第25話:頂点捕食者と、楽園の瑕疵
草食動物の頂点たる月光鹿の調査を終えた我々は、次なる目標である、この聖域における食物連鎖の最高位、すなわち頂点捕食者の追跡を開始した。ミリによれば、森の奥深くには『玻璃の豹』と呼ばれる、俊敏で美しい、しかし極めて獰猛な魔獣が生息しているという。彼女の一族も、決してその縄張りには近づかなかったそうだ。
だが、俺にとって危険とは、未知という名の蜜の裏返しに過ぎない。俺たちは、フロートによる上空からの広域探査と、地面に張り巡らせた菌糸ネットワークによる振動・魔力探知、そしてミリが持つエルフならではの追跡術を組み合わせ、玻璃の豹の痕跡を追った。彼女の、風の匂いや、枝の折れ方から情報を読み取る能力は、俺の科学的なセンサーとは全く違うアプローチで、興味深いものだった。
数時間にわたる追跡の末、我々はついにその住処と思しき、岩場の奥にある洞窟を発見した。ミリとシルヴァンに緊張が走る。俺は彼らを制し、まずはマッシュに命じて、内部の様子を偵察させた。マッシュの菌糸が、岩の表面を伝い、内部の情報をリアルタイムで俺に送ってくる。……どうやら、親が一体、そして子の亡骸が一つ、あるようだ。
「……行くぞ。敵意はない。あくまで、観察が目的だ」
俺はそう言うと、光学迷彩の外套を羽織り、音を殺して洞窟の中へと侵入した。
洞窟の最奥部。そこに、その魔獣はいた。
体長は2メートルほど。しなやかな体躯を持つ、豹に似た大型の猫科動物だ。その名の通り、体毛の一部がガラスのように透き通った結晶質で形成されており、洞窟に差し込む木漏れ日を乱反射させ、その姿を幻のように揺らめかせている。素晴らしい擬態能力だ。
だが、その威容とは裏腹に、玻璃の豹の様子は、どこかおかしい。その動きは緩慢で、美しいはずの結晶質の毛皮も、所々が白く濁り、輝きを失っている。そして、その傍らには、既に息絶えた、小さな子供の亡骸が横たわっていた。親豹は、ただ力なく、その亡骸に寄り添っているだけだった。
ミリが、悲しげに息を呑む。彼女には、親豹の深い悲しみと、その身を蝕む病の苦しみが、伝わってくるのだろう。
俺は、感傷に浸る彼女をよそに、即座に分析を開始した。マッシュに命じ、親豹と、子の亡骸から、ごく微量なサンプル(空気中に漂う体毛や皮膚の欠片)を採取させる。そして、その場で、解析を進めた。
数分後、俺は、驚くべき、そして、ある意味では当然とも言える、結論に達していた。
「……病ではないな」
俺の呟きに、ミリが顔を上げた。
「これは、病原菌によるものではない。原因は、もっと根深く、そして、どうしようもないものだ」
「どういう……ことですか?」
「遺伝的な疾患だ」と俺は断言した。「この聖域は、完全に外部から隔離された、閉鎖環境だ。ここに住む生物は、数百年もの間、新しい血、すなわち、外部の遺伝子情報が一切入らないまま、近しい個体同士での交配を繰り返してきた」
俺は、ミリにも分かるように、言葉を選んで説明した。
「その結果、通常ならば多様な遺伝子の中に隠され、表に出てくることのない、生物にとって不利益な、弱い性質が、代を重ねるごとに、濃縮されてしまったのだ。この豹の、結晶質の毛皮を形成する遺伝子には、おそらく、生まれつきの欠陥があった。そして、その弱い性質が、近親交配の果てに、この親子のような、致死的な疾患として、現れたのだ」
ミリは、愕然としていた。
彼女が信じていた、清浄で完璧な楽園。その実態は、緩やかな、しかし、決して逃れることのできない、遺伝的な行き止まりへと向かう、閉ざされた箱庭だったのだ。
「先生……この豹を、治すことは……できないのですか? ミリにしたように、あなたの力で……」
彼女は、懇願するように、俺に尋ねた。
俺は、静かに首を横に振った。
「無理だ。僕のスキルは、外部から侵入した菌を駆除したり、傷を塞いだりはできる。だが、生命の設計図そのものに書き込まれた、根本的なエラーを、修正することはできない。これは、一個体を治療して済む話ではない。この豹の、種そのものが、袋小路に迷い込んでいるのだからな」
「そんな……」
「唯一の『治療法』は、外部から、全く新しい、健康な遺伝子を持つ個体を連れてきて、交配させることだ。だが、それは、言うまでもなく、不可能だ」
聖域の再生は、完了したはずだった。
世界樹は、健康を取り戻した。ミリも、元気になった。
だが、俺たちは、この楽園の、決して癒すことのできない、根本的な瑕疵を、目の当たりにしてしまったのだ。
俺は、美しくも、緩やかな死に向かうしかない、頂点捕食者を見つめた。
ミリは、その隣で、自らの故郷の、逃れられない運命を悟り、静かに涙を流していた。
俺の目の前に、新たな、そして、これまでのどんな問題よりも、遥かに困難で、複雑な研究テーマが、提示された。
遺伝子の袋小路。種の絶滅。
俺の科学は、この、生命の、根源的な悲劇に、果たして、介入することができるのだろうか。
俺は、初めて、自分の能力の限界と、そして、それを超えたいと願う、強烈な探求心に、同時に、焼かれるのだった。




