第三章 暗闇の奥に引きずる者12
恐怖に身を跳ねらせてから、紀枝は力一杯振り返った。
未子が真後ろで薄汚れたタンクトップを北風にヒラヒラさせながら、泣きそうな顔で紀枝を見ていた。
「……未子ちゃん」
名前を呼ぶのがやっとだった。
「紀枝ちゃん、死んじゃ駄目だよ」
「し、死んでる人に……言われたくない」
「……私、死んでないよ」
そう言ってから、未子が引き攣らせた笑顔を作る。
前よりも明らかに窪んでいる目元、唇もどこか歪んでいるし、話す度に見える歯茎がやたらと黒っぽかった。
幽霊のように見える。
しかも、未子の足元は雪に沈んでいなかった。
クローバーの飾りがあるピンクの汚れたローファーは、その汚れで雪を汚しもしていない。
街灯の光が雪に反射して未子の所まで届いているが、足元に影すら生じていない。
「ねぇ、私、死んでないよ」
もう一度繰り返して、未子が笑顔で紀枝を見つめてきた。
紀枝は静かに後ずさりしながら、未子を見つめ返す。
彼女の黒目は本当に真っ黒で、眼球に穴を開けたようにすら見える。
その穴を睨み付けると、ずるりと内部に吸い込まれていきそうな気がした。
紀枝が萎縮して黙っていると、未子が雪も踏まずに近づいてくる。
後ずさりしていた足を速めようと大きく後ろに下がると、未子が痩せ細った手で紀枝の手首をきりっと掴んだ。
「……ゃ、……やめて」
未子は固まった笑顔のまま、紀枝の手を自分の頬に当てさせた。
吐く息は冷たいのに、頬はじっとりと生温かい。
「……ほら、死んでないでしょ? 死んだものに体温なんてあるはずないよね?」
「……っ」
確かに温かいが、びちょっとしたような気色悪い感触がした。
見ると、未子の肌が雪か汗か何かで濡れている。
「それに、幽霊には触れられないよね?」
紀枝は答えられない。
なぜなら、未子の感触は普通の人間の肌とは違うからだ。
生暖かくてぬめぬめしていて、とりとめが無い形をしているようだった。
太陽の日を浴びたぬかるみの中に手を入れたような感じがするのだ。
(幽霊じゃないなら、この子は化け物だ……)
思った途端に身体が強ばり、寒さ以外の要素で歯がカチカチと鳴った。
このままコレに捕まっていたら、とんでもない闇の中に取り込まれてしまいそうだ。
そうなってはいけない。そうなったら、主の力を借りられない。
「手、離してッ」
紀枝は恐怖を押し除けて、未子の手を振りほどいた。
「紀枝ちゃん、主の所に行かないで。死んじゃ駄目だよ」
「これから雪で遊ぶだけだよ。だから、死なないから」
「主の呼びかけに答えるのは、私でいいんだよ。紀枝ちゃんは生きてなきゃ駄目だよ」
その言葉を聞いて、紀枝の心に熱を孕んだ怒気が膨れ上がった。
歪んだ形をした怒気に突き動かされ、紀枝はキッと未子を睨み付ける。
「主を奪わせない!」
紀枝の言葉に未子が驚いたように薄く口を開ける。
「未子ちゃんは苦しいから、主の力を借りてどうにかしようとしてるんでしょ。でも、わたしが先に主と出会ったのっ。どうしても主に会いたかったら、わたしが死んでからにして!」
悲鳴のような言葉に、未子はゆるゆると頭を振った。
「違うよ。紀枝ちゃん、私は……私は紀枝ちゃんは生きるべきだと思ってるだけだよ。だって……」
「うるさい!」
未子の言葉を一言で八つ裂きにして、紀枝は犬のように喉で唸った。
「うう、うるさいっ、うるっ、さい。もう邪魔しないで! 時間が無いんだから、邪魔しないで!」
そのまま走り去ろうとした時、未子の両腕が紀枝を捕まえた。
ぬちゃっという音がして、生温かい彼女の身体に包まれる。
それでも裏庭に行こうとすると、未子が全身を背に押し付けてきた。
温い液体が紀枝の真新しいコートを汚していく。
未子の強すぎる力に耐えられず、徐々に身体が斜めになり、そのまま紀枝は雪に倒れ込んだ。
「駄目だよ……、行かせない……私達、トモダチでしょ? トモダチになったよね? 毎日、毎日、毎日、遊んでた……ねぇ、トモダチでしょ?」
「……離してッ。わたしは、主に会いたいのっ」
未子の下で藻掻き暴れていると、偶然にコートのポケットの中に手が入った。
そこにはカサッと鳴るある物が入っていた。
紀枝はそれを掴んで引き出すと、その手で後ろにいる未子を激しく叩いた。
「はらえっ、はらえっ、はらえっ」
テレビ番組で霊能力者が言っていた言葉を必死に言いながら、粗塩の紙包みを未子の背に叩き付ける。
紙包みが変形し、指の中に粗塩が漏れてくるのが分かる。
すると、未子がびくんっと身体を反らした。
「ぁっ、ぁっ、うぅぅっ、あぁぁっ」
後ろを見ると、未子はなめくじのようにのたうって汚らしい髪を振り乱し始める。
「はらえ、はらえっ、死ね!」
「……紀枝、ちゃん……私は……ぁ、あぁ、ああああ、ぁぁあああぁぁっ、あああ!!」
ふっと身体からぬるい重みが消えた。
未子の姿がどこかに消え、何にも覆われていない紀枝の身体を刃物のような夜風が切り刻んでいく。
「助かった……助かったから、行かなきゃ」
紀枝はのろのろと起き上がって、コートのポケットに僅かに残っていそうな粗塩の包みを戻した。
それから、ブーツを引きずるようにして裏庭に向かう。
『紀枝……』
狂い咲く、雪片と雪片と雪片の向こうから、自分を呼ぶ声がする。
『おかえり、紀枝』
透明感がある主の声が、雪になぶられている彼女の耳に届いた。




