EP.14 金貨と白蛇の影【⭐︎挿絵】
朝の空気は冷えており、咆哮窟の外周通路には、人の少ない時間帯特有の静けさが残っていた。
「じゃあ、夕方にね」
「ああ」
ゼルは返事と同時に片手を軽く上げ、外套の留め具に指をかける。
ふと、通路の端に、小さな白が目に留まった。
俯いたまま、細い腕を胸の前に寄せ、長い耳がかすかに揺れている。
リフは一歩、距離を詰めた。
「おはよう」
「……お、はよう」
声が途中で途切れ、ミルミは俯いた。
それから、そっと顔を上げる。
漆黒の外套の奥で、ゼルの視線と一瞬だけ重なった。
ゼルはリフの頭に手を伸ばし、軽く髪をかき乱す。
「今日は殴られるなよ」
それだけ言って踵を返し、外套を揺らして奥へ歩いていった。
リフは通路の先へ向き直り、ミルミの方を見た。
「行こうか」
「う、うん」
リフはそのまま歩き出す。少し遅れて、足音が重なった。
「あの……さっきの……こうもりの人と……」
言葉が途切れ、ミルミは指先をもぞもぞと動かした。
「しりあい、?」
「うん」
リフは前を向いたまま、歩調を変えずに続ける。
「一緒に来ただけだよ」
「……すごくつよい」
「強いね」
リフは歩きながら、ゼルのことを思い出し、小さく微笑んだ。
「少し前までは、負けてばっかりだったけど」
簡易デスクの角が見えてくる。
簡易デスクの前で、帳面を広げていた鼠族のラティが、二人に気づいて顔を上げた。
「おう。来たな、リフと、ミルミもか」
ラティは帳面に目を落とし、ペン先を走らせた。
「今日の予定だ。午前は観客席とその通路。午後は、総元締の部屋だ」
「……ヴォルガさまの、おへやを……?」
ミルミの耳が立ち上がり、赤い目に一瞬、光が宿る。
ラティは帳面から目を上げ、ちらりとミルミを見た。
「リフと一緒に、手伝ってみるか」
「一緒だと、助かるよ」
ミルミは小さく頷き、口元をきゅっと結んだ。
二人が歩き出そうとしたとき、リフがふと思い出したように尋ねた。
「そう言えば、獅子族の格闘家の人は、ここには居ないんだね」
ミルミは首を傾げ、少し考える。
「……みない、かも」
ラティは鼻先を鳴らし、帳面を脇に置いた。
「獅子族か。最近は名簿にねぇな。前は強い格闘士が何人かいた気もするけど。どうしたのか?」
「なんでもないよ。掃除、行こう」
リフはそう言うと、ミルミと一緒に持ち場へ向かった。
遅れてモグラ族のノタルがラティのもとに顔を出した。
「あの人間、リフ。もう来たか?」
「ああ。さっき観客席の方へ行った」
「早ぇな」
ノタルは肩をすくめ、腰のあたりを探るように手を動かした。
「これ、渡そうと思ってたんだけど」
ノタルは一瞬だけ黙り込み、手の中のものを握り直した。
「なんだ、それならリフに渡しといてやろうか」
ノタルは手の中の小さな石、灯石をじっと見つめ、しばらく黙っていた。
石の表面に指を滑らせると、かすかにぬくもりが広がる。
「いや、いい。自分で渡す」
その声には、どこか照れくささが混ざっていた。
「もうすぐ寒くなるしな。あいつ、手、冷たそうだし」
そう言って、額にかけていたゴーグルを引き下ろす。
「リフは今日は午後から総元締の部屋だ。早上がりだから、終わったら出会えるさ」
ノタルは短く呟き、灯石を大事そうに握り直して、配管設備のある地下へ降りて行った。
*
格闘技場の歓声が、厚い壁を震わせて控え室まで届いていた。
ゼルは座ったまま、手首のバンテージを締め直していた。そこへ、半獣人の熊族が近づき、にやりと笑った。
かつての相手だが、今は挑む気配もない。
「なぁ、知ってるか?先週いきなり現れた連戦連勝のやつ」
ゼルは整え終えた手首を軽く回してから、顔を上げた。
「お前とやりたいって、あちこちで吹聴してるらしいぜ」
その直後、格闘技場の方から轟くような歓声が起こった。熊族がニヤリと笑う。
「今の大歓声、そいつだ」
ゼルは目を細め、ゆっくりとした動作で立ち上がる。
「俺は今日、勝てば借金が消える。それだけでいい」
軽く肩を回すと、無言で控え室を出た。
「相変わらず愛想のねぇやつだな」
*
格闘技場からは、まだ歓声が続いていた。
入場通路への角を曲がったとき、ひとりの男が出てきた。
白磁のようななめらかで白い肌、
肩で切り揃えられた白銀の髪、赤い瞳。
滑らかな黒衣に包まれた体は細く、しなやかだった。
立ち姿は微動だにせず、周囲の気配だけが、そこから遠ざかっていく。
突然現れたという連戦連勝中の、白蛇族。
すれ違う寸前、ゼルと肩が微かに触れ合う。
白蛇族の男は何も言わず、ただ微笑んだ。その笑みが、冷たい刃のように一瞬、ゼルの胸をかすめた。
ゼルはちらと視線を向けただけで、何の感情も見せずに進んだ。
*
午後の光が長く差し込む頃、リフとミルミは指示通り、総元締の執務室の扉を静かに押し開けた。
「失礼します。掃除に来ました」
リフに続いて、ミルミは小さく頭を下げる。
部屋の奥で戦績報告の束に目を落としていた黒豹族の総元締ヴォルガが、ゆっくりと顔を上げる。
視線がミルミを通り過ぎ、リフのところで止まった。
「お前か。俺のコレクション、また盗まんでくれるなよ」
リフは肩をすくめるだけで受け流し、ミルミは慌てて首を横に振った。
ヴォルガは喉の奥で笑い、手をひらりと振る。
「冗談だ。まあ、今日も頼んだぞ」
そう言って、机の上の書類をまとめ始める。
ミルミは返事を忘れたまま、部屋の中を見回していた。
厚い絨毯、壁に掛けられた装飾、机の奥に置かれた獣骨の彫刻。息を吸い込み、静かに吐く。
リフは、その横顔にふと視線をやり、思わず口元をゆるめたあと、何事もなかったようにモップへと手を伸ばした。
そのとき、扉が控えめにノックされた。
「入れ」
入ってきたのは、用心棒のグレンだった。
「総元締、来客です。話があるそうで」
グレンの隣に立つ獣人を見て、リフは思わず掃除の手を止めた。
滑らかな黒衣の上に白い外套を羽織り、肩で切り揃えられた白銀の髪が光を乱反射している。透き通るような肌と紅の瞳は、周囲とは異なる気配を帯びていた。
男はゆっくりと一礼した。
「失礼いたします、ヴォルガ殿」
「蛇か、」
「さようで」
男は上品に、そして静かに笑む。
「名は?」
「白蛇族の、イサリスと申します」
イサリスは、しなやかに腰を折った。
ゆるやかに顔を上げ、紅の瞳がヴォルガを見据える。
「取引をお願いしたく参りました。蝙蝠族の男、あの格闘士と次の試合で対戦したい」
手にしていた上質な革の袋を卓上に置く。
袋の口から、金貨の光がこぼれた。
ヴォルガは、椅子の背にもたれていた体をゆっくりと起こした。
「ほう、理由を聞こうか」
白蛇はゆるやかに微笑む。
「少し、気になるだけです」
その言葉と同時に、金貨の袋が開き、ざらりと音を立てて溢れた。ヴォルガの瞳が、金貨の光を映して鋭く細くなる。
「悪くない額だな」
低く呟きながら、一枚を指先で摘み上げ、表面に彫られた模様を、光の下でじっと見つめた。
「見慣れない刻印だな。太陽を、呑み込む蛇か。ずいぶん縁起の悪い模様をしてるな」
「遥か北の氷原で流通しているものです。こちらの南の土地では滅多に見かけないかもしれませんが、価値は保証しますよ」
「質がいいのは見れば分かる」
「さすが、真偽を見極める目をお持ちで」
「目的はなんだ」
「目的などありません。あの男の戦い方に、少々懐かしさを覚えまして」
ヴォルガは鼻を鳴らし、唇の端で笑った。
「何の目的もなく、これだけの金貨を積むのか。なかなか笑わせてくれる」
「笑っていただけるなら、それで結構です」
イサリスは頭を下げ、もう一袋、皮袋を卓上に置いた。
革紐を解いて指先で袋の口を軽く押し広げると、淡い音を立てて机の上に更に金貨が散らばった。
「これで、試合の順を、少しだけ早めていただければ」
部屋の空気が、わずかに張りつめた。
ミルミはそっとリフの袖をつかむ。
「……だい、じょうぶ……?」
リフも頷きながらも、目を離せなかった。
「ゼルを呼べ」
グレンは一瞬だけ主の顔を見てから、静かに頷いた。
リフとミルミに声をかけ、扉の外へと誘導する。
「行くぞ。お前たちは今日はもういい」
二人は顔を見合わせ、小さく頷いた。
扉が閉まる直前、ヴォルガの机の上で金貨が崩れて軽やかな音を立てた。
その澄んだ響きだけが、妙に長くリフの耳に残った。
*
試合を終えたゼルは、汗の残るままヴォルガの執務室に入った。両手首と拳には、まだバンテージが巻かれている。
椅子に凭れたヴォルガの前に、白い外套を纏った男が立っていた。ヴォルガは口角だけをわずかに上げ、ゼルに向かって顎をしゃくる。
「この白蛇がな、お前と戦いたいらしい」
白い外套を纏った男──イサリスは、静かに一歩前に出た。
「初めまして。白蛇族のイサリスと申します」
肩で切り揃えられた白銀の髪が、動きに合わせてわずかに揺れた。差し出された白い手を認めながら、ゼルは何も言わず、視線だけを逸らした。
「用件はそれだけか?」
ヴォルガは、卓上の革袋をゼルの前に軽く押し出す。袋の口からあからさまに金貨が零れ出ていた。
「これを全て賭けるらしい」
イサリスは唇に淡い微笑を浮かべる。
「もし貴方が勝てば、更にこの倍を支払いましょう」
ゼルは金貨を一枚、手に取った。
「極北ノルディア地方の、氷冠金貨か」
「巷には滅多に出回らない貨ですのに、よくご存じで。どちらの生まれで?」
ゼルは答えなかった。代わりに「試合は受ける」と鋭く返答した。
「ありがとうございます、楽しみにしています」
イサリスは満足そうに目を細め、執務室を後にした。
「さて、あんな胡散臭ぇ白蛇に目ぇつけられるとは、どういうことだ。面倒ごとはお断りなんだがな」
ヴォルガは卓上の金貨の詰まった革袋を横へ押しやり、ゆっくりと立ち上がった。
「お前、ここ最近やけに勝ち続けてるな。俺のコレクションを飲み干してからか。怪しいのは百も承知だが。まぁいい。客が喜ぶ上に、大金が手に入るとなれば、俺も大いに満足する」
「金貨には興味がない」
「知ってる。顔に書いてある」
ヴォルガは笑い、金貨を一枚手に取った。
太陽を、呑み込む蛇が刻印された縁起の悪い紋様。
「珍しい貨幣だ。まさかとは思うが」
ゼルは一瞥をくれただけで口を開く。
「本物だ、間違いない」
「どうして分かる」
「見れば分かる」
「……本当に面倒くせぇ」
ヴォルガは指先で金貨を弾いた。
「どうだ?あのお綺麗で不気味な奴に、勝てそうか」
「さぁな、勝てるかどうかなんてやってみないと分からない。それに、勝っても、欲しいのは金貨じゃない」
「じゃあ、何が欲しい」
短い沈黙ののち、ゼルは低く答えた。
「前に、あんたの棚にあったルーメン。あれと同じものが欲しい」
ヴォルガは眉を寄せる。
「残念ながら、あれは、もうない」
低く呟き、棚の奥へと身体を向ける。
「あれは、賭けに負けた孔雀族の貴族が借金のカタに置いていったもんだ。麒麟属から譲り受けた神獣のルーメンらしいが、金持ちのコレクションってやつだ」
ヴォルガは棚を開け、奥から別の瓶を取り出す。
「質はかなり落ちるが、これはお前が飲んだのと同じ系統のやつだ。そこそこ濃度も高い」
ゼルは瓶の中で淡く光る液体を覗き込んだ。
「やるよ。俺には金貨ほどの価値はない」
そう言って棚を探り、ヴォルガは残っていた瓶を全て取り出した。
「どこに行けば手に入る」
「この街じゃ無理だな。“マーケット・ゼロ”って場所がある。あそこになら何でも揃う」
「マーケット・ゼロ?」
「あぁ。麒麟属領地にある巨大な商業都市だ。物でも人でも、金さえ出せば何でも手に入る。欲しいなら、そこへ行け」
「覚えておく」
「金があれば、の話だがな」
ヴォルガは笑い、背もたれに身を預けた。
ゼルは瓶を懐に収めると、部屋を後にした。
*
執務室を出ると、廊下の空気がひんやりと肌に触れた。
リフはモップを持ち替え、歩調を落としてミルミの隣に並ぶ。
「……へいき、かな」
足元を見たまま、ミルミが小さく零す。
「さっきの……しろいひと」
「うん」
短く応じたきり、リフはそれ以上言葉を挟まなかった。
しばらく歩いてから、ミルミがまた口を開く。
「……ヴォルガ様のおへや、すごかった」
「そうだね」
高い天井を思い出すように視線を上げかけ、リフは前に向き直る。
「……わたし、獣人に、なれたらって……おもう」
言葉が途切れ、少し間を置いてから、ミルミは続けた。
「……へん、かな」
リフはミルミを見て、歩みを緩めた。
「変じゃないよ」
「うれしい」
ミルミは小さく頷き、口元をそっと緩めた。
*
夕刻、壁にもたれるように立っていたゼルが、足音に気づいて顔を上げた。外套の影に隠れた表情は、試合の熱をまだ帯びているようだった。
「終わったか」
ゼルが声をかけると、リフは短く頷く。
一歩近づき、少し迷ってから口を開いた。
「さっき来てた、白蛇族って」
「あぁ、面倒なのに目をつけられた」
リフはそれ以上踏み込まず、ただゼルの前に立った。
しばらくして、ゼルが手を伸ばす。指先が、そっとリフの頭に触れた。
「心配すんな」
その手が離れると同時に、ゼルは歩き出した。
リフも何も言わずについていく。
背後では、格闘技場の喧騒がまだ遠くでくぐもっていた。




