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はるかな夜の物語  作者: 前田留依


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第一章 童話は彼女を救えない5

***********


 二週間前の白き雪は、翌日の雨によって溶け、どろどろの泥水になって川を濁し、その後にみぞれの日々が続いて、(しも)注意報がニュースで毎日流れるようになってから再び雪が町を襲った。


 いつもの年より早く、雪が積もっている。


 時計の短針が、二回三回四回と刻みの行為をくり返している内に、雪は小さな町を純白で支配した。


 窓を開けなくても、外がどんな風になっているのか分かる。

 窓ガラスに、びっしりと粉雪が付着している。

 ガラスが風に揺さぶりをかけられ、カタカタカタタカタと寒気に歯を鳴らすような音を立てている。

 

 きっと、外は、猛吹雪(もうふぶき)だ。

 

 紀枝は「免疫(めんえき)を付けるために洗ってはいけない」と彩に命令されている汚れた布団カバーを憂鬱な顔で眺めてから、しめった布団を畳んで押し入れにしまい、百円ショップで買った小さな(ほうき)で元々は物置小屋だった部屋を掃除した。

 何度聞いても意味が分からない理由で、掃除機を使うのを禁止されているのだった。


 休日は地獄の極地(きょくち)である。

 学校に友達と呼べる人はいなくなってしまったけれど、「ホームレス、ホームレス」と容姿をバカにされるだけで、給食はでるし、教室は常に暖かい。


 ストーブも置いてもらえない紀枝の部屋は、冷凍庫の中のようだ。

 杉板の床は硬い年輪の奥まで凍てついて、靴下の穴から飛び出した親指をはれさせる。


 親指ならば、他の人は気がつかないからいい。

 冬の寒さによって、顔が、手が、炎症を起こしてはれていた。

 唇の左側が醜く盛り上がり、触れると中から汁が零れた。


 しかし、それらは寒さのせいなのにも関わらず彩の嘘によってアレルギーとされ、皮膚の炎症はアトピー性皮膚炎とされているのだった。

 だけど、アレルギーではあるのだろうか。

 不潔な布団に不潔な衣服……下着も洗わせてもらえない時がある。


 紀枝は、タンスを開けて、この前に未子から手渡しでもらったクッキーを出して口に運んだ。

 互いに風呂も入れないような感じだ。

 その手でじかにもらったものを口に入れるのは、不衛生かもしれないが、生きるためなら喰わなくてはならない。


「これ、クッキーなのかな……。小麦粉で練って乾燥しただけみたいな感じがする。でも、焦げ目はあるよね……」


 生焼けだと思われるそれを何とか咀嚼して飲み込み、紀枝はため息をつく。

 ……普通のクッキーが食べたい。

 いつから食べていないんだろう――いつから、いつから……。

 こんな状況に、こんな不幸に――あの女が来てから、あの女が来てからだ。


「紀枝、紀枝!」


 一階から、彩のだみ声が響いてくる。

 酒を飲み過ぎて喉が焼け、あんな男のような声になったのだと祖父が話していた。


「はい、いま行きます」


 紀枝は丁寧な口調で答えて箒を置き、急いで部屋から出た。

 いつの間にか出上がった家の決まりで、彩が呼んだら一分以内に会いに行かなくてはならなかった。


(境遇だけは、シンデレラと同じ……。わたしは心が綺麗じゃないけど)


 階段まで行くと、その下に、大きな胸の谷間が露骨に見えるロングセーターを黒いベルトで強く絞った厚化粧の義母がいる。

 彼女は高級ブランドの品だというレギンスに広がる蛍光色の星をこれでもかというほどに太股に伸ばして履いていた。

 母が生きていた頃は、華やかな美女だったのだと聞いている……。


「玄関のカポックが枯れてるじゃないの。あんたが世話を怠ったから、あたしのカポックが枯れたのよ。あんた、わざとでしょ!」


 彩が嫁いだ時に持ってきたカポックという大きな観葉植物は、耐寒(たいかん)性が高いからと彼女自身が言って寒い玄関に放置されたままだった。

 その観葉植物の世話を言い渡された覚えなど、全くない。

 むしろ、父が彩にプレゼントしたものだから「あんたなんかに触られたくない」と釘を刺されていたのだった。


「あの……カポックの世話もしなきゃいけなかったですか?」


 恐る恐る紀枝が訊ねると、母が亡くなってから急に太り始めたという彩は、大きく息を吸い込んでベルトが肉に食い込んだ腹を膨らませた。


「何よ、その言い方っ!」


 鼓膜(こまく)が破れそうな大声を飛ばし、年季が入った(あめ)色の階段をダンダカと音を鳴らして上ってきた。大嫌いだから来ないでっと思うが、それを声にすれば恐ろしい事態になる。


「世話も? なに、その『も』ってさ。まるであたしが、あんたに色々と世話を焼いてもらってるみたいじゃないか!」


 彩は握り拳を作って、今にも殴りそうな気配を見せた。

 しかし、彼女はそのような暴力を振るわないことを紀枝は知っていた。


 若い頃、万引と恐喝(きょうかつ)で捕まったことがある彼女は、警察沙汰にならない方法で攻撃を加えてくる。

 それは、精神的な暴力だった。

 

 母屋は、酒造がある広大な土地の林側に建っている。

 道路からも他の民家からも離れていて、彩の怒鳴り声は他人には届かない。

 彩は、家から一歩出れば、良妻賢母(りょうさいけんぼ)の演技をして周囲にこんな風に言い回っているのだ。


『紀枝ちゃん、お母さんのことが忘れられないみたいで、あたしに懐いてくれないの。あたしのこと嫌いなのかな。あたし、確かにあんな形で嫁いでしまったけど、あの人の娘だから紀枝ちゃんのことが可愛いのよ』


 そのような嘘だけではなく、紀枝の母が口やかましく言ったせいで、夫が(うつ)気味になって家を飛び出したのだとも言いふらしていた。


「ごめんなさい……ごめんなさい」


 紀枝は、申し訳ないなどちっとも思っていないのに謝罪(しゃざい)を繰り返した。

 すると彩は、最近できてきた眉間のしわを二本深くして、ケッと吐き出すような嘲笑をする。


「正月になったら罰金取るからね。あんたのお年玉、ぜーんぶ使って新しいカポックを買うから。あんだけ大きいと、いい値段すんのよ」


 冬の冷気からではない、おぞましいほどの寒気を紀枝は覚えた。


 紀枝は小遣いをもらえない。

 だから、親戚からもらうお年玉を少しずつ削って学校で使うノートやら鉛筆やら消しゴムを買っているのだった。

 これから、どんな風にやっていけばいいのだろう。


 ――もう、限界だ。もう、乗り越えられない。

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