第8話:覚醒、そして理解不能な救世主
エルフの少女――僕の貴重な被験体――が意識を失ってから、数時間が経過した。
僕はその間、彼女をその場から一歩も動かさなかった。下手に動かして、容態が急変でもしたら、貴重な観察データを損なうことになる。
代わりに、僕は彼女の周囲に、僕が作り出した特殊な菌類で、即席の「無菌室」を構築した。地面から生やした特定のカビは空気中の雑菌を濾過し、別のキノコは虫が嫌う特殊なフェロモンを放出する。これで、二次感染のリスクは最小限に抑えられる。完璧な野戦病院だ。
僕は、定期的にマッシュの菌糸を彼女に触れさせ、バイタルサインをモニタリングし続けた。その結果は、実に興味深いものだった。
僕が投与したウイルス兵器は、体内の病原菌を完全に駆逐した後、自己分解して消滅している。そして、寄生虫を失った彼女の魔力細胞は、まるで堰を切ったように、再び清浄な魔力を生成し始めている。
彼女自身の免疫系が、破壊された病原菌の死骸を懸命に掃除している様子も見て取れた。長年、病に蝕まれていたとは思えないほどの、強い生命力だ。素晴らしいサンプルだ、と僕は改めて感心した。
「……ふむ。脱水症状の兆候が見られるな。被験体のコンディションは常に万全に保つべきだ」
研究対象の健康管理は、研究者の基本的な義務だ。
俺は沼に設置した浄水プラントから汲んできた純水に、栄養素を豊富に含む酵母を溶かし込み、即席の栄養ドリンクを生成した。
そして、気を失ったままの少女の頭をそっと持ち上げ、その唇に水筒を運び、少量ずつ、ゆっくりと流し込んでやる。科学者が、実験用のマウスに給水するのと、何ら変わらない行為だった。
その時だった。
「……ん……」
少女の瞼が、かすかに震えた。そして、ゆっくりと、その翠色の瞳が再び姿を現す。
焦点の合わない瞳が、数回、宙を彷徨った後、すぐそばにいる僕の顔を捉えた。
彼女は、はっと息を呑み、身を捩って僕から逃れようとする。だが、衰弱しきった体では、それも叶わない。
「……あ……な、た……」
「目が覚めたか。ちょうど良い。経過は良好だ」
俺は、彼女が目を覚ましたことにも特に感情を動かさず、研究日誌にペンを走らせながら、淡々と告げた。
「気分はどうだ? 体内の病原菌は駆逐済みだ。長年感じていた倦怠感や魔力の枯渇感は、消失しているはずだが」
俺の言葉に、少女は戸惑ったように、自分自身の体に意識を向けたようだった。
彼女は恐る恐る、自分の手のひらを見つめ、そして、ゆっくりと握りしめる。その目に、信じられない、といった色の驚きが浮かんだ。
「……からだが……かるい……? ずっと、私を苛んでいた、あの重い感じが……ない……?」
何年も、何十年も、あるいは物心ついた時からずっと、彼女の体を蝕んでいた病。それが、綺麗さっぱり消え去っている。その事実が、まだ彼女の中で現実として受け止められていないようだった。
「一体……あなたは、私に何を……?」
彼女の声は、恐怖よりも、純粋な混乱に満ちていた。
俺は、ようやく研究日誌から顔を上げ、彼女に向き直った。
「言っただろう。実験的治療だと。君の体内にのみ寄生する微生物を駆逐するため、それだけを標的とする別の微生物を投入した。いわば、毒をもって毒を制したわけだ。結果は成功。おめでとう、君はもはや、歩く培養実験室ではない」
僕のあまりに臨床的で、非人間的な説明に、彼女は完全に言葉を失っていた。
病が治った喜びよりも、目の前の男の得体の知れなさに対する恐怖が、再び彼女の心を支配し始めている。
「……私は、ミリ……。あなたのお名前は……?」
彼女は、震える声で、ようやく自己紹介をした。
「レン・アシュトンだ。菌類学者だと言ったはずだ」
「キンルイ……ガクシャ……?」
「君たちの言葉で言えば、『キノコやカビを研究する者』とでも言えば、分かりやすいか」
キノコやカビで、この病を治した? ミリと名乗った少女の頭は、疑問符でいっぱいだろう。
彼女は、力を振り絞るように、上半身を起こした。そして、改めて僕を、そして僕たちがいるこの聖域を見回した。
「……どうして、ここに……? この場所は、結界で守られているはず……」
「その結界に、穴を開けて入ってきた」
「なっ……!?」
俺のあっさりとした答えに、ミリは絶句した。
「あの結界は、父様や母様が、命をかけて維持していたものなのに……」
「そうか。だが、今はもう、君しかいないようだが」
俺の言葉に、ミリの翠色の瞳が、悲しげに伏せられた。
「……はい。皆……私と同じ病で……。もう、何年も前に……。私一人だけが、この世界樹様を守りながら、ずっと……」
彼女の一族は、この聖域で発生した風土病によって、彼女を残して皆、死に絶えてしまったらしい。
悲劇的な話だ。普通の人間なら、ここで同情したり、慰めの言葉をかけたりするのだろう。
だが、俺の興味は、別の方向へと向いていた。
「世界樹?」
俺は、ミリの悲しみなどお構いなしに、背後にそびえる巨大な木を見上げた。
「あの木が、この聖域を創り出しているのか? 自己完結型の生態系を維持する、巨大な生命体……なんと素晴らしい研究対象だ!」
俺の目は、もはやミリを捉えてはいなかった。未知なる巨大生物、世界樹。その生態、魔力生成のメカニズム、結界維持の術式。僕の知的好奇心をくすぐる、最高のテーマが、目の前に聳え立っている。
「ミリ、と言ったな。君の悲しい身の上話には興味はないが、その木については、非常に興味がある」
「え……?」
ミリは、話のあまりの飛躍に、呆然としている。
「君を治療した礼だ。その代わりに、あの木の生態に関する、あらゆるデータを提供してもらう。いいね?」
この男は、何を言っているのだろう。
ミリの顔には、はっきりとそう書いてあった。
命を救われたのは、事実だ。だが、この救世主は、あまりにも理解不能で、あまりにも異質すぎた。
彼は、自分や、自分たちが命懸けで守ってきたこの聖域を、ただの「研究対象」としか見ていない。
ミリは、目の前の男が、自分にとって救いなのか、あるいは、病とは別の新たな脅威なのか、全く判断がつかずにいた。
一方の俺は、そんな彼女の葛藤など気にも留めず、早速、次の研究計画を立て始める。
「さて、被験体の意識も回復したことだし、まずは体力回復が最優先だな。栄養価の高い食事を提供し、最高のコンディションでデータを提供してもらわねば」
俺は立ち上がると、食材を探すべく、森のほうへと歩き出した。
残されたミリは、ただ呆然と、その奇妙な救世主の後ろ姿を見送ることしかできなかった。




