第三章 暗闇の奥に引きずる者16
祠の中を覗くと、倒れた札の奥で朱赤の瞳が鈍く光っていた。
まだ主の意識はある。
「彩を、早く、昨日のように消して!」
すると、祠の奥で主が笑うような声を出す。
『無理さ。混ざり合ったのなんて消せやしない』
「どういうこと? 何と何が……まざって……」
『聞いてどうするんだ紀枝。死ぬつもりだったのだろう、此処で。じゃあ、やつにヤられて死ねばいい』
主から思ってもみなかった言葉が返ってきた。
『それに、もう、おれに魂を戻す力は残っていない。単におれの力の目が開いているだけさ』
「じゃあ、どうしたらいいのっ」
しかし、紀枝の耳にザクッザクッと彩の雪踏む音が入る。
「どうしたらいいのぉぉっ!」
答えを待っていられない、逃げないと殺される。
紀枝は温かさが消えていく雪を踏み蹴散らし、ゼェゼェハァハァ言いながら母屋の方へ走っていく。
だが、彩の動きの方がダボダボの服を着た紀枝の数倍も早い。
必死に先を急ぐが、長いコートの裾が足に絡まってくる。
「助けてっ、誰か! 誰か……お祖父ちゃん!」
叫びながら母屋に向かう細道に入る前に、彩が紀枝の影を踏んだ。
「シネったら、死ねよ!」
彩が、庭に地獄の穴を開けるように大枝を振り下ろす。
ザ、ガガガガッ!!
雪を大きく削る枝から飛んで逃げようとして、高い塀の前の生け垣に衝突する。
コートのベルトが毛細血管のような小枝に絡み取られ、紀枝は必死になってベルトを引っ張る。
リボン結びが解けた時、彩が紀枝の脇腹を刺しに来る。
鋭い枝が、スカートのウエストの布が重なった場所にどぉっと当たった。
「ぐぅっぅっ」
鈍い痛みが胃まで到達するが、苦しんでいられない。
涙をこぼしながら紀枝は、祠の前で右へ左へと転がって、彩の攻撃を躱した。
「はぁ、はぁ、はぁ……こんなのヤだよ……」
激しく動いているのに、急速に身体が冷えていく。
雪から温かさが消えているのだ。
「……助け……てっ」
「誰も助けになんかくるもんか」
枝の動きが止まったので、彩を見る。
そして、紀枝は彩が簡単に自分を殺そうとしていないのに気がついた。
恐ろしい義理の母は、赤い唇の両端をぴんと上げて嗤っていた。
死から逃げまどう紀枝の姿に、今まで以上の愉悦を感じているようだった。
恐怖の遊びに翻弄される紀枝に、祠の主が清らかで美しい声を放って寄こす。
『朝まで待てば、その雪像から魂が抜けるだろう……お前は失敗したんだ。お前は一日目の時に素直に死ねばよかったんだ……おれを好きになって死ねばよかったんだ』
主の声が陰惨な響きを広げていく。
(朝になれば……っ)
しかし、まだ空は、墨汁で塗りつぶしたように真っ暗だ。
あと、何時間ぐらい粘れば助かるのだろう。
彩が双眼に喜びを浮かばせ、歯を食いしばりすぎて震えている紀枝を見下ろしている。
「や、やられたり……しないっ」
紀枝は、その場にあった雪を握りしめて彩の顔にぶつけ、そして瞬間的に顔を背けた彼女の足を蹴り飛ばす。
彩が大きな尻で生け垣を潰すと同時に、紀枝は立って走った。
逃げるしかない。
逃げなければ――だけど、どうやったら逃げ切れる?
裏庭の主の力が無くなるのが朝ならば、朝を待つしか他がない。
しかし、それまで逃げ続けられるのだろうか。
自分から死ぬのはいいけれど、彩に殺されるのは納得できない。
(――あっ)
その時、紀枝は助かる方法を一つ見いだした。
(主の力で彩に襲われてるんだから……裏庭を出れば……)
主の力は裏庭でしか成り立たない。ならば、此処から出れば助かりそうだ。
(裏庭から出よう!)
紀枝は降り積もった雪の中、大股で進んでいく。
(急げ、急げ、急がないと!)
裏庭から出る方法は三つある。
高い塀を越えるか、建物の中に入るか、通路となっている倉庫と旧酒造の隙間を通るかだ。
(塀は無理、家には鍵、だから……こっち!)
後ろから迫り来る彩から逃げるため、紀枝は雪山の横を通って旧酒造に向かう。
雪よりは霞んで見える白き壁に両腕を伸ばし、息を切らせて走る。
「こっち来い、子供は母親の言う事聞くもんだろぉっ!」
母親だなんて思ったことない癖に、彩がそう言って紀枝を止めようとする。
止めるという事は、恐らく紀枝の判断が間違ってないからだ。
「紀枝、こっち来い。こっちだ、こっちにこぉい、こぉぉいッ」
彩は奇声混じりの声を発し、寝癖で跳ねた茶色の髪を宙に広がらせ、重い足音を立てながら接近する。
このままでは追いつかれる。
追いつかれたら、紀枝はお仕舞いだ。
彩は普通の人とは常識の感覚が違う。
だから、きっと迷わず紀枝を殺すだろう。
彩の中の不可思議な正義によって、紀枝は殺されるのだ。
(旧酒造の隙間まで行けないッ。……なら、なら……お祖父ちゃんにっ)
紀枝は、いつも祖父が顔を出して声を掛けてくれる旧酒造の扉に手を付き、何度も彩を確認しながら扉の取っ手を引く。
この時間なら、祖父が此処にいるかもしれない。
「おじいちゃ……おじぃ、おじぃっ」
恐怖と焦りが喉の奥で混ざり合い、声がちゃんと出せない。
「ここ、あけて……あけ……おねがいっ」
扉はカタリコトリと揺れはするが、開かなかった。
鍵が掛けられている……いいや、紀枝の救急車騒動のためか錠前が外れたままだ。
なのに、開かない。
なぜ――?
(これも主の力だ……。主は味方してくれてない……っ)
しゅッと風切る音がし、紀枝はその場にしゃがんだ。
ダァン!
流れ落ちていく彼女の黒髪を、大枝が貫く。
枝は漆喰の壁に小さな皹を入れ、白い粉末を飛ばした。
その所為で枝の先端が少しだけ丸くなり、彩がチッと舌打ちする。
「お祖父ちゃんっ、たす……けて!」
「おかあさぁぁぁんって泣いてた次は、おじいちゃぁぁぁぁんて泣くんだ?」
彩は頭を押さえて震える紀枝のコートの裾を踏み、鼻に細かい皺を寄せて睨め付けてきた。
「今更、人を呼んで泣いたって、だーれも助けに来ないさ。助けてもらうなら、もっと早く言えば良かったのにねぇ。そしたら、あたしも呼ばれなかったのに」
「わたしっ、あんたなんか呼んでないのに……っ」
「呼んだじゃないか。彩殺す彩殺すって念じてたじゃないのさ。毎日毎日念じたから、こうやって出てきたのさ」
彩の言葉に紀枝は、低い嗚咽を漏らす。
確かに、そんな風に日々を過ごしてきた。
「死にたくない……」
熱くなった眼から、ぼたぼたと涙が零れて頬に付いた雪を溶かす。
「主、助けて……イヤだ、こんな風に死ぬのはイヤ」
紀枝の懇願を主は叶えない。
彩は喉を鳴らして下品に笑い、大枝の先端にまとわりつく木の皮を歯で噛むと、キィィィと剥いだ。
すると先端は、錐のように鋭く尖った。
「これで白い肌をえぐり取ってやる。肌に穴ぁ開けて、肉かき回してやる。あんたの母さんにやれなかったこと、全部ヤッってやるさ」




