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はるかな夜の物語  作者: 前田留依


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第三章 暗闇の奥に引きずる者11

 そう考えた刹那(せつな)、胸の辺りで無数の痛みがチリチリと走った。

 悪い考えが引き金となった痛みを、紀枝は殴ることで消そうとする。

 ドンッと(こぶし)の指の角でコートの胸を叩いた。

 もし、母が山人を祈るようになって、山人に誘われて、死に急ぐようになったとしたら……。

 違う、そんなこと無い、違う。

 

 ドン!


 山人が(ほこら)にいるっていうことは、神様と同じだって事だ。

 でも、悪いことをする神様だっているのかもしれない。


 ドン、ドンッ。


 母は病気で亡くなったのだし、山人に誘われて亡くなったのではない。

 それに山人が『(しゅ)』なら、今は自分を助けてくれている。


 でも、殺そうとしている。


 ドン、ドン、ドンッ!


 心の中で育っていく痛みが(とも)腫瘍(しゅよう)を、紀枝は胸を叩くことで潰そうとした。


「どうしたんだいっ?」

「あの、あのね。怖い考えが出てきて、消したいのっ」

「……幽霊のことかい?」

「ううん」

「じゃあ、お母さんのことかい?」

「うんっ」

「それなら、胸を叩くんじゃなくて深呼吸するといいよ」


 その言葉に、紀枝は(かた)く握っていた手を(ゆる)めた。

 そして、割れた唇を薄く開いて、すっと小さく息を吸ってみる。

 車内の空気が(わず)かに肺に入り込んだだけで、頬が微かにやわらいだ。

 だから今度は、体育の授業でやるように、すぅぅぅと思いっきり息を吸ってから長く長く吐き出した。


「ちょっとは楽になったかな?」

「……うん」

「そっか、そっかぁよかった。じゃあ、これからおじさんとお話ししよう」

「お話?」

「辛い時に考えると、もっと辛くなるもんだよ。だから、おじさんとくだらない話をしてようよ」


 それから紀枝は運転手と普通の会話を普通に交わした。

 運転手は紀枝の話に耳を(かたむ)けては、うんうんと頷いて笑ったり、飴をすすめたり、遠回しに祖父との関係を話すと「お祖父ちゃんも辛いんだよねぇ」と言葉を返す。

 

(――この人に彩のことを話したら、どんな答えが返ってくるのかな?)


 そんな風に思ったが、楽しい会話を失いたくないから言いたくない。

 葉山酒造に着くまで、紀枝は意味の無いようなくだらない話をいっぱいした。

 それらの多くは母が生きている頃の話だったが、運転手は気にもとめずに紀枝の話し相手になってくれた。


(いっぱいいっぱい、話した)


 紀枝は、窓から近所の景色を眺めて、この楽しい思い出を胸に刻んだ。


(幸せだ)

(わたし、今……とっても、幸せだ)


 道塞(みちふさ)ぐ雪のために道路を迂回(うかい)する前に親切心で料金メーターを止めていたタクシーは、葉山酒造のコンクリートの巨大な門の前にザザザと雪かきながら到着した。

 門の鉄扉(てっぴ)は閉まっているが、紀枝は此処から入らなくても出入りできる裏門を知っている。

 闇色の外気に線香の煙のような細く白い息を吐きながら、紀枝はタクシーから降りた。


「お嬢ちゃん、元気におなりよ。お嬢ちゃんが元気にならなきゃ、お母さんも元気にならないよ」


 紀枝が母に付き添って病院に来たと思い込んでいる運転手が、ドアを閉める前に言ってくれた。

 紀枝は素直に頷いて、札と小銭になってかえってきたおつりを無造作にポケットに入れる。


「じゃあね、お嬢ちゃん」


 エンジンの音がして排気ガスの匂いが濃厚に漂ったが、雪を叩き付ける風によって直ぐになくなる。

 ほとんど街灯の明かりが灯っていない路地、その暗がりの中にタクシーが滑り込むように消えていく……。


(さようなら、この二年間でおじさんのタクシーの中が一番楽しかったよ)

 

 紀枝は高い塀の横に積もった雪をブーツで踏みしめながら、隣家との間の境にある細道へと進んでいった。

 父や祖父の背より高い(へい)で風が塞き止められ、この小道は雪に完全支配されていない。

 それでも、ブーツを入れると足の甲は粉雪に染まっていった。

 紀枝は音を立てないように気をつけながら駆けていく。

 

 ざっざっ、ざっく。

 さっく、ざっく。


 僅かに雪の音が鳴る。

 しかし、それぐらいの小さな音だから猛る風の中に消えていく。

 

 ざっ、ざっ、ざっくざく。

 さくさくさくさく、ざぁっくざく。

 

 急げ、急げ、死はそこだ。

 楽しい死は、急げば手に入る。

 走れ走れ、死はそこだ。

 母に会える死が目の前にある。


「紀枝ちゃん、待って……」


 びくんと身を跳ねらせてから、紀枝は力一杯振り返った。

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