EP.1 リフ
小雨が裏路地の隅々を濡らしていた。
排水路に溜まった泥は重く、掻き出してもすぐに水に沈む。
休む暇はなかった。
他の人間はもうすでに引き上げていて、ひとり取り残された青年──リフだけが、膝をついたまま排水路に取り残されていた。
明るい茶褐色の髪は雨に濡れて頬に張り付き、袖を捲った腕には、古傷がいくつも走っていた。
路地の奥、屋根下から、鈍い緑の鱗を頬に残した蜥蜴族の雇主が、その様子を見下ろしていた。
獣の気配を色濃く残す、獣人になりきれなかった半獣人──
「まだ、終わらねぇのか」
リフが顔を上げる間もなく、蜥蜴族の手が肩を掴み、壁際へと押し付けた。
押しつけられた拍子に、左肩に貼りつけていた薄布がかすかにずれた。
それだけで、リフの全身が強張る。
(やめッ……)
「なんだ、その目は。立場分かってんのか?」
爪先が食い込み、上着の越しに肩が軋む。鋭い感触が、骨の近くまで届いた。
上着の襟元がわずかに引き下げられる。
露わになった肌の隙間から、左肩に刻まれた烙印が覗きかける。
(見られる!!)
血の気が引く。
「い、今終わったところで……」
「使えん人間だ」
蜥蜴族は舌打ちして手を離した。
懐から銅貨を二枚取り出すと、ひとつを指先で弄び、わざと投げ捨てた。
金属の音が水たまりを弾き、泥に沈む。
「文句があるなら、明日は来なくていい」
喉の奥が詰まる。それでも口端を持ち上げた。
「明日も来ます」
蜥蜴族は鼻を鳴らし、苛立たしげに尾を床に打ちつけた。
「次はもっと早く終わらせろ。雨が止む前にな」
足音が遠ざかり、雨音だけが残った。
視線を落とすと、濁った水たまりの底で、銅貨が鈍く光っていた。
指先が、わずかに震える。
──まだ、終われない。
胸の奥に浮かんだのは、顔も輪郭も曖昧なままの記憶だった。あの場所を出た日から、何度も思い出してきた声。名前も、行き先も分からないまま、探し続けてきた気配。
(生きていれば、いつか)
リフは水たまりに手を伸ばし、銅貨を拾い上た。
手の中のそれを握ったまま、静かに背を向ける。
裏路地の石畳を抜け、歩を進めながら、肩にかけていた古びた布のフードを深く被った。
フードの奥にある整った輪郭の横顔は、年若さの割に血色が薄い。その細い体つきは、この街の労働に向いていなかった。
噴水広場に差し掛かった時、薄暗い空気がざわりと揺れた。黒豹族の巡視兵の影が、通りの奥から迫ってくる。
「全員足を止めろ!逃亡した実験体がこの区画に紛れた可能性がある」
怒声が響き、仕事帰りで混み合う通りの人間たちが足を止めた。
「さっさと出てきて並べ!」
人間たちがひとり、またひとりと広場に集まり、肩を寄せ合うように列が作られていく。
獣人、半獣人、獣、人間。
この世界で、人間はいつも最後に並ばされる側だった。
列の後ろで、誰かが低く呟いた。
「そんなに人間を捕まえて、何がある」
「あるさ。向こうの施設が空いたんだろ」
「登録証がなくても、難癖つけりゃいい。どうせ、人間なんて余ってる」
列に並んだものたちの囁きは、互いの肩越しに、押し殺されるように交わされていた。
「ぐずぐずするな、登録証の照合だ!」
その言葉に、リフは息を呑み、無意識に唇を噛む。
(登録証……)
胸の奥が、すうっと冷えていく。
(持って、いない)
逃亡中の終身奴隷であることが露見すれば、また、あそこへ戻される。
あの白い部屋──
手足に食い込む金属の輪。
腕に刺さった管を流れる液体は、焼けるように熱く……
戻されるくらいなら、いっそ、殺されたほうがましだった。
「立ち止まるな、順に並べ!」
怒鳴り声に背を押されるように、リフも列の端へ歩み出た。小さく息を飲み、視線を落とす。
逃げるか。
逃げないか。
どちらを選んでも、待っているのは同じ結末。
リフは、息をひとつ殺し、列を離れた。
気配を悟られぬように、静かに横へ抜ける。
そして、次の瞬間。
石畳を蹴り、全速力で駆け出した。




