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十三話

 あきらの邸に戻った真赭は、月影院げつえいいんが見せてくれた「猪の戦い方」の舞の記憶が薄れぬうちに、体に叩き込もうと練習を始めた。


 一人で、男と女、陽と陰を表現できることに真赭は感動した。そして優雅さは失われていなかった。力強さと優雅さは同時に存在できる。


 足捌きを完璧に覚えられれば、真赭の持ち味である軽やかさと五節舞の優雅さは共存出来ることを知った。今までの海神わだつみの舞は無駄ではなかった。


 月影院の影を追うように、真赭は振り付けを体に染み込ませていく。優雅なくぐいになれないなら、鵠と見紛うほど美しい猪になればいい。


 夕蝉ゆうぜみの馬鹿にしたような微笑みが浮かんだ。不香ふきょうの見下すような冷たい視線を思い出した。申し訳なさそうな顔はしているが、実際は真赭に失望しているともえの表情、心配しているかぐやの瞳が浮かんだ。


 「全員、私の舞で圧倒させてやる!」


 誰にも文句はつけさせない。足を引っ張るなんてもってのほか。歯を食いしばって足を動かす。先程までばらばらだった足の動きと手に動きが揃った。今なら行ける気がする、という感覚に突き動かされ、真赭は扇を手に取った。


 水面に雫が落ち、波紋が広がるように軽い足取りで舞う。扇は手の中でまるで指の延長線のように、馴染んだ。五節舞の他の姫たちの動き、桜の下で見せてくれたかぐやの動き、月影院が見せてくれた舞、その全てを自分の中に落とし込み、完璧に模倣する。


 それは、ウキに「そこまで回転する必要はない」と止められるほどに編み出した荒々しい海神の舞を閃いた時の、新しい境地に辿り着く感覚。


 涅槃ねはんとはこういう場所なのかもしれない。真赭は踊りながら、周りの景色が遠く遅くなっていくのを感じた。床は水面になり、空との境界線が溶けていた。水面に浮かぶ薄らと発光している金のはすが、真赭が次の足の置き場を示していた。


 蓮を踏むと、花弁が散る。そしてまた次の蓮が浮かび上がり、真赭を導くのだ。頭の中に五節舞の雅楽の音色がどこからともなく聞こえてきた。次にどんな動きをすればいいのかわかる。


 蓮の周りを飛び回る花精になった気分だった。


 「月影院の御所から帰ってすぐ練習とは、熱心なことだな」


 ゆったりとした拍手をしながら、真赭の舞をあきらが眺めていた。いつの間に、真赭の離れの邸に来たのだろう。彼は確かに本邸の方へ向かったはずだが。


 「い…いつの間に」


 舞に没頭していた真赭は煌の存在に先程まで気づかなかったが、煌が言うには最初からいたらしい。つまり、先程、自分を鼓舞し覚悟を決めるために発した「全員、私の舞で圧倒させてやる」と言う言葉を聞かれたことになる。恥ずかしさで煌の顔がまともに見れなかった。


 「しかし、そなたの五節舞はかつて天籟島で見た神の如き舞に近づいているぞ」


 「それは、舞が荒々しくなった…ということですか?」


 煌の言葉に真赭は身体が冷えていくのを感じた。至高の領域に達しかけたというのは全て自分の思い込みなんじゃ無いか。


 「いや、そうではない。動きの全てに神が宿ったかのような美しさがあった」


 煌からの美しいという褒め言葉が、真赭にとって最上の喜びであるのと同時に少し胸が痛んだ。真赭は嬉しさを表すように微笑んで見せたが、うまく笑えているだろうか。


 なぜ、この賞賛を素直に受け取れないのだろう。煌は「美しきものを愛でる」と公言しているのだから、彼ほど審美眼に優れた人もいないんじゃ無いか。


 煌にとって真赭は並べられた宝石や舞うだけの人形と同じ。それなのに、真赭は自分が人として認められたいと思ってしまった。


 「真赭」


 煌が初めて真赭の名前を呼んだ。真赭は自分の少し湧き出てきた欲望を見透かされたのかと思って目を見開いた。いつも、「そなた」としか言わなかったのに、なぜ。


 「真赭とは赤の色だな」


 煌がこちらを見つめながら呟いた。名前を呼ばれただけで、胸が締め付けられるような痛みに襲われた。動揺するな、普段名前を呼ばない人が珍しく呼んだから驚いただけだと、自分に言い聞かせる。


 「日の光や海水で髪の色が褪せてしまうと聞いたことはあるが、そなたの髪は──」


 煌が真赭の髪をじっと見ていることに気づいて、真赭は反射的に髪を手で覆い隠した。煌はかつて真赭が髪を染めていても「黒紅梅」と言ったほど、真赭の髪に赤が混じっていることに気づいた。


 最近、舞の練習に没頭していて髪を染めるのを怠っていた。夕蝉ゆうぜみからも髪がくすんでいると言われた。あの時はただの罵倒だと思っていたが、夕蝉も真赭の髪が黒ではなく赤であることに気づいていたのかもしれない。


 「あのっ、あまりじろじろ見ないでください。女性の髪を見るなんて失礼ですよ!」


 腕で髪を覆うように隠しながら、真赭は訴えた。


 「そうか。それはすまなかったな。女は私がいると知ると御簾の隙間から髪を見せびらかし自慢することしかしなかったのでな」


 この人はこういう人だった…と真赭は失望するというよりは安心した。そうだ、月影院の前で見せた煌の表情こそ異常だったのかもしれない。うつけを演じてはいるが、女嫌いというわけではない。うつけを演じながら女遊びは意外と楽しんでたりするのだろう。


 最近、煌のことを大きく見積りすぎていたのかもしれない。残念な部分が見えたことにより、そういえばこの人ってこういう人だったと安心した。


 「おい、どこへ行く」


 真赭は煌を横切って湯殿へ行くことにした。この邸は贅沢なことに、離れの邸の方にも厨と湯殿が完備されている。


 「汗かいちゃったんで、湯浴みするんです。あなたはどこかへ行ってください」


 流石にこう言えば煌は退くだろう。風呂を覗くような最底塵屑(ごみくず)野郎だった場合、月影院の後ろ盾をちらつかせればいい。彼は矜持を持った貴族だから、そんなことはしないだろう。


 「わかった。これにて失礼する。ああ、それと湯上がりの姿は誰にも見せぬようにな」


 そなたでも、湯上がりくらいは多少色気が出るように映るだろうからな。と失礼すぎる余計な言葉を付けたし、煌は軽快に笑いながら去って言った。その腹足しい後ろ姿にくつを投げつけてやりたかった。


 湯殿に入って、衣を脱いだ真赭は自分の少し肋骨の浮いた薄い体を見て、煌の言葉が蘇ってくる。「そなたでも」って失礼過ぎるとは思うのだが、この体に色気というものが皆無であることも分かっていた。


 湯を桶に汲み、少し冷ましてから髪をつける。湯の色はあっという間に墨色に濁っていく。そして赤銅色の髪が現れた。湯で丁寧に染料と汚れを落としていく。髪を絞って水気を切ると、真赭は胡桃の染料を丁寧に揉み込むように髪に塗布していった。


 しっかりと根元まで染める。煌はきっと真赭の本当の髪色を知ったら、簡単に倭寇の妻との繋がりに気づくだろう。彼は赤銅色の髪を見てみたいと言うほどには興味を持っていたから。


 「ばれたら、どうなるんだろう」


 染料で黒く染まった指先が震えた。倭寇はこの国では罪人とされる。賎民の地位にいる存在だ。そんな娘に、舞姫の大役を任せることはないだろう。


 「私は、捕まるのかな」


 記憶は定かではないが、真赭は倭寇の船に乗っていた。子供だった自分に出来ることはなかったかもしれないが、略奪に加担していた可能性もある。今は自分の虫食いのような不確かな記憶が恨めしかった。


 しかし、記憶を取り戻すと言うことは本来の人格を取り戻すと言うことである。今は、倭寇の娘とばれたら潔く罪を償おうと考えているが、もし本来の人格が悪逆非道で略奪に罪悪感を持っていなかったら。


 記憶を取り戻したと同時に、真赭はどうなってしまうのかわからなかった。逃走するだろうか。それとも自首するだろうか。自分がどんな人間だったかわからないのはこんなにも恐ろしいことなのだとは知らなかった。


 「私、記憶を思い出さなくていい。()()のままでいい」


 ウキが名付けてくれた名前。たった数年しか真赭として生きていなくとも。ウキの元で巫女見習いとして暮らしたこと、天籟島てんらいとうのこと。前の記憶を思い出して、天籟島での全てがなかったことにはしたくなかった。




***



 

 真赭は常寧殿じょうねいでんでの稽古がない日は連日のように白菊しらぎくの元へ通った。迷惑かと思っていたが、煌が雲母きらら家に話を通してくれていたのか、真赭は雲母邸をほぼ出入り自由だった。


 白菊も医者から絶対安静と言われて暇しているらしく、真赭の来訪をいつも歓迎してくれた。


 「早く、白菊様に練習した舞を見せたかったんです」


 真赭は月影院が見せてくれた舞から着想を得た動きを取り入れた舞を披露した。白菊は真赭が最初に見せた海神の舞を見た時と同じくらい興奮して、惜しみなく拍手を浴びせてくれた。


 「すごいわ、真赭。何というのかしら、殻を破って新しい境地に達したようね! 静かさの中に美しい強さがある。これは五節舞として、美しいのはもちろん、新たな側面を見せているわ」


 白菊は早口で感想を述べた。これは、慶帝伝について語る時と同じだ。

 

 「何か、きっかけがあったの? あなたの舞は見違えるようだわ」


 白菊は目を輝かせながら、尋ねる。


 「実は月影院様とお会いする機会がございまして。舞を見せてもらいました。そこから着想を得ています」


 真赭がそう答えると、白菊は一瞬呼吸をするのさえ忘れてしまったようだ。しかし、呼吸を再開すると息を吐く暇もなく喋り始めた。


 「う…羨ましい! 月影院様に会えるなんて。あの御方はもう出家してしまわれたから、会える機会なんてあまり無いのに。えぇ、いいなぁ〜。どんな御方だった? やはり慶帝伝のように素敵な御方だった?」


 白菊が真赭を質問責めにし始めたとき、「やめないか、白菊」と諌める声が響いた。房室の入り口には腕を組んで、ため息を吐いた煌がいた。


 「あら、煌。今日はうちに来たの? 女の人たちのところに遊びに行ったのかと思った」


 白菊が意外なものを見るように煌を見つめた。「たまにはお前のところでもいいだろう」と煌は言う。二人の様子は恋人とはまた違った親しみが感じられた。


 「なるほど。そなたの舞が変わったのは月影院のせいだったのか」


 煌は目を細めて真赭を見つめた。その言葉の響きは真赭の舞の変化を喜ぶというよりは、影響を受けたのが月影院だったことを残念がっているような、不満そうな様子が伺えた。


 「はい。月影院様が男装の舞を見せてくださいました」


 真赭が月影院の舞がいかに真赭にとって新しい衝撃だったかを話すと、白菊は「さすが月影院様! かっこいい!」と月影院の舞を見れた真赭を羨ましがったが、煌は眉間に皺が寄るだけだった。


 「そなたも白菊も、なぜそんなに月影院を慕うのだ。あの御方は腹の中で蠱毒を飼っているような恐ろしい人だぞ。人魚の肉を食べたのかと思うほど、怖いくらい老けないしな」


 「えー、かっこいいじゃん!」


 煌の深刻そうな顔に比べ、白菊はののんびりと微笑んでいる。


 「倭寇の討伐も、他国の征服も、外夷の襲来を退けたのも、全てあの御方が背後にいるのだぞ。あれほど好戦的な御方を私は知らない」


 倭寇──その言葉に真赭は身体が固まって声が出なくなった。真赭が思い出した燃え盛る船の記憶。海を真っ赤に染めるほどの血。あれは、賜船しせんが倭寇を討伐した時の記憶ではないか? 真赭がかつて乗っていた船は、家族は、月影院の命令によって壊されたのではないか?


 真赭が声が出なくなるほど、汗が噴き出て固まっているのを知らずに白菊と煌は話を続ける。


 「有名なものは、神風が起こって敵の船が沈んだのよね! あと潮の流れを読んで渦が起こる場所に誘導して、船を沈める作戦もあったはずだわ。敵陣に牛の死体を投げつけたり!」


 白菊が、歴史の内容を嬉々として語る中、真赭はそんな言葉はちっとも頭に入らなかった。記憶を思い出さず真赭のままでいたいと願ったはずなのに、自分の家族が殺されたかもしれないと思うと胸が痛んだ。


 まだ真赭は思い出していない過去を切り捨てるような決断はできなかった。

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