第三章 暗闇の奥に引きずる者17
紀枝は、旧酒蔵の横の狭い通路に逃げようとした。
しかし、彩の足でコートが踏まれているから動けない。
「痛がって苦しむ姿を見ながら、たっぷり血を出させながら、死んでもらおうかなぁ?」
彩は喉をヒッと鳴らし、蔵に背を擦り付けて逃げまどう紀枝を見ると、腹を動かして歓喜の声を上げる。
(――簡単に殺さないつもりだ……。きっと酷い目にあうっ)
紀枝は踏まれているコートの裾を両手で引っ張った。
それを見て、さらに彩が嗤い出す。
コートを脱げばいいのだが、恐怖でその手段が閃かない。
暴力から逃げるために、紀枝は拳で義母の足を殴った。
なのに、雪でできたはずの足は砕けもせず、紀枝の拳に浮いた関節の骨に鋼鉄を殴ったような衝撃を与える。
「ゥックッ」
余りの痛みに、紀枝は振るった拳を後ろに引いた。
するとガランと棒みたいなものにぶつかって、何かがその場に倒れた。
横目で確認すると、薄くなっていく枯れ葉の光を跳ね返す黄金色の物体がある。
従業員がしまい忘れたらしい金属製の大きなスコップが、紀枝の横に落ちている。
「その肉に穴開けて、開けまくって、ぐちゃぐちゃ。ぐちゃぐちゃ」
彩が上下の歯を出して言う。
瞳孔がない瞳は、紀枝の中に母を見ていそうだった。
「ぐちゃぐちゃ、ぐちゃぐちゃ」
そんな彩を目の当たりにして、『殺』という一文字の漢字が紀枝の脳裏に浮かんだ。
その文字は脳から心に落下して、大きな波紋を生み出した。
(――殺されるの、ヤだ)
振り下ろされた大枝が、紀枝の白い顔に突き刺さろうとする。
「ヤメテ!」
紀枝はスコップを握りしめ、金属の尖りを彩の腹にズグッと突きつけた。
深く深く、何よりも深い憎悪と共に、相手の腹の膜より先まで破った。
服なのか、皮膚なのか、彩の背の方で何かがぶちりと破ける音がし、花火のように鮮血が散り咲く。
「殺ス!」
紀枝は音が外れた声で叫ぶ。
「殺ス、殺ス。死ネ死ネ、死ネ! お前なんて、死ねぇぇぇぇぇぇッ!」
無我夢中になりながらも、もっと強く力を込めるためにスコップの柄を短く持ち直し、停止した彩を滅多切りにしていった。
子を宿した腹、食事を与えない手、嘲笑う目、毒を吐く口、全てを硬いスコップで砕いていく。
(お前なんて消えろ、死ネ、わたしの前からいなくなれ!)
今まで鉛の固まりのように、心の深部に落ちていた負の感情が浮上して爆発する。
彩の像が、ごとりと雪の上に倒れていく。
それでも紀枝は止めなかった。
ザクッ、ザッ、ザクッ、ザグリ。
雪を溶かすほどの血だまりの中に、肉と骨と内臓が散乱していった。
「……はぁ、はぁ、はぁ」
薄らいでしまった枯れ葉の明かりが、真っ白な雪に反射して裏庭を照らしている。
だが、その光量だけでは彩がどうなったかは確認できなかった。
殺すことが出来ているなら、紀枝はこれから自由になれる。
「……わたし、自由になった?」
小さな掠れ声を出した時、母屋の廊下や階段に明かりが灯っていく。
すると、どこからか焦り走る救急車の音が聞こえてきた。
(わたしのこと、病院の人が、迎えに来たのかな……)
紀枝はそんな事を思いながら、道路の方に視線を移動させた。
走り来た救急車は、スコップで死体を乱す彼女の家の前に停まった。
(ああ、やっぱり……わたしが家に居るのがバレたんだ)
ぼんやりと思いながら足元に落ちている、動かなくなった義母を見下ろした。
母屋の方が明るくなったから、今は彩の姿がよく見える。
最早、彩とは分からなくなった死体……その首だけが人の原型を留めている。
白い首に――大きな痣がある。
それを見つけた瞬間に、紀枝の中に残っていた激情が吹き荒れる雪風に攫われて消えた。
(――……あれ?)
顔の一部が残っていて、割れた薄桃色の下唇の下には黒子がある。
指は彩のウインナーのような太いものでなくて、細長いしなやかな手だ。
結婚指輪の近くに、ピンク色の火傷の痕が見える。
(これは彩じゃない。自分が殺したのは、彩じゃない……)
彩ではなくて――母だったのではないか。
だが、あれは彩だった。
彩が尖った枝を持って紀枝を殺そうとしてきたはずだ。
でも、彩にはこんな痣も黒子も火傷の痕もない。
「こんなの嘘だ……」
動揺し、紀枝は己の頬に爪を立ててから、ぎぎっと降ろして首を掻いた。
上気した肌に、赤い爪痕が刻まれていく。
首を掻きむしりながら、紀枝はその場に膝をついて白い肌を持つ肉の塊を見た。
上と下に分かれてしまった口が、かろうじて繋がっている頭蓋骨と顎骨によって不気味に動き始める。
「人殺し……は、嫌……でしょ。……殺され、る……のは……怖いでしょ。自殺だって……よくないよ……。殺すのは、……ジブンでも、他人でも、よくないよ……」
首だけになったものが生きているかのように喉を鳴らし、外れている唇から声がする。
「のり……え。人を頼る、のは、悪いこと……じゃないの……よ。酷くなる前に逃げて……いいのよ……分かったでしょ?」
胴体から外れた腕が紀枝の膝を掴み、軽く揺さぶってきた。
記憶の中にある母のぬくもりが素肌に触れ、紀枝は大きく口を開け両手で塞いだ。
「そのかわり……タスけて、もらったら……つよく、……なりなさい……優しくなりなさい……。お母さん……のりえに、それを……教え……たく……て……あの女にかぶさって降りたの。に、逃げなさい……いやなものは、否定していいの……」
「……おかあ……さん……」
「に、げ……て…………」
そして、断片になった母は、紀枝に殺された母は、動きを止めた。
生々しい人の一部だったものが雪に返っていく。
地を濡らす鮮血は透明な氷になり、内臓は曲がった氷柱のように固まり、肉や骨は固められた雪となった。
『――母親殺し』
赤い祠から主の声が飛んできた。
『母親殺しの紀枝……せっかく呼んでやったのに……お前の母親の里菜をな……。母殺し、母殺し、可哀想なお前の母……お前のせいで二度も死んだ……痛くむごい目にあって』
消えていきそうな主の声。
紀枝はその冷たい罵倒に追い詰められてスコップを握る手に力を込めた。
(自殺もよくない……? だけどお母さん……)
(お母さんだって、心臓がおかしくなっていたのに、全然病院に行かなかったじゃない。お父さんのせいにして、酒造のために働き回って、行かなかったじゃない……)
殺しの感情に突き動かされていた心が、巨大な哀しみに押しつぶされる。
(わたし、知ってた。知ってたんだ。お母さん、死にたかったんだって、知ってた)
紀枝はギリギリと奥歯を噛みしめて、雪と氷になった母を見る。
(お母さん、自分が死んだらお父さんを苦しめられるって思ってた! だから死んだんだ! お母さんこそ、助けを呼んで逃げればよかったのにっ)
違う、母は悪くない。
(わたし……お母さんを助けられなかった……)
知っているのに、母を救うことが出来なかった。
(あぁ、わたしは、こんな目にあって当たり前だったんだ。わたしがお母さんを死なせたんだ……。わたし……またお母さんを殺した!!)
「……っ、ぁ、アア、ぁぁぁッッッ!!!」
紀枝は、スコップを高々と上げると、氷すら砕く縁を自分の頭に向かって力強く振り下ろした。
ザサっと肉が裂ける音、ゴンと骨が砕ける音……真っ赤な血飛沫を放って紀枝は雪に倒れた。
その赤く濡れた耳に、離れた母屋の方から救急隊員の声と、懸命に彩の名を呼ぶ父の声が触れる。
「彩ぁぁ、彩ぁぁぁ、しっかりしろぉぉぉ」
紀枝が運ばれた時には、名を呼びもしなかった癖に……。
それが、彼女の耳に届いた最後の父の声だった。
ォォォン、オォォォン。
もういないはずの秋田犬の遠吠えが、哀しく裏庭に響き渡る。
まるでサイレンのようにその声は闇を震わせた。
こうして、葉山酒造は紀枝を失った。
だが、悲劇はこれだけで終わらない。
葉山の家から、一人、また一人と家族が消えていくのだった。




