第二章 主が呼び出す死者の道11
そのままパジャマ姿で外に出て、動きが鈍い獣みたいに這いずり転び前のめりながら門の方に向かっていくと、通りすがりの従業員達が驚いたような声を出す。
「紀枝ちゃんっ?」
「そんな格好で、どうしたの!?」
それでもかまわずに、雪の中を進む。
昨夜はあんなに楽しかったのだ。
子供の頃に遊んだぬいぐるみに似た兎がいて、
たくさん可愛がって守って守り返してくれた桐がいて、
紀枝が一番会いたくて欲していた母が来て、優しい言葉をかけてくれた。
ずっとずっと欲しかった温もりや、愛しいという感情や、愛されているという感覚がこの身に降り注いでくれた一夜だったのだ。
(無くなるはずなんてない! だって、きっと……主が守ってくれてるはず!)
深い雪の中、両手両足を無様に動かして前進し、なんとか裏庭に辿り着いた。
「あの女、こんなくだらねぇ作業まで俺たちにさせやがって」
「バカ、あっちの地方の気性の激しい女だぞ。聞かれたら何されるかわからねぇから、そう言うこと口に出すな」
酒造で働く従業員達が排他的なことを言いながら、冬に路上の氷を砕くために使われる金属のスコップで、紀枝が必死に作り上げて壊してしまった母をザクリザクリと八つ裂きにしていた。
母の崩れた胸が、足が、首が、いたるところで破片となって転がっている。
誰かの足に付着した泥が混じってしまったのか、真っ白綺麗だったそれらは茶に汚れていた。
愛犬の桐や兎は、既に跡形もなく、昨日の奇跡は無と返していた。
「ぁ……ぁぁぁ……」
――誰か、殺シテくれないだろうか?
――あの女が死なないなら、わたしが死ねたらイイな。
――でも、どうせ死ヌなら、アノ女を殺したってイイじゃない。
前から抱いていた「死」の想いが、積み重なって……もう、どうしようもなくなっている。
「……だめ」
頭の中に何度も何度も迫り上がってくる殺意を、紀枝はかろうじて封印した。
なぜなら、母の葬儀でお坊さんが話していたからだ。
浄土に行くには、罪を犯してはならないと。
仏教の教えがよく分かっていない紀枝は、浄土は天国と同じで、母は浄土にいるはずだと勝手に考えている。
学校で教わった極楽浄土の話が、祖父の部屋に並ぶ百科事典に載っていたキリスト教の楽園を思い出させるからでもあった。
仏か神の国に入るには、罪を犯してはならない。
そんなことをしたら天国の舞踏会に行けない。
天国の舞踏会には、知らない王子様とかお姫様の中に――きっとお母さんもいるはずだ。
それに母が言っていたではないか。
優しい心を持った人になりなさい。
強い心を育てなさい……と。
もし、紀枝が彩を殺したら、母が嘆いてしまうだろう。
(優しい心、強い心、浄土、天国……)
紀枝は四つの言葉を、絶望が呼んだ空虚の中に転がしていく。
だが、心は穏やかにならない。
殺意と死の望みが高鳴るばかりだった。
(それに、それに……)
彩を殺したら、死ぬ必要がないんじゃないか?
酒造が元通りになるんじゃないのか?
そんな疑問が絶望の中で光り輝き、紀枝の意識を死の淵から救い出そうとした時だった。
『……紀枝、今宵も此処に来るんだろう?』
群れる従業員達の向こうから、主の声が密やかに染みいるように届いた。
『今宵までだぞ、おれがお前に与えられる奇跡はな』
神無月が終わったら、主はいなくなってしまう。
再び、凍え、肉体が腫れ、穏やかな気持ちは消え失せ、死ぬとしたら、もっとも悲惨な死に方をするのだろう。
そのような死に方をすると、人は成仏できなくなって悪霊になるから、浄土や天国には行けない。
母の側に行けない。
微量の知識が、テレビのオカルト番組の情報によって奇妙に肉付けされていく。
(そうだよ……彩を殺したら、二度とお母さんに会えなくなる!)
(だったら、ねぇ、だったら、もう――わたしが死ぬしかないじゃない!)
紀枝は、心から湧き上がってきた殺意を奥歯でガリリと噛み殺した。
(今日の夜に、なんとかしてお母さんを作り上げて死ななきゃ……)
四つん這いで雪を押しつぶしてきたために、パジャマの足は濡れてぐちゃぐちゃになっている。
寒さを感じないとはいえ、不快感が身体中を駆けめぐってきた。
起きた時は、あんなに清々しかったのに……どうしてこうなるのだろう。
その時、視界に茶にまみれた母の破片が入り込む――。
(あれは、主がお母さん達の雪像を助けてくれなかったからだ。どうしよう……夜になって、もう一度完璧に作り上げられるだろうか。同じように作るなんて無理に決まってる)
一瞬にして、母の雪像を創り上げる自信が溶けていく。
彩に知られたのだから、今夜は邪魔される恐れがある。
(もう考えるのも嫌だ。嫌だ。駄目だ。駄目なんだ。だって、きっと助からない。きっとお母さんも作れない。無理なんだ。だって、スコップで雪が土色になっている。もう一度、あの綺麗なお母さんは作れない)
無理だ、無理だ。
嫌だ、嫌だ。
(お母さんに会えない。彩のせいだ。主にも、わたしは救えない。だって救うつもりなら、主はお母さん達を守ってくれたはず)
(あぁ……わたしはやっぱり、シンデレラになれないんだ!)
もう、全てが駄目になってしまった。
目の前の光景が、紀枝の希望を全否定しているのだから。
「ぁ……あぁぁぁぁぁあぁああぁぁぁぁぁぁっ!!」
紀枝は、誰もが振り返る大声を上げ、頭を掻きむしりながら泣きだした。
従業員達が手を止め、振り返って紀枝の姿に驚き、重いスコップをばさんっと捨てて駆け寄ってくる。
彼らの目から見たら、明らかに紀枝はおかしくなっていた。
「のりちゃん、おい、のりちゃんよっ」
誰かに声をかけられて身体を揺さぶられたが、紀枝は答えられなかった。
哀しくて苦しくて話など、もう出来るはずがない。
「蔵元、ちょっと、ほらこっちに来てよ。のりちゃんが大変だ!」
従業員の呼びかけに、父親は「んー?」と聞き返す声しか発しなかった。
倉庫に溜まる埃に似た灰色の空から、大粒のあられが急降下し、テレビで観た散弾銃のように紀枝の身体を撃ち抜く。
彼女は錆びた金属を擦り合わせたような声を出して仰向けになり、深い雪の中に沈んでいった。




