第9話:科学者の処方箋(ディナー)と、奇妙な契約
僕は、衰弱しきった被験体――ミリ――のコンディションを最適化するため、早速「栄養補給」という名の次なる実験に取り掛かることにした。
最高のデータは、最高の状態のサンプルからしか得られない。これは科学の鉄則だ。
「少し待っていろ。今、君の体に最適な回復食を処方してやる」
俺はそう言い残すと、マッシュを伴って、この聖域の森へと足を踏み入れた。
わずか数十分の探索だったが、僕の知的好奇心は満たされっぱなしだった。外部の森とは比較にならないほど、多種多様で、健全な動植物、菌類がそこにはあった。その一つ一つが、僕にとって未知の遺伝情報と、未知の可能性を秘めた宝の山だ。
俺はいくつかの果実や薬草、そしてもちろん、数種類のキノコを採取して、ミリの待つ場所へと戻った。
「さて、調理を始めるとしよう」
俺は、彼女が戸惑いの目で見つめる前で、手際よく準備を始める。
まず、火の確保だ。そこらで枝を拾って燃やすなどという、非効率で不潔なことはしない。俺は地面から、特殊な『発熱菌』を培養し、安定した熱源となる菌床を作り出した。これは、特定の魔力を与えることで、自在に火力を調節できる優れものだ。
次に調理器具。これも、森の恵を利用する。
甲羅のように硬いキノコの傘をひっくり返して鍋代わりにし、近くの小川から汲んできた清浄な水を満たす。
「ミリ、君たちエルフは、普段何を食べていたんだ?」
俺は調理を進めながら、唐突に尋ねた。
「え……? あ、はい……木の実や、泉のお水、それと……世界樹様が分けてくださる、蜜を……」
「なるほど。炭水化物と糖質が中心か。タンパク質と必須アミノ酸が絶望的に不足しているな。そんな食生活では、病への抵抗力が低下するのも無理はない」
俺は、まるでダメな生徒のレポートを採点する教授のように、辛辣に評価を下す。ミリは、自分たちの一族の神聖な食生活を全否定され、ますます困惑した顔になった。
俺はそんな彼女の反応などお構いなしに、採取してきた食材を次々と鍋に投入していく。
「まず、この『太陽の実』。これに含まれる特殊な糖質は、エネルギーへの変換効率が極めて高い。衰弱した体には最適だ」
「次に、この『月光草』。神経を安定させる鎮静作用と、魔力の循環を助ける効果がある。君が受けた治療の副作用を緩和するのに役立つだろう」
「そして、主役がこれだ。『きらめき茸』。素晴らしい! このキノコは、自身の細胞壁に純粋な魔力を溜め込む性質がある。これを摂取すれば、枯渇した君の魔力も、直接的に回復が見込める」
俺は、まるで呪文か何かを唱えるように、各食材の学術的効能を早口で解説しながら、調理を進めていく。
ミリは、最初こそ恐怖と警戒心で俺を見ていたが、やがてその目は、俺の淀みない手つきと、鍋から立ち上る、信じられないほど豊かで優しい匂いに、釘付けになっていた。
病に倒れてから、彼女はまともな食事など、ろくに摂れていなかったのだろう。腹の虫が、くぅ、と小さく鳴る音が聞こえた。
やがて、スープは完成した。
乳白色のスープの中に、黄金色の果実と、銀色に輝く薬草、そして半透明のキノコが美しく浮かんでいる。それは、もはやただの食事ではなく、錬金術師が作り出した霊薬のようにも見えた。
俺はそのスープを、大きな木の葉で作った器によそい、ミリの前に差し出した。
「さあ、飲め。僕が、君の体に合わせて科学的に調合した、最高の処方箋だ」
「…………」
ミリは、差し出された器を、じっと見つめている。この奇妙な男が作った、得体の知れない料理。素直に口にして良いものか、逡巡しているのだろう。
だが、彼女の体は、正直だった。空腹が、そしてスープから放たれる、生命力に満ちた香りが、彼女に選択を迫る。そして何より、この男は、現に自分の命を救ったのだ。
ミリは、意を決したように、震える手で器を受け取った。
そして、恐る恐る、スープを一口、その唇に運んだ。
瞬間、彼女の翠色の瞳が、驚きに見開かれた。
「……おいし……い……」
それは、彼女が生まれてから一度も味わったことのない、深く、そして優しい味だった。
ただ美味しいだけではない。一口飲むごとに、体の内側から、温かい力が、じんわりと湧き上がってくるのが分かった。乾いた大地に、恵みの雨が染み渡るように、枯渇した生命力と魔力が、満たされていく。
彼女は、もはや躊躇わなかった。
夢中で、無心で、スープを飲み干していく。その目からは、いつしか、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。
それは、悲しみの涙ではなかった。
病の苦しみから解放された安堵と、生きているという実感。そして、生まれて初めて口にする、「本当の食事」への感動が、入り混じった涙だった。
やがて、器を空にしたミリは、ぼんやりと俺の顔を見つめた。
血色が戻り、その頬は、ほんのりと桜色に染まっている。
恐怖や警戒心は、まだ完全には消えていない。だが、その瞳の奥に、以前はなかった、別の感情が芽生え始めていた。それは、畏敬と、そして、かすかな信頼のような色だった。
俺は、そんな彼女の変化を、被験体の良好な経過として冷静に観察しながら、本題を切り出した。
「さて。栄養補給は済んだな。君のバイタルサインは、急速に安定値へと向かっている。これで、僕の研究に協力できるだけの体力は回復したはずだ」
俺の、どこまでも即物的な物言いに、ミリは感動の余韻から現実に引き戻される。
「では、約束通り、あの世界樹に関するデータを提供してもらおうか。起源、生態、結界との関連性。知っていること、すべてだ」
ミリは、じっと俺の目を見つめ返した。
そして、数秒の沈黙の後、彼女は、これまで見せなかった強い意志をその瞳に宿して、はっきりと口を開いた。
「……お話しします。私の知っていること、すべて。ですが、その代わり……一つ、約束してください」
ほう。
俺は、少しだけ、感心した。
てっきり、命を救われた恩から、無条件で協力するものと思っていた。だが、この被験体は、対等な「取引」を持ちかけてきた。
面白い。実に、面白いじゃないか。
「約束? 言ってみろ」
俺は、新たな研究対象を見るような目で、彼女の次の言葉を待った。
俺と、この聖域の最後の生き残り。
二人の、奇妙な契約が、今、結ばれようとしていた。




