第37話:楽園の香りと、一枚の葉
翌朝、ゲイルたちを取り巻く状況はさらに悪化していた。夜の間に気温は氷点下近くまで下がり、彼らは十分な休息を取ることさえできなかったようだ。スクリーンに映る彼らの姿は悲惨だ。深い隈、かさついた唇、そして虚ろな目。誰もが疲労の色を濃くにじませている。
「……もう無理だ。引き返そうゲイル」
セラが震える声で進言した。
「このまま進めば全滅する。それが私の論理的な結論だ」
「……だが!」
ゲイルは何かを言いかけたが、その言葉は続かなかった。彼自身ももはやこれが無謀な賭けであることを理解しているのだ。
彼らが進むべきか退くべきか、その最後の決断を迫られていた時だった。
俺は研究所のコンソールを操作した。
「最初の刺激を与える。被験体たちの嗅覚をターゲットとする」
俺が実行したのは極めて単純な、しかしそれゆえに残酷な実験だった。聖域の結界、彼らの野営地に最も近いその壁面に、俺は特殊な菌を付着させて活性化させた。その菌はただ一つの機能を持つ。
―――先日俺がミリと共に味わった、あの極上の月光鹿のステーキ。その香ばしく、食欲を猛烈に刺激する匂いだけを完全に再現し、放出するのだ。
風向きは完璧だった。
菌が放出した幻のステーキの香りは風に乗り、飢えた彼らの元へとまっすぐに届けられた。
最初にそれに気づいたのは戦士のボーリンだった。
「……ん?なんだ……この匂い……?」
彼はくんと鼻を鳴らす。
「……肉……?いや、それもとんでもなく上等な肉の焼ける匂いだ……!」
彼の言葉に全員がはっと顔を上げた。そしてそのありえないほど芳醇な香りを吸い込む。この死の森のど真ん中で、腹の底から食欲を掻き立てられる、極上の料理の香り。それは彼らの理性を麻痺させるのに十分すぎるほど魅力的だった。
「罠だ……!」
ゲイルが警戒心を露わにする。
「ハーピーか何か魔物が我々を誘い込もうとしているに違いない!」
だが聖女アリアはその香りに何かを感じ取ったようだった。
「……いいえ。この香り……どこかで……。そうです、レンさんが昔作ってくれたシチューの匂いに、少しだけ……似ています……」
彼女の口から懐かしむように俺の名前が漏れた。
セラは眼鏡の位置を直しながら、冷静に、しかし困惑しきった声で分析する。
「……ありえない。この複雑な芳香成分は、高度な調理技術と、希少なハーブが使われていることを示唆している。この森にその発生源が存在するとは論理的に考えられない……」
飢餓と、好奇心と、警戒心。それらがないまぜになった彼らは、まるで何かに導かれるようにその香りの源を探し始めた。風上へ、風上へと、おぼつかない足取りで進んでいく。そして彼らは俺の不可視の結界のすぐ目の前までやってきた。もちろん彼らにその壁は見えず、香りはすぐそこから漂ってくるのに、その発生源はどこにも見当たらないのだ。
俺とミリはその滑稽な光景をスクリーン越しに眺めていた。
「先生……。これはあまりにも酷では……」
ミリが痛ましげに呟く。
「酷い?僕はただ彼らに感覚的な刺激を与え、その問題解決能力を観察しているだけだ。見ろ、彼らの探索パターンは非効率そのもの。絶望が彼らの判断力を曇らせている。これもまた貴重なデータだ」
一時間ほど無駄な探索を続けた後、彼らは完全に気力を失った。俺が菌の活動を停止させると幻の香りはすうっと消え失せ、彼らの疲労と絶望は香りを嗅ぐ前よりもさらに深くなっていた。
彼らが力なく自分たちの野営地へと引き返していく。
その時だった。
聖女アリアがふと地面のある一点に気づき、足を止めた。そこは香りが最も強く漂っていた場所。彼女はそこにゆっくりと膝をつくと、震える指先で何かを拾い上げた。
それは、一枚の葉だった。
この死の森のどんな植物とも違う、瑞々しい生命力に満ち溢れた、鮮やかな緑色の若葉。俺が結界の内側から実験的に外へと芽吹かせてみた、世界樹の葉だった。
アリアはそのありえない一枚の葉を呆然と見つめている。
その瞳。そこには、信じられないという驚きと、万に一つもありえないはずの奇跡の兆し、そして―――微かな希望の光が灯っていた。




