第四章 もう一人の声なき慟哭8
……自分自身の手で、自分の命を奪った。
そうやって現実から目を背けたはずなのに、紀枝はまだ過酷な状況に置かれていた。
氷柱より尖った氷の刃が、前にも後ろにも右にも左にも生えている。
此処は紀枝の部屋よりも、ずっともっと恐ろしいほど凍てついているので、どこかに避難しなければならない。
なのに、動けば動くほど身体が傷つき、血が滲み出し、あるいは噴き出して、痛くて痛くて前には進めなかった。
「なんで……なんで、あそこから逃げたのに、なんで……こうなってるの」
なんでと問う前に心は答えを与えていた。
母を殺したからだ。
きっと神様のような者がいて、人殺しの紀枝に罰を与えたのだ。
わかっているのに、紀枝は何度も「なんで」を口にした。
「好きで殺したんじゃない……お母さんだって知らなかった……」
でも、自分は彩を殺そうした。
確かな意思を持って、義理の母を殺そうとした。
だから、どっちに転んでも紀枝は人殺しだ。
「彩がおそってきたから……殺しただけ……」
では、あんな風に彩が襲わなかったら殺さなかっただろうか?
疑問が紀枝の心に、ひとつ芽吹く。
(……殺したかも。だって、台所には包丁があったし、居間には木も切れるカッターがあった)
(庭には鎌があるし、わたしの部屋にだってハサミがある……)
それらの刃物を目にする度に、紀枝はゴクリと喉を鳴らしていたのだ。
これを握って、彩に向かっていきたいと常に考えていた。
マンガやドラマで見たように、憎らしい彩をざっくりと刺してしまえば助かるんじゃないかと思っていた。
「でも……わたし、彩にいじめられてた。だから、わたしは悪くないもん」
ああ、だけど……さっき死ぬ寸前に母が言っていた。
逃げてもいい――と。
逃げて助けを求めたら、誰かが助けてくれただろうか?
だけど、どこに逃げろというのだろう?
「逃げる場所なんて……ないもん」
そう呟いた時に、北海道の叔母のことを思い出す。
そして、学校で倒れた時に担任や保険医が話を聞き出そうとしていたことや、あの病院で医師や看護師が紀枝を家に帰そうとしなかったことなどが頭に浮かび上がる。
もしかしたら、祖父にも遠慮せずに泣きつけばなんとかなったのかもしれない。
(どうして我慢していたんだろう……どうして……逃げなかったんだろう。なんで彩にされるがままになっていたんだろう……)
そう紀枝は思うが今となっては何も分からない。
父親に嫌われると思ったのもあるだろうし、家族から見放されるのが怖かったのもあるのだろうし、自分がみんなの目の前で不幸になることで当てつけられると思ったのもあっただろう。
彩に苦しめられている様を父に見せつけることで、彩が家を追い出されるという結末も夢見ていた。
色んな考えが重なって、いつのまにか動けなくなっていた。
「逃げれるうちに、逃げたらよかった……だって、ここは――」
……紀枝は短く息を吐いて赤いコートを着た自分を抱き締めながら、ぐるりと周囲を見渡した。
それだけで、赤いコートの裾が切れて、スカートの裾が破けて、足にカミソリのような氷の刃が当たる。
当たった場所はスッと切れて、細長い血の筋を作る。
血の流れは幾重にも重なって、もう肌らしき色を失っていた。
(こんな場所、いたくない……)
氷の刃、氷の刃、氷の刃、どこを見ても紀枝を傷つける物ばかり。
動くことも出来ず、息を潜めてじっとしているしかない。
「…………ここは家より酷い。どっちにも行けない。逃げ出せない」
自分を殺せば助かると思ったのに、もっと酷い目になっている。
『なぁ……助かりたいか?』
冷えた風が耳に触れた時、あの者の声がした。
主の高い美しい声だった。
『紀枝、来るか? おれの元に来るか?』
頼りなさが目立つ細い首を動かして、紀枝は主の姿を探した。
裏庭で主は紀枝を裏切ったが、今此処で助けてくれるならそのことを忘れてもいい。
そう思うほど、紀枝は追い詰められていた。
「主のところに行ったら……楽になれるの?」
『お前を洞窟の奥の籠の中に入れてやろう。何者からも守られる籠の中に入れて飼ってやろう。そして、お前の意思が消えるまで色んなことを話してやろう』
「それは……辛くないの?」
『今よりも、辛いことがあると思うか?』
尋ね返されて、紀枝は下唇をくいっと上げた。への字になった唇は震えて、声以上の返答となっていた。
『おれの所に来るのは簡単さ』
「……」
『本当に、本当に簡単なのさ……おれの、もう片方を飲み込めばいい』
「もう片方……?」
『戦でダメになった、おれの目だよ。昔は生気で輝いていた……おれの左目だ』
紀枝の目の前に、銀色に光る渦が出現した。
手の平大の小さな渦がくるくると回り、その中に黒い空間を作る。中を覗き込むように見ると、黒い種のような物が浮かんでいる。
それは紀枝がいる空間の薄いぼんやりとした光を浴びると、テラリと光って見えた。
「これが……左目?」
気味悪く感じて、紀枝は主に聞き返した。
『矢に貫かれた後、腐ったんだ。それを大事に大事にしてたんだよ』
「……大事にしても」
目は治らないと紀枝は言おうと思ったが、言えずに黙り込む。
『村の霊を口寄せする女が、祖父の霊を呼んでさ……。腐った目を酒で洗って大事に大事にすれば黄泉の力が宿って、どんなことも思い通りになるって言ったんだ』
「……思い通りに、なったの?」
『稀な力を得た。だけど……村の奴らに気味が悪いって石を投げつけられて山に逃げることになったのさ』
それは思い通りになっていないんじゃないだろうか……。
幼い紀枝でも、そう分かるほどに主の声は哀れみを呼ぶ響きをしていた。
だれど、紀枝の気が少しだけ軽くなる。
主に弱さがあるなら、自分の痛みも分かっているような気がしたのだ。
それなら、そんなに酷いことをしないかもしれないと紀枝は考えた。
学校や家庭の中で紀枝が学んだことは、強い人間は苛めるということだった。
困ったことに彼女は、弱い人間も自分の地位や感情のために苛めるのだということを知らなかった。
「……わたしが主の左目を飲んだら、ここから逃げられるの?」
『ああ、俺と同じ空間に行ける。俺の力を纏って、何処よりも暗い場所に留まることができる。今のお前なら生きたまま死んで、死の力を使えるようになるぞ。魂の再生に入ることはないぞ』
主の説明を聞いた途端に、紀枝はすぅっと凍てついた空気を吸う。
雪を口に含んだ時のような冷たい刺激が舌を縮ませた。その刺激は、動揺となって心まで震わせる。
(生きたまま死んで……)
彼女は大きな美しい双眸を見開いて、主の声が聞こえる方を向く。
「……わたし、死んでないの?」




