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はるかな夜の物語  作者: 前田留依


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最終章 闇の主と代替わりの秋6

「ほら、大嫌いって言ってみて」


 紀枝の快活な声に誘われて、実来は「だいきらい」と唇を大きく動かす。

 嫌いだと相手にぶつけているのに、氷結した憎しみのような怒りのような感情がゆるりとほぐれていった。

 実来は、もう一度「大嫌い」と唇を懸命(けんめい)に動かした。


 自分を呪っていたはずの紀枝なんて大嫌い。

 紀枝のせいで後ろめたくて辛かった。

 紀枝のことがあったから、お祖父ちゃんは()れ物を扱うようにわたしに接する。

 紀枝なんて、本当に大嫌い。

 大嫌いだ!


 いつしか実来は、紀枝の胸を殴りながら息だけで声を伝えようとする。

 切ない思いと()もった息が身にかかる度、紀枝は実来の背を優しく叩いた。


「……だ……い、き、らい」


 風音のような息の中に、ほんの少し実来の声が混じる。

 その五文字が身から出ると、(わず)かに心を凍り付かせていた孤独が溶けた。

 すると、薄暗い裏庭に、陽光が着物の帯のようにたらりと降りてくる。

 太陽を感じるのは、夏だけだと思っていた。

 凍てつく季節に、凍てつく心に、太陽は似合わないと思っていた。

 だけれど、今、太陽のぬくもりが実来の頬に触れている。


「よし、ちゃんと言えたね。実来ちゃんは偉いね」


 なぜか紀枝は涙声で言って、声を出せた実来を抱きしめてくる。


(……あったかい)


 姉に身を預けたまま実来は、太陽の光を追うように顔を上げた。

 頭上に、鮮やかな夕焼け空が広がっている。

 柿を割ったような瑞々しさすら感じる空の色が、干からびていた身体の中心に染みこんだ。


(――……ああ、きれい)


 こんな風に、空を見て美しいと感じることなどなかった。


「お姉ちゃんは、実来ちゃんの歳の時、大嫌いの言葉が言えなかったのよ。もちろん、助けても言えなかったの。閉じこもるだけだったの」


 (えら)いねぇ、偉いねぇ、と繰り返す褒め言葉が、心の氷が溶け出してバランスを崩した実来を受け止める。

 まるで姉に導かれるように、閉じこもっていた実来の感情が顔に浮かび上がってきた。

 実来は姉の泣き声に隠れるように、小さく泣き出した。

 小さいが、ちゃんと声を出して泣き出せた……。


「――実来、何で一人ぼっちで泣いているんだい?」


 祖父の声が聞こえて、実来はゆっくりと顔をあげる。


(ひとりぼっち?)


 目の前にいたはずの紀枝がいなかった。


 忙しいと言っていたから、泣きじゃくっている内にどこかに行ってしまったのだろうか?

 実来は口を動かして、紀枝の居場所を祖父に(たず)ねようとした。

 乾いた唇は動かすとピキリと切れて、割れ目で赤い血が(ふく)らんだ。


「……、……、……」

「実来、何を言いたいんだい?」


 何度も何度も、紀枝という言葉を無音のまま祖父に伝えてみるが……一向に伝わらない。

 じれた実来はメモ帳を開いて、そこにひらがなで【のりえは?】と書いて祖父に見せた。

 すると、祖父の顔が一気に青白くなり、息を吐く音と同時に喉の筋が一瞬浮き上がった。


「なんで、紀枝が死んだことを知ってるんだっ」


 祖父の言葉に、実来の心臓が強く握りつぶされる。


「……死……だ?」


 実来の掠れ声が喉の奥からやってきて転げ落ちた。


「実来、声が……」

「の……りえ……しんだ?」

「……お前の叔母さんから電話が来て……死んだと……」


 実来は祖父の腕を掴んで、腹の底から声を上げようとする。


「……っ、なんでっ」

「昨日、北海道で通り魔に刺されて……さっき……本当にさっき出血多量で亡くなってしまったんだ……。輸血の血が足りなかったそうだ……」


 主が、紀枝に『化けの姿が剥がれている』と言っていたことを思い出す。

 もしかしたら、血まみれの状態が本当の状態だったのだろうか……。


「そんな……そんな……」


 悲しみの震えがこみ上げてきて、実来は俯いた。



「実来、なんでお前が紀枝のことを知ってるんだ? 誰から聞いた?」

「……みんな、のりえの話をしてるから」


 今度はちゃんと喋ってから、実来は口を両手で覆う。


『よし、ちゃんと言えたね。実来ちゃんは(えら)いね』


 あんな風に優しく褒めてくれる人を、実来は他に知らない。

 もっとずっと側にいられたら、もっとずっと嬉しい言葉を与えてくれただろう。

 ――なのに、失ってしまった。


「のりえ……死んじゃった……っ」


 さっきまで、ぬくもりだって感じられたのに、もう姉と呼べる人がこの世からいなくなってしまった。

 ちゃんと会う前に命が途切れてしまった。


「わたし……」


 実来は、両頬を涙でぐちゃぐちゃに濡らしながら泣き叫ぶ。


「もっと……話したかっ……た……のに……っ」


********


 (ほこら)から主が消えた時から葉山酒造(はやましゅぞう)は落日のように沈んでいった。

 醜聞(しゅうぶん)にまみれても生き続けた酒造が、一気に(かたむ)いていったのだ。


 銘酒(めいしゅ)のための米が不作になり、祖父が年老いて動けなくなり、従業員が違う酒造に引き抜かれ、銘酒の酒造という名声も消えかけた。

 赤字が続き、広大な葉山酒造の土地の半分は売り出され、機械生産している新酒造も維持(いじ)できなくなって建物を破壊後に不動産屋に安値で売り飛ばされた。


 しかし、まだ希望が生きている。


 (ほま)れ高い杜氏(とうじ)の下で働いていた実来が戻り、米作りから携わった『みのり』という純米大吟醸酒を世に出すと、木樽の香りがする研ぎ澄まされた味が好評となって再び脚光を浴びたのだった。


 それを世間に伝えたのも、実来だった。

 子供時代、声を出せずに文字を書くことで人と関わってきた彼女は、自然とどんな文章を書けば人に伝わるかということを学んでいた。

 田に関わることから始まる酒造りの過程(かてい)と日々のことを(つづ)った彼女のSNSは人気になり、『みのり』という名の酒は、喧嘩しながらも支え合う祖父と孫の面白おかしい様子と共に世に広まっていった。

 こうしてこの酒は、多くの人に愛されるようになったのだった。


 だが、その『みのり』という名が、実来と紀枝からとって付けたものだと知る者はごく少数だった。

 この名前には、姉に助けられた実来の感謝が詰まっている。

 それに、実来は信じ続けていた。

 あの時、紀枝は言ったのだ――(しば)くしたら酒造に住むと。

 だから、実来は戻ってきた姉が喜んでくれるのを信じて『みのり』を造り続けてきた。

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