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はるかな夜の物語  作者: 前田留依


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第二章 主が呼び出す死者の道8

 大粒の涙を落とした水彩画のように景色が溶けている夢の中で、随分(ずいぶん)と昔に聴いた外国の少年達の歌声が鳴り響いていた。

 亡き祖母が好きだったという宗教合唱曲だった。

 葬式が終わった後に、祖父がこの曲のレコードを流しながら泣いていたのを(おぼ)えている。

 

 確か『主よ、助けてください』と呼びかける悲哀に満ちた美しい歌だった。

 その苦しみに満ちた歌声は、紀枝を現実に引き戻していく。

 

『主よ、助けてください、助けてください……』


 悲哀を紡ぐ歌声は、今の紀枝を語っているかのようだ。

 助けを呼んだら、主が現れて助けてくれる。

 キリスト教の主とはそういう存在だ。

 紀枝の前には、キリスト教とは違う『裏庭の主』が現れた。

 彼は死という最後のカードを手にして、彼女を楽にしてくれるのだった。


 冷たい雪を温かな雪に変えて、亡き母を雪像として蘇らせてくれる。


『主よ、助けてください、助けてください……』

 

(――この歌声、主の声に似ている……高くて綺麗な、主の声に似ている……)


 そう思いながら、紀枝は目を覚ます。

 夢ではなく、現実でもその歌が空気を震わせていた。

 祖父が家の奥の(さび)れた和室でレコードをかけているらしい。


(そうだ、お祖母ちゃんの命日が先週でお母さんの命日があって……だから、今日はお祖父ちゃんとお祖母ちゃんの結婚記念日だ)


 紀枝は頭の中でカレンダーを思い出しながら、薄い(まぶた)を手で擦った。

 毎日を過ごすのが大変すぎて、家族の記念日すら忘れていた。


(今日は、お祖父ちゃんにとって大切な日だ。彩を怒らせないようにしなきゃ)


 それでも、彩がいる一階に降りなければ何もできない。


(今、何時だろ。彩が怒鳴りに来ないから、まだ早いのかな? 早ければいいな)


 彼女は手探りで枕元の時計を探る仕草をしてから、目覚まし時計すら彩に奪われたことを思い出して溜息を吐いた。

 どれくらい寝てしまったのか分からない。

 あの不思議な雪の温かさのせいなのか、寒さすら感じずに朝までゆっくりと眠ることができた。

 冬の盛りが始まる時期に、こんな風に気持ちよく眠れるなんて思いもしなかった。


(身体が、とっても軽い。寒気もしないし、指も膝も痛くない)

 

 紀枝は薄い布団を跳ね上げ、おんぼろの毛布を腕で押し上げて伸びをした。

 それから窓を開けて太陽を探す。

 真上の方から日が差し込んでくるので、昼ぐらいだというのが分かった。

 

 休日なのに、彩が「働け!」と怒鳴り込んでこないのは何故だろう。

 それだけで幸福感に満たされ、腹に力が入り、背筋がしゃきんとなったような感じがする。

 指の動きが滑らかだったので、ふと手を見ると寒さによる炎症が引けていた。

 腫れていない手をみるのは久しぶりだった。


(あぁ、わたしの手が白い。それに……)


 ゆっくりと屈んで、いつも痛みが走るくるぶしに触れる。

 その関節も()れていないようだった。


(ここって、まだ夢の中じゃないのかな?)

 

彼女は几帳面(きちょうめん)に布団を畳んで部屋の奥に置くと祖父からもらったおさがりの靴下をはいて、杉板の廊下に出て行った。

 いつもは足の裏を低温で縮ませる床が、フェルトのように温かい。

 主が、寒さが暖かくなる――という風に語っていた。

 あの魔法のようなものが、紀枝にこのような現象を起こさせているのだろうか?

 誰にも会わずに階段を下りて洗面所に入り、そこにある彩が身をくねらしながらスタイルを確認するための大きな鏡の前に向かった。


(顔が……)


 ぶっくりと膨らんでいた頬も耳も、赤黒い炎症が引けて象牙のごとく白い。

 桃の精がふっと息を吹きかけたように、両頬は可愛らしく紅色だった。

 唇の爛れもなくなっている。

 食事が家族の残り物という状態で、栄養が偏っているために痩せてはいるが、それでも昔のように紀枝は普通の子に見えた。


『のりちゃんは、美人さんね。大きくなったら女優さんのようになるかも』

『お母さんに似て、本当に綺麗だこと』


 いつか聞いた近所のおばさん達の朗らかな話し声が、ピーナッツのように枯れてカラカラになっていた脳に浮かんだ。

 それによって、縮んでいた脳がわずかに喜びという水分を持って膨らみかける。


「わたし、綺麗になったシンデレラと同じになってる……」


 浅い息を繰り返してから、紀枝は喉の奥を鳴らして唾を飲み込んだ。

 それからもう一度、己の姿を姿見で確認してから深呼吸する。


「なんだ……彩は、わたしがお母さんに似ているから嫌いなんだ」


 それすらも、彩に対する恐怖で今まで思いつかなかった。

 おんぼろを着せようとするのも、食事をまともにとらせないのも、母の姿から遠ざけるためだったのではないだろうか?

 すると、紀枝の中に奇妙な同情が生まれた。

 それは、朝顔の萌芽(ほうが)のようだった。

 同情は、濡れた肥沃(ひよく)な大地から一気に伸びていき、瑞々しい双葉となって天上の太陽の光を受け止める。


「それに、お父さんのせいで彩のお腹の赤ちゃんも……殺されたんだった」

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