第26話:遺伝子の袋小路と、冒涜の閃き
玻璃の豹との遭遇が、聖域の再生という祝祭的な雰囲気に、冷水を浴びせかけた。俺とミリは、重い沈黙に包まれたまま、拡張された研究所へと帰還した。外では、健康を取り戻した世界樹が穏やかな光を放ち、守護者シルヴァンが優雅に歩みを進めている。どこまでも完璧に見える楽園。だが、その完璧な見かけの裏側で、生命そのものが緩やかな終わりへと向かっているという残酷な真実を、俺たちは知ってしまったのだ。
ミリの落ち込みは、見ていられないほどに深かった。彼女は研究所の隅にある椅子に座り、ただ虚空を見つめている。彼女の心象風景の中では、美しくも力なく横たわる玻璃の豹の姿が、かつて同じ病で死んでいった同胞たちの姿と、そしていずれ訪れるであろうこの聖域全体の未来と、重なり合っているのかもしれない。彼女は、再び、たった一人で、静かに滅びゆく世界を見送るという、かつての絶望へと引き戻されかけていた。
「先生……。本当に、本当に、何も、打つ手はないのでしょうか」
数時間後、ようやく彼女が絞り出した声は、祈りにも似た響きを帯びていた。
「私たちが、ただ、このまま……全てが死に絶えるのを、見ていることしか、できないのでしょうか」
その問いに、俺は答えなかった。答える代わりに、俺は俺自身の戦いを始めていたからだ。
研究所の中央に設置した巨大な粘菌スクリーンに、俺がこれまで収集した、この聖域のありとあらゆる生物の遺伝子情報が、複雑な螺旋を描いて映し出されている。俺は、その膨大なデータの海の中を、凄まじい集中力で泳ぎ回っていた。問題の本質は分かっている。遺伝的多様性の欠如。それを解決する方法を、俺は探しているのだ。
単純なクローン技術では意味がない。それは、欠陥のある設計図を、ただコピーするだけの行為だ。魔法による治療も、おそらく不可能だろう。世界樹が生み出した守護者シルヴァンも、既存の生命の設計図をベースにしている。世界樹自身に、全く新しい遺伝情報を無から創造する能力があるならば、そもそも、この問題は発生していないはずだ。
つまり、この袋小路を脱するために必要なのは、外部からの、全く新しい「遺伝情報」の入力。しかし、それは、汚染という最大のリスクと、常に隣り合わせにある。
「……情報……。そうか、これは、情報量の問題なのだ……」
俺は、スクリーンに映し出された、玻璃の豹の、欠陥を抱えた遺伝子配列を睨みつけながら、呟いた。
俺のスキル、【菌界創生】。その本質は、生命の設計図を読み解き、その活動を支配し、新たな創造へと導くこと。これまで俺は、既存の生物を「改良」したり、「組み合わせ」たりすることしかしてこなかった。だが、もし……もし、このスキルの本質が、本当に「創生」にあるのなら……。
俺は、ふと、自分自身の両手を見つめた。
この手は、菌を操る。菌は、生命の原始的な形だ。そして、その進化の歴史は、他のどんな生物よりも長く、多様で、そして過酷だった。特に、あの〈滅びの森〉の菌類たちは、極限環境を生き抜くための、驚異的な遺伝情報を、その身に刻み込んでいるはずだ。
その時、俺の脳内に一つの、あまりにも冒涜的で、そして、最高に刺激的な仮説が、閃光のように迸った。
俺は勢いよく、ミリの方へと向き直った。その目は、俺自身も自覚できるほど、狂気的な探求心の光に、爛々と輝いていた。
「ミリ。僕は、壊れた遺伝子を『修復』することはできない。だが、もし、全く新しい遺伝子を『書き加える』ことができるとしたら、どうだ?」
「え……? 遺伝子を……書き加える……?」
ミリは、俺の言葉の意味を、理解できずにいる。
俺は、彼女の前に立ち、その肩を掴んだ。
「生命の設計図は、言わば、一冊の書物だ。この聖域の生物たちの書物は、何百年も同じページを複製し続けたせいで、文字が擦り切れ、読めなくなっている部分がある。僕は、その擦り切れた文字を、直すことはできない。だが、全く新しいインクで、全く新しい文章を、その書物の空白のページに、書き足すことができるかもしれん!」
俺の興奮は、頂点に達していた。
「そのための『ペン』は、ウイルスだ。特定の遺伝情報を、宿主の設計図に組み込む性質を持つ、レトロウイルスと呼ばれるものがある。僕は、これまで、細菌を狩るウイルスを創り出した。ならば、より複雑な、真核生物の細胞に作用する人工のレトロウイルスを創り出すことも、理論上は可能なはずだ!」
「そして、その『インク』となる、新しい遺伝情報……。それは、あの〈滅びの森〉にこそ、眠っている!」
俺は、貯蔵庫に保管していた、滅びの森の菌類のサンプルを指さした。
「あの、極限環境で生き抜いてきた菌類たちの遺伝子の中には、汚染への耐性、強力な自己修復能力、高い環境適応能力といった、この聖域の生物たちが失ってしまった、生存のための『力』が凝縮されている。あの遺伝子を、僕が創り出したウイルスに乗せて、この聖域の生物たちに注入するのだ!」
俺の、あまりにも壮大で、狂気に満ちた計画。
それはもはや、治療などという生易しいものではない。
種の壁を超え、界の壁すら超えて、生命の設計図そのものを書き換える。
神の領域に踏み込む、禁断の実験。『指向性進化』だ。
ミリは、俺の話を聞き終えると、完全に顔色を失っていた。彼女は恐怖に震える声で、ようやく、一言だけ絞り出した。
「あなた……あなたは、玻璃の豹を……この聖域の生き物たちを……化け物に、変えるつもりなのですか……?」
俺は、彼女のあまりにも人間的な、あまりにも矮小な問いかけに、心からの獰猛な笑みを浮かべてみせた。
「違うな、ミリ」
俺は、断言した。
「僕は、彼らを化け物になど変えはしない。
―――ただ、『生存者』へと進化させるだけだ」




