第四章 もう一人の声なき慟哭6
「娘が……死んだ。多分、それも俺のせいだ……俺が、赤ん坊を助けなかったから……ずっと……後悔して……ああ、俺がいけなかった……せっかく結婚した女房もいなくなったし……ひとりだけになって……。あの時、おじょう……ちゃん、助けなかったから……」
そこまで言ってから、園田は自分から赤子の腕に額を擦り付けた。
ぐちゃぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ。
指達は動きを止めもせずに、園田の中で動いた。
そして、白くて小さな指が眼球を一気に潰す。
「ぁ、ぁぁぁぁっ、申し訳なかった……」
小刻みに震えながら、園田は目に降りかかる痛みに耐えていく。
(まさか、そんなことになるなんて……思ってなかったんだ)
(そうだ。あの時は……あの女の子は学生だと思ってた……肌が見える服を着てて、顔はすっぴんで、ピンクの靴を履いていて……。だから、高校生ぐらいじゃないかって……)
(面倒くさいと思いながらも、妊娠なんてしたら将来大変だって……そんな風に……)
園田は、壮絶な痛みの中であることに気がついた。
その時、腹の中の子が死ぬってことより、妊婦の方の将来ばかり気にしていた……。
「……ごめんよ、ごめんよ……。だけど、そんな風に思っちまったんだよっ。母親になったら、とっても可哀想だって……思ったんだよっ」
泣きじゃくりながら言うと、実来と名乗る少女が、園田の肩を軽く掴んだ。
その瞬間、背後から押しかかる圧がふっと消えていく。
赤子の腕が額からボタリと落ちて、その後、水のようになって床に広がった。
園田はそれを見ながら、「ああぁ、あれは雪だったんだ」と小さく呟く。
惚けたように腕だった水のたまりを眺めていると、また軽やかに少女が笑い出す。
「ねぇ、ねぇ、前に進んで、前に前に」
少女の高い声に誘われ、園田は腰を上げて、ゆらゆらと階段より先に進んだ。
「前へ前へ、ドアを開けて、入って……」
濡れた顔を上げると、203のプレートが付けられたドアがある。
園田は甲に血管が浮き出た手で、ドアノブを掴んだ。
ガチャ……。
中は真っ暗闇だ。
園田は手探りで、ドアの横にあった電気のスイッチを押す。
蛍光灯の冷たい明かりが何度か瞬いてから、部屋全体を照らし出した。
そこは、ゴミ置き場としか言えない場所だった。
玄関に大量の服がぐちゃぐちゃと山積みになっている。
ドアを開けて無造作に投げ入れたに違いない。
カラフルなそれらを見ていると、少女がトントンと園田の背を押した。
「入って……」
「俺に、何させようというんだ……ここで死ねってか?」
「入って……」
「いいよ、死んでやるよ。お嬢ちゃん死んじゃったの、俺のせいだもんな」
「入って……」
再度促されて、園田は靴のまま中に入っていく。
なぜかジトッと湿っている服を除けて、服を踏んで、服を投げて、奥に入っていくと、今度はマスカラだのアイシャドウだのが蓋開いたまま落ちた一角があった。
「そっちじゃなくて、こっち……」
少女が部屋の一番暗い場所を指さした。
そこは小さな台所だった。三畳くらいのスペースに、単身者ならなんとか使えそうなシステムキッチンが付いている。
息を殺しながら中に進むと、ぽた……ぽた……と、蛇口から水が滴り落ちる音が聞こえてきた。その所為か、むっとするような黴の匂いがした。
流し台の横には古びた包丁が残っていて、包丁の横には何か腐った野菜らしき物の塊がある。
(あの包丁で死ねってか……)
蹌踉めきながら包丁を掴もうとした時、ふっと気がつく。
足にまとわりつく物がない……。
台所の床だけは綺麗に片付いていて、システムキッチンの端にはぽつんと水の入ったグラスと何かが入った皿が置かれていた。
お供え物をしているように見える。
立っていられなくなってしゃがみ込み、項垂れて下を見ると、皿に入った何かは白い黴に覆われている。
食べ物のように見えるが、あまりにも不格好な形なので判断できない。
(かりんとう? 違うな……。もろこし……でもないな)
黴に侵食されたレモンの形に近いものと、楕円形に近いものと、捏ねて丸まったものと、細長い棒のようなものが小さな皿に並べられている。
それが食べ物だと分かるのは、お供え物として皿の上に置かれているからだった。
そうでなければ、失敗した粘土細工に見えただろう。
少女が黙って園田を見ているので、それを触るべきなのかと思いたつ。
タクシーのハンドルを握りすぎて硬くなった指先で、それに触れる。
思ったよりしっかりとした触り心地だった。
硬いが、爪を立てると簡単に縁が欠けた。
(ああ、これは……小麦粉を練ったものだ)
大昔に彼の母親が、テレビ番組をお手本にして作ったクッキーに似ている。
失敗したあのクッキーを、もっともっと失敗させたら……こんな風になるかもしれない。
「それね、お母さんが持ってくるの」
「手作りして?」
「そう。料理なんて作れないのに、それだけは作って持ってくるの」
「ここに住んでないんだ?」
やっぱり、そうか……と彼は思った。
人がいた気配はするが、それは遠い過去のことだと台所に積もった埃が教えていた。
園田はクッキーらしきものをおいて、少女の方に振り返る。
すると、少女は細すぎる指でシステムキッチンの下の扉を指さした。
扉の下から水のような物が染み出していて、それは床を斜めに流れて大量の服の方に向かっている。
「ここから、あれを出して」
「あれ?」
「出したら、おじちゃん……ちゃんとしたところに入れて」
ここよりもちゃんとした所はいくらでもある。
そんな風に思ったが、園田は木目の扉の取っ手を触った。
「南無阿弥陀仏……」
無意識のうちにそんな言葉を呟いて、油で表面がコーティングされているような取っ手を引く。
中を開いたら、大量のカップ麺が左右に積まれていた。中心だけぽかっと開いていて、そこには雑巾が敷き詰められている。
雑巾の山の上には配水管があり、配水管から水がぽたり、ぽたりと落ちてきていた。
蛇口から出てくる水滴が、ここから漏れているのだ。
(……下にあるの、雑巾だけじゃないな……)
薄汚れた白い物が丸まっている。
Tシャツのようなもので、小さな瓜ぐらいのものを包んでいるようだった。
そこから肌をざわりと撫でるような特殊な空気が流れてくる。
異常に冷えていて、喉がつまるような雰囲気をまとった空気だ。
「あれって、これか?」
後ろにいる少女に問うたが、何の返事もない。
「なあ、お嬢ちゃん……あれって、これでいいのか?」
汗と涎で唇が濡れているのに、口の中がカラッカラに乾いていく。
緊張が全身を覆い、鳥肌が手の甲にまで立った。
「……これ触ったら、終わりってことだよな……」




