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十二話

 翌日、真赭ますほあきら月影院げつえいいんの御所へと牛車で向かった。月影院が住むのは院号と同じく「月影院」という名の御所であり、麗扇京みやこの南側に存在した。


 月影院の御所は、白木の柱や板敷きの床の色彩は控えめで、落ち着いた静謐な邸であった。煌の黒の漆塗りと金で飾られた邸とは正反対である。


 月影院が座す間に通された真赭は緊張で体が固くなっていた。隣で煌が真赭の緊張をほぐそうと微笑みかけてくれたが、彼もまた苦手な人に対面するという難題を突きつけられていた。


 御簾の向こうの人影が月影院だろう。御簾越しでもわかる神々しさと威圧された空気は真赭の呼吸を荒くさせた。


 「お呼びたてしてしまって悪かったわね。来てくれてありがとう」


 御簾の向こうからの声は真赭が想像していたより、ずっと若々しかった。まるで少女のような甘い声に驚いて、真赭は頭を下げながらちらりと煌の方を見た。煌は「これだから、掴みどころがない」とでもいうように月影院に会えば皆がするであろう、初々しい真赭を微笑ましそうに見ていた。


 「真赭ますほ…と言ったか。秋次あきつぐ殿に、麗扇京みやこであなたのことを頼まれている。私も一度は会ってみたかった。秋次殿が気にかけている娘をね」


 「きょ…恐悦至極に存じます」


 真赭は頭を下げたままで、汗が一粒床に垂れた。


 「真赭と二人きりで話したい。煌殿、席を外してくれまいか?」


 月影院の言葉に、煌が心配そうに真赭に視線を向けた。真赭は「大丈夫」というように小さく頷いた。煌は真赭を信頼したように、頷き返し房室へやから退出した。


 煌が部屋から退出したのを確認すると、月影院の女房がするすると御簾を上げた。真赭は驚いてそれを見ているしかできなかった。


 「私、人との間に御簾などの隔たりが有るのを嫌うの」


 月影院は優雅に微笑んだ。波打つような豊かな黒髪は肩のあたりで尼削ぎにされ、毛先が内巻きになっていた。頭には生花の白い芍薬しゃくやく石楠花しゃくなげを挿し、そこから真珠を連ねた髪飾りを垂らしている。


 光沢のない白い絹の衣には白糸の刺繍がなされており、上品かつ涼しげな装いであった。白糸とはいっても純白に近い白から生成りに近い白まであり、それが複雑な表情を見せ、衣に重厚感を与えていた。

 月影院は夫である先帝の喪が明けても、喪に服す白い衣を着続けているそうだ。それが彼女の深い愛を表している気がした。


 喪服の白を着ることで、清純さが純白で表され控えめな様が逆に美しさを匂い立たせた。まず、常人は頭に生花をつける度胸はないだろう。花の美しさに顔が負けてしまうと恐れるはずだ。しかし、月影院は花の美しさに負けず意思のはっきりとした顔をしていた。


 石楠花は毒、芍薬は薬。自然の花々を慈しむ純朴さ──というにはいささか、毒々しく生々しい何かがあった。高価な宝石を身につけるより、生花を身につける方が度胸がいるだろう。


 煌の評価は正しいのかもしれないと真赭は思った。確かに、月影院は掴みどころがない…のかもしれない。


 「南の島の出身だと聞いたわ」


 月影院は当たり障りのない話題を振ってきた。二人きりで話したいと煌を退席させたので、何を話すのかと身構えていた真赭は拍子抜けした。


 「はい。天籟島てんらいとうという場所です」


 「そう。私はかつては蝦夷えみしと呼ばれた北の生まれだから、正反対の土地ね」


 月影院は柔らかく微笑んだ。その時に、真赭は月影院の()()のような瞳と目が合った。白菊しらぎくに読ませてもらった慶帝伝の中で、皇后はたびたび「水晶のような瞳」と表現されていた。


 真赭は純真さや瞳が澄んでいることの比喩だと思っていたが、実際に会ってみて水晶と表された意味がわかった。瞳の色素が薄いのだ。黒や焦茶などではなく、琥珀に近い色をしていた。その中にみどりあおみどりが散っているようにも見える。


 北の地方は日照時間の関係で肌や瞳の色素が薄い人が現れると秋次あきつぐに教えてもらったことがあった。月影院の水晶のような瞳に見つめられると、何もかも見透かされているような気がしてくる。煌が苦手だと言ったのもわかる気がした。


 そして慶帝伝の中には若宮──今の帝にも水晶の瞳が受け継がれた、と書いてあった。つまり、帝も母親譲りの色素の薄い瞳をしているわけだ。


 それは、大多数の黒や焦茶の瞳を持つ者たちからすれば異なるものとして嫌悪感があるだろう。なぜ、煌の方が正当な血筋だと騒がれたのか理由がわかる気がした。


 人は異なるものを恐れるのだ。真赭の髪が赤銅色であったことで天籟島の者たちが恐れたように。


 「五節の舞姫を務めるそうですね」


 「はい。白菊様の代理ではございますが精一杯務めさせていただきます」


 励みなさい、と月影院は優しく微笑んでいる。そして、まるで良いことを思いついたとでもいうように、口を開いた。


 「そうだ。ぜひ、あなたの舞を見せてもらいたい」


 私は既にまつりごとからは引退した身だから、大嘗祭には参加しないから…と付け足された。真赭は汗が手のひらに滲むのがわかった。


 「私の舞はまだまだ練習不足で、月影院様に披露できるほどではなく…」


 「謙遜しなくていいのよ。秋次殿は文の中であなたを島一番の舞い手だと書いていた」


 月影院は柔らかく微笑みながら、真赭に安心感を与えようとしているように見えた。秋次は文の中で真赭を誉めてくれたのだろうが、それが今、真赭を追い詰めることになろうとは思わなかっただろう。


 真赭は汗が背中をびっしょり覆っているのを感じた。このまま不出来な舞を見せたら、きっと月影院は失望する。後ろ盾になってくれるという話も白紙に戻るかもしれない。


 「あの、謙遜でも何でもなく、私の舞はお目汚しにしかなりません」


 真赭は泣きそうになるのを堪えながらそう言った。月影院はしばらく黙って真赭を見つめていた。そして申し訳なさそうにその美しい柳眉を下げた。


 「私の思いつきが、あなたを追い詰めてしまったようね」


 月影院はごめんなさいと謝るので、真赭は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。肩身が狭い。


 「いえ、全ては私の実力不足にございます」


 真赭が頭を下げると、月影院は顔をあげてと優しく真赭に話しかけた。この人は慈母のようでありながら、少女のようでもあると思った。三十も半ばだろうに、衰えの兆しはなく、むしろ若々しさに磨きがかかっているように見える。


 「あなたを一番の舞い手と評した秋次殿に間違いは無いと思うの。自信を持って舞姫を務めなさい」


 月影院の励ましは、真赭の心を潤すどころか逆に渓谷に突き落とすかのように感じてしまった。自分の心が荒んでいると真赭は感じる。昨夜だって、煌にきつく当たってしまった。


 真赭の微妙な表情を見て、何かを察したのか月影院は優しく語りかけた。


 「何か憂うべきことがあるのですね」


 月影院の瞳に射抜かれて、真赭は思わず頷いてしまった。


 「無骨な猪が、優雅なくぐいにはなり得ないのでしょうか」


 真赭はそう尋ねていた。夕蝉ゆうぜみからの言葉がずっと真赭の中で渦巻いていた。


 「そうですね。猪には猪なりの戦い方というものがあります」


 月影院はにやりと笑った。そしてそばに控えていた女房に「()()を用意して」と伝え、しばらく席を外すと言って月影院は御簾の奥へと姿を消した。真赭は一人で待っている間、煌のことばかりを考えていた。


 最初に席を外せと言われてから、一刻ほど経った。もやもやした気持ちを抱えたまま待たされている煌を思うと少し可哀想だった。


 しばらく待つと、御簾の奥から月影院が姿を現した。先程の白い喪服姿ではなく、白い直垂ひたたれに水干、烏帽子に白鞘巻の刀をさした男装姿で現れた。こちらが息を呑むほど美しかった。女だとわかっているのに、男のようにも見える。


 女房たちが即席の楽人として太鼓や笛、歌を奏で始めた。月影院の舞は優雅でありながら、力強さを感じさせた。最初は吹雪のような雪景色が浮かんだが、やがて雪は溶け春の訪れを感じさせるようだった。


 足捌きは華麗で、音が聞こえなかった。扇を動かす時に衣擦れの音がかすかにするだけで、これこそ「静」の舞の極致を思わせた。そして月影院が男装しているからか、煌が見せてくれた男舞の雰囲気も加わり、男女の両方の舞の良さが出ている。


 一人の人間が、男女どちらも感じさせる舞を披露したことに真赭は一人の舞い手として感銘を受けていた。


 「すっ…すごいです! まるで慶帝伝の払暁の巻の一場面みたいでした!」


 真赭は思わず興奮しながら、感想を話すと、その勢いに押されたのか月影院は苦笑した。そして、真赭ははっと気づいた。白菊が乗り移ってしまったかのように話してしまった。しかも、慶帝伝とは先帝と皇后の話を面白おかしく脚色した小説。本人を目の前にして、言うべきではなかったと気づいた。


 「ふふっ。慶帝伝ね。あれはちょっと話を盛りすぎだ」


 月影院は快活に笑う。真赭は照れて顔が真っ赤になった。


 「五節舞とは違うが、これが猪の戦い方だ。真赭、あなたの憂いを断つ助けになればいいが」


 


***




 月影院は舞を披露してくれた後、御簾の後ろに引っ込み、ようやく煌を房室へやへと呼び戻した。煌は心配そうに真赭を見やるが、真赭は「大丈夫」と伝えるために微笑んだ。


 「長いこと、除け者にしてしまったね。煌殿」


 御簾越しでも、月影院が悪戯っぽく笑ったのが真赭にはわかった。きっと御簾をあげて話し合い、舞を披露したことは女同士の秘密だということだろう。


 「いえ、わたしの舞姫がお気に召してくれたなら何よりです」


 煌が「わたしの」という部分を強調したことを察した真赭は腹立たしい煌の脇腹を小突いてやりたくなったが、月影院の御前なので我慢した。


 「秋次殿の頼みでもある。何かあれば、私が助けになりましょう」


 月影院のこの宣言は頼もしいいものだった。そしてもう既に月影院は真赭の助けになってくれている。男装の舞を披露してくれたことは、真赭にとってとても参考になった。

 白菊も助言をくれるが、やはり怪我をしているので見本を見せることができない。実際に舞って見せてくれたことはとても大きなものだった。


 「煌殿。これは老婆心からのおせっかいだが、羽目を外し過ぎるのは良くない。歌って騒ぎ、酒と偽って水を飲み、狸寝入りするのもほどほどにしなさい」


 月影院の言葉に、煌は笑顔を崩さなかったが一瞬、身体が強張ったのがわかった。事実を言い当てられたのだろう。もしそれが本当ならば、煌はうつけを演じるために酒を飲んだふりをし、眠ったふりをしている? 煌から女のような香りがしたのも同衾したわけではないのだろうか。


 「月影院様に私も申し上げておきたいことがございます」


 煌は覚悟を決めたような表情をした。そしてちらり、と真赭を見てまた月影院の方へ向き直った。きっと昨夜の真赭との会話を思い出したのだろう。そして自惚れてもいいなら、煌は真赭の顔を見て勇気を出したに違いない。


 「私は、今上きんじょう陛下とも月影院様とも敵対する意志はございません」


 煌はそう言うと頭を下げた。「血判で書を作っていただいても構いません」と続け、煌の覚悟の強さが現れていた。月影院はその言葉を受け、血判書が真赭の目の前で制作された。


 内容は、煌が帝に逆らわないことを宣誓するものとなっている。煌は小刀で薬指の爪の上の皮膚を軽く切り血を絞り出し親指に付けて紙に押し付けた。


 「煌殿。あなたがそう言ってくれて私も嬉しい。あなたはいつも私から逃げてばかりだったから」


 月影院のその言葉は喉に絡みつくような甘い酒のようで、真赭はぞっとした。この人は優しい慈母の顔を持っているけれど、敵対するものには容赦しない鬼の顔も持っているのだと思った。


 「もう逃げませんよ。私の舞姫に説得させられましたから」


 煌は呆れたように、真赭を見た。


 「あなたを変えたのは真赭だったのね」


 御簾越しでも月影院が面白いものを見たと微笑んだのがわかった。


 邸へ帰る牛車の中で、真赭は「月影院様はお優しい方ですね」と言うと、煌は「あの短時間で、手玉に取られおって!」と月影院の魔性に魅せられた真赭を呆れたように、しかし愛おしさを込めて見つめてきた。

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