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第7話:患者(サンプル)と治療法(じっけん)

 翠色の瞳が、恐怖と警戒に揺れていた。

 無理もないだろう。何の前触れもなく、得体の知れない男が、自分たちの聖域に現れたのだ。しかも、瀕死の自分に対して発した第一声が「興味深い研究対象だ」ときた。常人であれば、狂人か何かだと思うに違いない。


「……あなた、は……だれ……?」


 エルフの少女が、か細く、途切れ途切れの声で尋ねてきた。その声ですら、体力を消耗させるのだろう、彼女の顔が苦痛に歪む。


「僕はレン・アシュトン。しがない菌類学者だ」

 俺は簡潔に自己紹介をした。もっとも、彼女に「菌類学者」が何なのか、理解できるとは思えないが。

「動くな、喋るな。消耗するだけだ。君は黙って、僕の診断(ぶんせき)対象になっていればいい」


 俺は彼女の言葉を待たず、隣に控えていたマッシュに指示を出す。

「マッシュ、菌糸を一本だけ伸ばせ。先端は可能な限り細く、そして滅菌処理を忘れるな」


 マッシュの体から、髪の毛よりも細い、純白の菌糸がするすると伸びていく。それは、怯える少女の腕に、そっと触れた。少女の肩がびくりと跳ねる。


「暴れるなと言ったはずだ。これは診察だ。君を蝕む病の正体を、正確に知る必要がある」

 俺は、まるで言うことを聞かない実験動物に言い聞かせるように、冷静に告げた。

「被験体、エルフ族、女性。推定年齢16歳。主訴は全身の倦怠感と魔力枯渇。現在、病原体のサンプルを採取中……」


 独り言のように所見を述べながら、マッシュの菌糸を通して、彼女の皮膚細胞と、微量の血液を採取する。菌糸はそのまま俺の手元に戻り、先端に付着したサンプルを、あらかじめ用意しておいた水晶の破片(スライドガラスの代わりだ)に付着させた。


 次に、俺は別の菌を取り出す。レンズ状に培養した、特殊な粘菌だ。この『顕微粘菌(マイクロ・スコープ)』を水晶の上にかざすと、粘菌の体が光を屈折・増幅させ、サンプルを数千倍に拡大した映像を、近くの平らな葉の上に投影してくれる。僕が開発した、携帯式の生体顕微鏡だ。


 葉の上に、拡大された彼女の血液の映像が映し出された。

 赤い魔力細胞が、力なく漂っている。そして、その細胞の一つ一つに、黒い影のような微生物がびっしりと張り付いていた。


「……ほう。やはり、これか」


 微生物――仮称『清浄病原菌(ピュリタス・ファージ)』――は、タコのような形をしており、その触手で魔力細胞に寄生し、その魔力を直接吸い取っている。吸い取った魔力を利用して、自身の体を直接複製し、分裂していく。通常の生物ではありえない、驚異的な増殖方法だ。


「なるほど! 通常の細胞分裂ではなく、自己の情報を魔力に転写し、魔素そのものを新たな個体に変換しているのか! これはもはや、生物というより、自己増殖する魔法術式に近い! 素晴らしい……!」


 世紀の大発見を前に、俺の興奮は頂点に達していた。この病原菌の生態を完全に解明できれば、生物学と魔法学の境界を覆す、新たな理論を構築できるかもしれない。

 俺が研究者の悦に入っている間も、エルフの少女は苦しげな息を続けている。彼女の瞳には、恐怖に加えて、絶望の色が浮かんでいた。この狂人が、自分を助ける気などないことを、本能的に悟ったのだろう。


 まあ、その通りなのだが。僕がしたいのは、救助ではなく、治療という名の壮大な「実験」だ。

 俺は興奮を抑え、冷静に治療方針を組み立てる。


 まず、アリアが得意とするような神聖魔法(ヒール)は、最悪の選択肢だ。魔力を与えれば、それはそのまま病原菌の餌となり、症状を悪化させるだけだろう。火に油を注ぐとはこのことだ。

 では、薬はどうか。俺が森で発見した菌類の中には、強力な抗生物質を生成するものもある。だが、それをこのエルフに投与するのは危険すぎる。この聖域という無菌室で育った彼女には、外部の菌に対する耐性が全くないはずだ。薬が病原菌を殺す前に、彼女自身がアレルギー反応、いわゆるアナフィラキシーショックで死ぬ可能性がある。


 ……となれば、答えは一つしかない。

 この病原菌だけを攻撃し、他の細胞には一切影響を与えない、超選択的な攻撃手段。

 すなわち、『生物兵器』だ。


「……これを使うしかない、か」


 俺は、滅菌処理したナイフで、自分自身の指先をわずかに傷つけ、血を一滴だけ滲ませた。そして、その血を新たなスライドに乗せ、顕微粘菌で拡大する。

 僕の血液の中には、僕と共生している無数の常在菌や、無害なウイルスが存在する。外部の森の過酷な環境で生きる僕の体は、それ自体が多様な微生物の生態系なのだ。


 俺はその中から、特定の細菌にのみ感染する、バクテリオファージと呼ばれるウイルスの一種を探し出した。

 そして、ここからが僕のスキルの真骨頂だ。


「【菌界創生】――進化促進(アクセラレート)目標(ターゲット)は『清浄病原菌』の魔力パターン。それ以外の細胞には一切反応せず、ターゲットのみを破壊するよう、自己の遺伝情報を書き換え、一億世代分の進化を、今ここで完了させろ」


 俺は、バクテリオファージに魔力を注ぎ込み、その進化の時間を超高速で巻き進める。

 僕の脳内で、ウイルスの遺伝子情報が凄まじい速度で書き換えられていく。突然変異、淘汰、交雑……。本来なら数万年かかる進化のプロセスが、わずか数分間に凝縮される。

 俺は、完全に自分の世界に没入していた。目の前で一人の少女が死にかけていることなど、もはや意識の外だ。


 やがて、進化は完了した。

 スライドの上には、対ピュリタス・ファージ専用に最適化された、究極の生物兵器が誕生していた。

 俺は、そのウイルスを培養し、純粋な水滴に凝縮させる。葉の上に、朝露のように輝く、一滴の雫。これが、今回の実験に使う「新薬」だ。


 俺は、その雫を手に、ゆっくりとエルフの少女に近づいた。

 彼女は、俺が自分の血を使って何かをしていたのを、ぼんやりと見ていたのだろう。その瞳は、もはや恐怖を通り越し、諦観に満ちていた。この男に、毒殺されるのだと、そう思っているのかもしれない。


「実験的治療プロトコル、フェーズ1。対病原体用ファージの経口投与を開始する。結果を観察させてもらう」


 俺は慰めの言葉一つかけることなく、そう淡々と告げた。

 そして、彼女の抵抗する力もない唇をそっと開き、葉の上から、雫を彼女の舌の上に垂らした。


 雫は、音もなく彼女の喉の奥へと消えていく。

 一瞬、何も起きなかった。少女は、ただ虚ろな目で俺を見つめている。

 だが、数秒後。


「……っ……ぅ……あ……!」


 彼女の体が、がくがくと激しく痙攣を始めた。

 皮膚の表面から、まるで陽炎のように、黒い瘴気が立ち上り始める。体内で、僕のウイルスと病原菌の、壮絶な戦争が始まったのだ。凄まじい数の病原菌が、一斉に破壊されていく。


「う……ああああ……っ!」


 少女は短い悲鳴を上げると、白目をむき、完全に意識を失った。


 それを見ても、俺は全く慌てなかった。

 膝をつき、彼女の首筋に手を当てて脈拍を確認し、スキルで体内の状態をモニタリングする。

 ……脈拍、正常範囲内。呼吸、安定。体内の病原菌は、99%以上が活動を停止。


「……ふむ。大量の病原菌の死骸(エンドトキシン)による、急性の全身性炎症反応(サイトカインストーム)か。想定の範囲内だ。危険な状態は脱したな」


 俺は、誰に言うでもなく呟いた。

「フェーズ1は、成功だ。あとは、この被験体が自身の免疫力で回復するのを待つだけか」


 俺は、気を失ったエルフの少女――僕の、最高に興味深い研究対象――を見下ろし、満足げに頷いた。

 この治療が成功した暁には、お礼として、君の身体データを、隅から隅まで提供してもらうとしよう。

 俺は、そんなことを考えながら、次の実験計画を練り始めるのだった。

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