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はるかな夜の物語  作者: 前田留依


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第三章 暗闇の奥に引きずる者8

 (かじ)り付いていた不味いクッキー……あれは、手作りだと思われるものだった。

 味もしない、小麦粉を練って焼いただけのようなクッキー。

 あんなものを未子はどこで手に入れて、紀枝の元に持ってきたのだろう。


(未子が幽霊だったとしたら……手に入れるのは――)


 そう思った瞬間に、頭に浮かんだのは――墓地だった。

 雨風しのげぬ墓地の前に置かれたお供え物……。

 もらっていたクッキーは、時々湿っていて雨を浴びたようだった。


 考えただけで、紀枝は吐きそうになった。

 あれは食わない方がいいものだったに違いない。


 つぅぅぅぅーーーーーーーーーーーー。


 再び、未子がガラスをなぞる音が始まる。

 そうやって紀枝の気を()こうとしているのだろう。


 見てはならない。見てはならない。


 紀枝は(うつむ)いて、必死に音の方を向くのを我慢した。

 その時、キシッと真横でシートが軋むような音がする。


「はぁ……」 


 薄く冷たい息が、(かす)かに左耳に触れたような気がした。


(――ッ)


 バッと飛び上がって隣を見ると、誰もいない……。

 未子が乗り込んできたかと思ったが、ぶかぶかの赤いコートの裾が伸びた所に少しだけ雪が積もっているのが見えた。


(この雪、私が乗った時に入った……の?)


 紀枝は怯えながら、未子が指を滑らせていたガラスドアを見る。

 すると、ガラスに白い指で描かれたラインもすぐに雪に消されていく。

   

(助かった――? 助かったんだ……)


「お嬢ちゃん、お母さんはすぐに退院できるのかな?」


 何も知らない運転手がのんびりした口調で話しかけてくる。


(お母さん……病院、そう……嘘をついたんだった)


 紀枝はバラバラになっていた状況を心の中でまとめて、軽く息を吐く。

 それから喉に溜まった重い唾を飲み込んで、血で汚れた唇をこじ開けた。


「お……お母さんは、もう少し病院にいるかも」

「そっかぁ。早く退院できるといいねぇ」

「……うん」


 ザザザァァァ、ザザザァァァァ。


 タクシーが溶けて凍ってシャーベット状になった雪の上をひたすらと走って行く。

 病院前の白くなった田んぼに目をやってから、紀枝は運転手の方に身を乗り出した。


「どれくらいで到着しますか?」

「雪が酷くなきゃ一時間かな。家には誰かいるかい?」

「…………お祖父ちゃんが」

「そっか、お母さんいなくてもお祖父ちゃんがいてくれるなら安心だね」


 タクシーのやや老いた運転手は、紀枝が母親を病院に連れてきて一人で帰宅しているのだと信じ込んでいる。

 紀枝は病院から未子や誰かが追いかけてこないか気になって、レースのチェアシートの上で不安に身を揺すってから、我慢できなくて背後を(かえり)みた。

 丸みを帯びた厚いリアガラスから見えたのは、夜を煮詰(につ)めたような色の立ちそびえる闇だった。

 その闇は、病院のシルエットではなく、紀枝の町から見える閉山された鉱山だ。

 黒々とした尖った山のシルエットだった。


『――おいで、ここにおいでよ』


『おれの裏庭で遊ぼうよ、おれの側で死ねばいい』


 車の溝の深いタイヤが雪を刻む。

 その音が、主が話しかけてくるように美しく響いた。


『裏庭で死ね、裏庭で遊んで死ね、裏庭で遊んで楽しく死ねよ』


 気のせいなのだろうが、山の闇を見つめていると主の声を身近に感じる。

 もしかしたら、山人だから山の力を借りて紀枝を呼んでくれているのだろうか。

 

(そうかも……わたしに早く来ないと大変だぞって知らせてくれてるんだ)


 朝までの時間は限られている。

 昨日失敗した母の雪像を、魂が入るほど完璧(かんぺき)に作るまでどれくらいの時間が必要なのだろうか……何時間もかけたら病院から誰かが来てしまうかもしれない。


(短い時間で、完璧なお母さんを作らなきゃ)


 紀枝は前に顔を向けてから、ポケットに詰めていた果物を取り出し、白い歯を突き立てるとがっがっと食べ始めた。

 味わうなんて気分ではない。

 ただ目の前にある食料を腹に仕舞(しま)い込むだけだ。


(昨日、じょうずにお母さんを作れなかったのは栄養を取ってないからだよね)


 まともに食料をもらえなかったので体力が落ちているのだと彼女は感じていた。


 蜜柑(みかん)の汁がべたりと指を汚すと、紀枝はその汁さえもったいなくて舌で舐め取っていく。

 母が生きていた頃に禁止されていた行為を、当たり前のものだとしてやっていた。


「お嬢ちゃん、お腹が空いてたんだ?」


 運転手が音を出して、果実の汁にまみれていく紀枝をバックミラーで観て話しかけてきた。


「うん。ずっと、ずっと――()えてたから」


 飢えという単語を、紀枝は初めて己に使用した。

 国語の教科書に載っている短編で覚えたものだったが、今の自分を生々しく現している。

 

 胃に入ったのは、肉でもなく、白米でもなく、主食とは言えない果物だ。

 

 それでも、朝は叔母さんから(もら)ったクッキー、夜はこれで満腹になった。

 久しぶりにまともな食事をとることができた。

 だから、今の自分なら裏庭に母を呼び出せるはずだ。

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