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この世界で、君だけが獣を王にした  作者: そよら
フェーズI 裏路地で、獣は奪う
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EP.12 小さな日常

 昼下がりの光が、長屋の入口の粗末な幌の裂け目から差し込んでいた。冷えた床がじんわりと温もりを含み始めている。


 リフは、目を開けて初めてその明るさに気づいた。

 珍しく、昼過ぎまで眠っていたようだった。


 肩には、ゼルの外套がかけられていた。

 いつのまに、と小さく息を吐く。


 身体の芯まで溜まっていた疲労が、ようやく抜けた気がした。こんなに熟睡したのは、いつ以来だろう。


 部屋を見渡すが、ゼルの姿はなかった。

 きっと、もう咆哮窟へ出掛けたのだろう。


 昨日、総元締の黒豹族ヴォルガが口にした言葉を思い出す。


 『雇ってほしかったら、次はあの蝙蝠と一緒に来い』


 リフは簡単な支度を済ませて、外に出た。

 街路は、いつもと変わらない。濁った風、行き交う獣族たちの喧騒、疲れ切った人間達の様相。

 それでも、今のリフの足取りは昨日より軽かった。


 通りを曲がり掛けた、その時だった。


「おいッ!!」


 聞き覚えのある声に、全身の血が逆流するような感覚に襲われる。振り返ると、数メートル先に元雇主の蜥蜴族の男が立っていた。


「生きてたのかよ。てっきり、くたばったと思ってたぜ」


 鉄の棒を肩に担ぎ、冷たく笑ってくる。


「おいおい、どのツラ下げて歩いてやがるんだ」


「えっ、いや……」


 長い尻尾が地面を打ちつけ、乾いた音が響く。

 その音に、リフの肩がびくりと震えた。


「くたばってないなら、なんで仕事に来ねぇ?俺の手間、誰が埋めてくれるんだ」


 その手に握られていたのは、人間を躾けるときに使われる折檻棒。蜥蜴族はそれを手の中で楽しそうに軽く弾ませる。


 リフは思わず一歩、後ずさった。


「下僕のくせに勝手に消えやがって!誰の許可取って歩いてんだ!」


 蜥蜴族は怒鳴りながら、鉄の折檻棒を横に薙いだ。

 鉄の先端がこめかみを打ち、足元がもつれて、その場に崩れ落ちる。


「……ちが……う…、……」


 言葉の途中で、鉄が背を打った。

 息が詰まり、声が途切れる。


「……痛い……っ、やめ……」


 倒れ込んだ背に、容赦のない打撃が続いた。

 周囲を通る獣族たちは、一瞥をくれるだけで通り過ぎていく。


「そのくらいにしとけよ。蜥蜴のおっさん」


 ふいに、暴力の嵐が止んだ。

 頭上から聞こえた声に、リフは恐る恐る顔を上げた。


 蜥蜴族の手首を掴んでいたのは、見覚えのある咆哮窟の用心棒だった。

 虎族の獣人で、精悍な顔立ちの頬からこめかみにかけて、黒と淡い金色の線が皮膚に沿って走っている。


「は?なんだてめぇ」 


 虎族は気だるげに首を鳴らし、引き締まった口元に、鋭い犬歯をわずかに覗かせた。


「別にてめぇの邪魔をする気はねぇよ。ただ、そいつ、ウチで雇ってるんだ」


「何寝ぼけたこと言ってやがる」


「殴る相手、間違ってるぞ。別のとこ行け」


 蜥蜴族は鉄棒を握り直す。


「こいつは俺のもんだ。勝手にしゃしゃり出てくんじゃねぇ」


「おいおい、丁寧に話してるうちに、分かれよ」


 低い声とともに、虎族は重い足音を軋ませ、一歩踏み込んだ。

 蜥蜴族は舌打ちをして、鉄の棒を放り投げた。


「チッ……勝手にしろ」


 そう言い残して、尾を引きずりながら去っていく。


「あの、」


 リフはゆっくりと顔を上げ、息を整えながら口を開いた。


「……ありがとう」


「気にすんな。あいつら爬虫類はねちっこいからな、また絡まれたら面倒だろ、一緒に行くか?」


 リフが軽く頷いたのを見て、虎族は歩を進めつつ名を告げた。


「グレンヴァルドだ。面倒ならグレンでいい」


「俺はリフ」


「そうか、リフ。で、蝙蝠のやつはどうした?置いてかれたのか?」


「いや、俺が寝坊してただけで」


「ふうん、冷てぇ相棒だな」


 グレンは苦笑しながら前を向く。


「起こさなかったのは、きっと優しさなんだと思う……」


「優しさね、」


 グレンは安心した様に笑んだ。 


 通りを抜ける途中、甲冑姿の巡視兵が二組、視界を横切った。黒豹族が王として統べる、この国の獣人とは明らかに違う。鎧の縁に、赤と黒の尾羽でかたどられた紋章が鈍く光る。


「最近、巡視兵がやたらと多いな。それに、さっきの、見ねぇ紋章だ」


 リフは何も答えず、フードを深く引き下げる。


「絡まれると面倒だな。人間に難癖つけて、ルーメンの実験施設に送り込むのが、あいつらの仕事だからな」


 リフの歩幅が、わずかに乱れる。


「離れるなよ」


 歩調を落とし、グレンは自然とリフを自分の影に入れる。


 咆哮窟へと続く地下への入口がすぐそこに見えてきた。

 リフはふと立ち止まる。


「ちょっと、待って」


 足元に咲いた小さな草を摘み取り、指先で葉を折り取る。


「それ、どうするんだ?」


「手当てに使えるんだ、お茶にもできる」


 こめかみの血が滲んでいるのを見て、グレンは怪訝そうに眉をひそめた。


「そんな道端の草なんかより、咆哮窟にゃ手当て用のキットがある。お茶なら、質のいい香り茶もあるから、あとでやるよ」


「ありがとう。でも、慣れてるから」


「慣れてるとか言うなよ」 


 グレンは視線を逸らし言った。


「この街は確かに人間に冷てぇ。獣人も、半獣人も、酷い奴が多い。けど、全員がそうじゃねぇ」


 リフは少しだけ驚いたように目を瞬かせ、それからふっと笑った。


「そう、だね」


 わずかに息を吸い込み、そっと目を伏せる。


「じゃあ、お言葉に甘えて、貰おうかな、その香りの良いお茶っての」


「傷薬もあとで届けさせてやるよ」


「ありがとう!!グレン」


 グレンはリフの背をひとつ叩き、豪快に笑った。


 *


 咆哮窟の格闘技場の裏手の通路を、グレンは慣れた足取りで進み、小さな受付台の前に立った。


 そこには、灰色の毛並みをした鼠族の半獣人が帳面を広げ、忙しなく尻尾をぱたぱたと揺らしていた。


 グレンが短く告げる。


「こいつ、今日からここで働く」


 鼠族の半獣人は片方の耳をぴくりと動かし、帳面から顔を上げた。短い毛に覆われた顔の奥で、口元のヒゲをわずかに震わせながら、真っ黒な瞳がリフを見据える。


「人間が?誰の許可取ってんだ、グレン」


「総元締だよ」


「ヴォルガ様か!はっ、あの人も物好きだな」


 鼠族は鼻を鳴らし、リフに向かって告げる。


「ここは咆哮窟の、清掃や管理の統括窓口だ。俺はラティ。とりあえず清掃班に混ざれ、出来るか?」


 リフは短く頷く。


「昼のうちはリング周りの清掃だけでいい」


 そう言って、鼠族の男ラティは、布切れと刷毛、木製モップが入っている籠を手渡してきた。

 ラティが差し出した籠を、リフは両手で受け取った。


「がんばります」


 横で見ていたグレンが、軽く肩を叩く。


「初日だから適当にな、荒い奴が多いが、命まで取られやしねぇ」


「おい!!適当でいいわけないだろ!これだから、力仕事しか脳がない肉食獣は、掃除一つにも情熱がねぇ」


「情熱持ってどうすんだ、掃除に?」


「清潔は文明の象徴なんだよ。あんたら野蛮な肉食獣には縁がなさそうだがな」


「へぇ、言ってくれるじゃねぇか、チビ鼠」


「体格差で勝てると思うなよ、デカ虎」


 ふたりのやりとりに、リフは思わず笑みを零した。


「なんだ、人間。怖がってるかと思ったら笑う余裕あんのか。まぁ、慣れりゃ他の仕事も回してやる」


「助かります」


 リフはラティから渡された籠を抱え、薄暗い通路を進んだ。


 *


 昼を過ぎた咆哮窟は、まさに戦いの熱気の只中にあった。

 観客席の通路は、興奮した観客の投げ捨てたゴミで溢れ返っている。


 リフは小さな身体を折りたたむようにして、打ち捨てられたゴミを一つずつ拾い集めていった。


 観客席の段の合間を縫うように進んでいると、少し先で、真っ白い毛に覆われた長い耳が揺れた。

 座席の下に伏せた誰かが、自分と同じように、散らばったゴミを拾いながら手を動かしているらしい。


「邪魔だって言ってるだろ」


 苛立った声とともに、座席の縁から突き出された脚が、足元で動いていた身体を蹴り払った。

 小さな身体が通路へ転がり出る。


 散らばったゴミの中に、白く柔らかそうな毛に覆われた小さな身体が横たわっていた。

 床に伏せた頭の横で、長い耳が遅れて持ち上がる。

 赤く丸い瞳が大きく開かれ、短い鼻先の脇で、細いひげが震えた。

 人の子に近い輪郭をしているのに、その顔立ちは獣の血を否応なく示していた。兎族の、半獣人の少女。


 目が合った途端、赤い瞳は伏せられ、慌ただしく床に手を伸ばして、散らばったゴミを拾い始める。

 リフは籠を持ったまま、その場に屈み、兎の子と並んで床のゴミを拾い始めた。


「……ひ、と……?」


「今日から、ここで働くことになったんだ」


 兎の子はちらりと顔を上げ、すぐに視線を落とした。

 リフは何も言わず、屈んだまま床のゴミを拾い続ける。

 兎の子も、少し遅れて手を動かし、散らばった欠片を掴んだ。


「あの……」


 兎の子が小さく息を吸う。


「……ミルミ、っていうの」


 拾っていた手を止めたまま、また視線を床に落とす。


「俺は、リフだよ」


 ふいに、観客の歓声と怒号が一際大きく響き渡った。

 リフは手を止め、顔を上げる。

 観客の隙間から、リングの中央に立つ漆黒の翼の背が見えた。


 ──ゼル。


 照明を受けたその背は、動かないまま、場の熱気を押し留めているように見えた。

 歓声と衝撃音が混じる中で、リフは呼吸を忘れていた。

 観客の歓声がさらに高まる。


 隣で、ミルミの耳がぴんと立つ。赤い瞳が瞬きもせず、その姿を追っている。

 ミルミは、リングから目を離さないまま、小さく呟いた。


「……いつか、あんなふうに」


 そう呟くと、ミルミは籠を抱え直し、そのまま通路の奥へ走り去った。

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