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はるかな夜の物語  作者: 前田留依


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第一章 童話は彼女を救えない3

「紀ちゃんよー、もうお家に入りなさい。風邪引くぞぉ」


 ひび割れた漆喰(しっくい)の壁の古い酒蔵(しゅぞう)の分厚い扉を開けて、祖父が枯声(かれごえ)で注意する。

 孫に甘い祖父の声だが、その根っこに哀れみと萎縮(いしゅく)という暗さがあることを紀枝は知っている。

 蔵から漂ってくる甘い酒の香りの中、彼女はうつむいて、手の平に落ちてきた美しい雪片(せっぺん)を握りつぶして殺した。

 あの人――彩の代わりに殺した。


「わたし……もう、少し、雪を見てる」


 紀枝は消えそうな声で答えて、鳥肌が立っている細っこい首を手でさする。

 後妻の彩は、頑固(がんこ)な祖父と折り合いが悪くて、此処にはこない。

 だから、紀枝はこの裏庭が大好きだった。

 悪意を感じずにいられるのだから……。


 近所の人達は、あんなところで遊んでいないで、友達がいなくても、家にもいられないとしても祖父さんのいる酒蔵の中に入ればいいのに――と話をしている。


 紀枝だって、旧酒蔵の中に入られるなら……と思う。

 だけど、あそこで行われているのは、手間がかかる酒造りだ。


 裏庭とは違う井戸の水で米を洗い、じっくりと観察して水を吸わせ、蒸し、手で米を捻って確認し、冷めた米を根気と努力が必要とされる麹造(こうじづく)りにもっていく。

 米に、酒になるための菌をまぶす麹造りには三日以上かかるのだった。

 静かにだが的確に水と米と米麹を合わせて、何十日も経つと誇り高く香る酒母ができあがる。

 そして、今度はもろみ造りが待っている。

 それが、酒造りの行程として良く知られた樽の中を棒で掻き回す作業だった。

 発酵して泡が浮いた樽の中を優しく掻き混ぜること二週間以上……良い状態を見極めて、やっと搾りに入るのだった。


 こうしてできた酒の上澄みが、銘酒(めいしゅ)【鈴】として世に出ている。

 人の手による酒造りを、祖父は自然と語らう作業だと話していた。

 紀枝は、そんな風に仕事に励む祖父の姿が好きだった。

 寒くて湿った裏庭ではなく、旧酒蔵に入って祖父が語らう姿を見ていたい。


 しかし、祖父は酒にうるさい。

 特に旧酒蔵で造られている【鈴】という祖母の名前の銘酒は彼の生きる支えだ。

 その酒は、とても繊細で祖父は心身を砕いて接していた。

 酒というのは何で乱れるか分からない生き物であり、酒蔵は杜氏(とうじ)と蔵人達が懸命に仕事をしている場所であり、小学生の自分が簡単に出入りできる場所ではない、と祖父の態度から紀枝は学んだ。

 だから、彼女は裏庭で一人遊んで、たまに祖父からお茶や菓子をもらって安らいでいるのだ。


 ――二年前までは裏庭はきちんと手入れがされていて、酒蔵の人達が休憩を取る小屋があった。

 そこで紀枝は、本を読んだりテレビを見たり、ゲームをしたりしてくつろいでいた。

 だけれど、彩が「古い酒蔵と新しい酒蔵の従業員を交流させるために」という名目で、その休憩場所を鉄の塊のシャベルカーでガリリとガシャリと抉り解体して、失わせた。

 そんな彩の本当の目的を、紀枝は知っている。

 シンデレラの継母のように、彼女は紀枝が笑うことを、紀枝が楽しむことを、奪いつくしてしまいたいのだ。

 それは、紀枝が前妻の娘であるという理由だけではなく、彩が妊娠をした時に父が堕胎させたからだった。

 社会を知らない父ですら、こんな小さな町で愛人が子を産んだらどうなるかは分かっていたのだろう。

 だから、彩は狂いそうになるくらいに、無事に生まれて育っていく紀枝を憎んでいる。


(ああ、だけど。その赤ん坊が生まれていたら……もっと酷かったのかも)


 紀枝はシンデレラの絵本を胸に抱いて思った。

 継母に義理の姉のような子がいれば、その子を大事にするあまりにもっと紀枝に辛く当たったかもしない。

 その点では、神様にでも助けられているのだろうか?


 溜息をふぅうとついて、紀枝は裏庭の奥に進んでいった。

 裏庭の片隅にある赤い(ほこら)に奉られているお稲荷様に、紀枝は寒さで()れてきた手を合わせた。

 父から軍手をもらう度、彩が色んなこじつけをして叱ってくるから、もう軍手すらはめなくなっている。


「……神様、助けてください。雪が積もらないように、積もりませんように」


 母屋の神棚に祈れなくなったから、この祠で時々祈るようになっていた。

 神はいないと思いながらも、いたらいいのにという縋り付く気持ちが残っていた。

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