蝙蝠族ゼル!!」
グレンの叫びが静まり返った観客席に響き渡った瞬間、ようやく観客席から爆発するような歓声が湧き上がった。
歓声の渦の中、グレンはリング中央へ駆け寄り、血の海に倒れたイサリスを指さした。
「まだ息はある!急いで運べ!」
医療班の獣族たちが慌てて担架を持って駆け込む。
グレンは素早く外套を脱ぎ、無言のゼルに投げ渡した。
ゼルはそれを無造作に受け取り、背に広がる翼を覆う。
グレンは、目の前の男を見た。今のゼルは言葉にできない“何か”だった。
「お前、」
平静を装おうとして、グレンは胸の奥に残る震えを無理やり押し殺すように息を吐いた。
「ったく、心臓が止まるかと思ったぜ」
グレンはすぐに口の端を上げる。
「で?勝ったんだろ。分け前、忘れんなよ」
「分け前ならヴォルガに言え」
外套の裾を整えながら、答えた声はいつものゼルだった。
グレンはそれを受け、安堵するように口端を上げて笑んだ。
ゼルは視線を観客席の奥へ向けた。
イサリスを運び出す担架の列が消えていくのを、どこか遠い眼で見送り、そのまま、ゆっくりと視線を巡らせる。
観客席の奥に、リフの姿が見える。
その姿を確認すると、ゼルはリングを降りて、真っ直ぐ進んだ。
湧き上がる歓声の渦の中、ラティとノタルが駆け寄ってきた。
「すごかった」
「やったな!」
口々に声を上げる。
けれどゼルは何も言わず、通りすぎた。
リフの前まで来ると、ゼルは足を止め、周囲を一瞥してから、低く囁く。
「今すぐ、ここを出る」
「……え?」
まだ歓声は鳴り止まない。
だがその音が、これほど遠くに感じたのは初めてだった。




