第36話:観察者と、観測対象
第36話:観察者と、観測対象
聖域の内と外では、まるで世界が二つに分かたれたかのようだった。
俺の研究所。そこは、壁を覆う発光ゴケが暖かな光を放ち、テーブルの上には、香ばしい燻製と、焼きたてのキノコパンが並んでいる。ミリは淹れたてのハーブティーを一口飲むと、不安げな眼差しで粘菌スクリーンに映し出された光景を見つめている。その隣では再誕した王者ノクティスが、まるで巨大な黒猫のように、満足げに体を丸めて眠っていた。
一方、スクリーンの向こう側。不可視の結界一枚を隔てただけの、その場所。
そこは、まさしく地獄の入り口だった。
勇者ゲイルの一行は、生気の感じられない枯れ木に囲まれ、弱々しく揺れる焚き火を囲んでいた。瘴気を帯びた冷たい風が、彼らの着古したマントを容赦なく揺らす。夕食は、硬くなった黒パンと、濁った水だけ。その表情には、深い疲労と、飢え、そして、出口のない絶望が、色濃く刻み込まれていた。
「先生、あの人たちは……本当に先生のかつてのお仲間なのですか?」
ミリが信じられないといった声で尋ねた。彼女の目にはスクリーンに映る疲弊しきった一行と、目の前で悠然と構える俺の姿があまりにも対照的に映っているのだろう。
「仲間という定義によるな」
俺は燻製肉を口に運びながら淡々と答えた。
「正確には、僕というリソースの重要性を正しく評価できず、科学的に見て極めて不合理な人事判断を下した元同僚たちだ。彼らが今あの状況に陥っているのは予測可能な当然の結末に過ぎん」
俺の声に彼らを嘲笑う響きも憐れむ響きもなく、ただ実験の経過が自らの立てた仮説通りに進んでいることを確認する、科学者の無機質な声だけがあった。
スクリーンの中では重苦しい会話が交わされている。俺はマッシュに命じて音声を解析させ、その内容を俺たちにも聞こえるように再生させた。
「……明日どうする、ゲイル」
魔術師セラが冷え切った口調で尋ねる。彼女の分析的な思考は今や希望ではなく、絶望的な現実だけを仲間たちに突きつけていた。
「この森に入って三日だ。食料も回復薬も残りわずか。これ以上進んでも例の『賢者の泉』とやらが見つかる保証はどこにもない」
「弱音を吐くなセラ!」
ゲイルが苛立たしげに声を荒らげる。
「あの泉を見つけさえすれば王都を蝕む『黒枯病』を癒すことができるのだ!それが我々勇者パーティに残された最後の希望だぞ!」
「ですがゲイル様……」
聖女アリアが力なく口を挟む。
「私の神聖魔法も皆さんの疲労とこの森の瘴気のせいで、もう限界です……。せめて装備のメンテナンスだけでもできていれば……」
彼女の言葉にゲイルはぐっと言葉を詰まらせた。
俺の代わりにパーティに加わった重戦士の男ボーリンが、不満げに吐き捨てた。
「だから言ったんだ。あの錬金術師だか何だか知らねえが、そんなに便利だったんならなんで追い出しちまったんだよ」
「ボーリン!口を慎め!」
「事実だろうが!あんたたちの話じゃ、そいつはポーションも装備の修理も野営の準備も全部一人でやっていたって話じゃねえか!そんな大黒柱みてえな奴を追い出した後釜に俺を据えようってのが、そもそも間違いだったんだ!」
ボーリンのあまりにも直接的で的確な指摘に、ゲイルもセラも返す言葉がないようだった。アリアだけが罪悪感に苛まれた顔で俯いている。
俺はその一連のやり取りを実に興味深く観察していた。
「見ろミリ。典型的な組織崩壊のプロセスだ」
俺はまるで教科書の解説でもするかのようにミリに語りかけた。
「外的要因である食料不足と、内的要因である判断ミスへの後悔が相互に作用し、チーム内の信頼関係を破壊していく。特にあの聖女は面白い。彼女の罪悪感は魔力の安定性に直接悪影響を及ぼしている。精神状態が超常的な能力にいかに影響を与えるか、非常に良い観測データだ」
やがて口論も途絶え、彼らはそれぞれの毛布にくるまった。だがその眠りは決して安らかなものではないだろう。飢えと、寒さと、そして仲間への不信感。それらが彼らの心と体を確実に蝕んでいく。
俺はメインスクリーンをスリープモードに切り替えたが、彼らの心拍数やストレスレベルといった生体データだけは常にモニタリングし続けるよう設定しておく。
「さて、我々も休むとしよう」
俺は食事を終えて立ち上がった。
「先生……」
ミリが不安げな目で俺を見上げる。
「あの人たちをどうするおつもりですか?」
「どうもしないさ。少なくとも今はな」
俺は冷たい科学者の笑みを浮かべた。
「まずは被験体が極限状態に置かれた際のベースラインとなる各種データを、一晩かけてじっくりと収集させてもらう。
―――そして明日、そこに最初の『刺激』を加えてやるとしよう」




