第18話:観測、そして回復のボトルネック
世界樹に新たな共生菌を導入する荒療治から、数週間が経過した。
聖域には、目に見えるほどの変化が訪れていた。あれほど深刻だった結界の不安定化は収まり、偽りの空は再び綻びのない青を取り戻している。俺の魔力供給に頼らずとも、世界樹が自力で結界を維持できるまでに回復したのだ。俺はようやく、絶え間ない魔力供給という重労働から解放された。
ミリは、日に日に生気を取り戻していく故郷の姿に、感極まって涙ぐむこともあった。世界樹の葉は明らかにその緑を深くし、以前は感じられなかった力強い生命力が、聖域の空気そのものに満ち満ちている。彼女が俺に向ける視線から、当初の恐怖はほとんど消え失せ、今では畏敬と、そして全幅の信頼が寄せられているのが分かった。もっとも、俺にとって彼女の感情がどう変化しようと、それは観測データの一つに過ぎないのだが。
その間、俺は決して休息していたわけではない。むしろ、研究者としての本領を発揮し、聖域全土にわたる大規模な定点観測体制を構築していた。
研究所の粘菌スクリーンには、リアルタイムで更新される無数のデータが映し出されている。フロートが大気中に散布した観測用の胞子が、聖域内の魔力濃度や気温、湿度といった環境データを常に送信してくる。シェルの協力で土壌の各深度に埋設した菌糸センサーは、微生物の活動レベルや栄養素の変化を監視している。そしてミリには、彼女自身の感覚を通して、世界樹の「意識」や「感覚」といった、数値化できない主観的なデータを報告させていた。
あらゆるデータは、世界樹が順調に回復していることを示していた。だが、俺は一つの僅かな、しかし無視できない異常値に気づいていた。
「……おかしい」
俺は、スクリーンに表示されたグラフを睨みながら呟いた。
「世界樹の魔力回復速度が、理論上の予測値を3.4%も下回っている。誤差にしては大きすぎる」
ミリには、この差が何を意味するのか分からないだろう。彼女にとっては、世界樹が元気になっているという事実だけで十分なのだ。しかし、俺にとって、予測と現実の間に存在するこの「ズレ」こそが、看過できない問題の本質を示唆していた。
何かが、回復の足を引っ張っている。いわゆる、ボトルネックだ。
俺は、自室にこもり、あらゆるデータを再検証した。
栄養剤の投与は十分か?はい、投与量も吸収率も計算通りだ。
共生菌は正常に機能しているか?はい、土壌の活性化レベルは予測を上回るほどだ。
摘出した腫瘍の再発は?いいえ、その兆候は微塵もない。
では、一体何が原因だ?
俺は、思考の迷宮に数時間も没頭した。そして、一つの可能性に行き当たった。
それは、これまで俺が全く考慮に入れていなかった、盲点とも言える要素だった。
「……水、か」
俺が作り出した浄水プラントは、汚染された沼の水を、H2O以外の分子をほとんど含まない、完璧な「純水」へと浄化する。生命にとって、これほど安全な水はない。
だが、本当にそうだろうか?
生命活動には、主要な栄養素以外にも、ごく微量な元素、すなわちミネラルが不可欠だ。鉄、亜鉛、マグネシウム……それらがなければ、体内の化学反応は正常に行われない。
世界樹は、この完全に閉鎖された聖域で、数百年もの間、外部から一切の新しい物質を取り入れることなく、生命活動を維持してきた。その過程で、土壌に含まれていたはずの、これらの必須微量元素が、植物の吸収と雨による流出によって、完全に枯渇してしまったのではないか。
これが、俺の立てた新たな仮説だった。
今の世界樹は、最高の食事と最高の薬を与えられていながら、塩分やミネラルを一切摂取できていない、極端な偏食状態にあるのだ。これでは、完全な健康体にはなれない。
仮説を検証すべく、俺はミリを呼び出した。
「ミリ、一つ質問がある。この聖域で、『塩』は採れるか? あるいは、鉄や銅を含む、金属鉱石のような岩は存在するのか?」
俺の突飛な質問に、ミリはきょとんとして首を傾げた。
「塩、ですか……? いいえ、泉の水はどこまでも甘くて美味しいですし、岩はただの石です。父様たちが、外の世界の塩は、しょっぱくて苦いものだと話していたのを、覚えています」
「……そうか。やはりな」
ミリの答えが、俺の仮説を裏付けた。
俺は思わず、口元に笑みを浮かべていた。原因が分かれば、解決策は自ずと見えてくる。
そして、その解決策は、きっとまた、この純粋なエルフの少女を絶叫させることになるのだろう。
それでこそ、僕の研究だ。
俺の脳裏で、次なる最も禁断とも言える実験計画が、その輪郭を現し始めていた。




