神崎川物語・1 ミカンを剥く少女
神崎川物語
ミカンを剥く少女 (2026年 加筆)
「えぇ、また、あの役やるのぉ?」
その子は、両手両足をつっこんだこたつの上にアゴを載っけ、ミカンを見つめながら不足そう。
セミロングの髪が、こたつにかかり、前髪のすき間から不満そうな片目が覗いています。
この子……この少女は、いつからか住み着いてしまいました。
最初は気配……いえ、単なるインスピレーションだと思っていました。
わたしの作品は百五十本ほどあって、その多くに十代の少女が登場します。
二十歳の時に書いた『犬のお巡りさん』という戯曲で子ネコちゃん役になったのが最初です。
最近は『はるか 真田山学院高校演劇部物語』のはるかになったり、『まどか 乃木坂学院高校演劇部物語』では、まどかになったりしました。
『乃木坂学院高校演劇部』では、はるかとまどか二役の出ずっぱりでしたので、ちょっと、ご機嫌ナナメです。
この子が見え始めたのは、『女子高生HB』の第一章を書き始めていたころです。
「わたしはHB,シャーペンの芯じゃないよ……」
と、最初の一行を書いて、あとが続かず、座卓で唸っているときに、この子が現れました。
目の前に気配を感じて、パソコンのモニターから顔をずらすと、目の前でコワイ顔をして、今のように、座卓にアゴを載せ、わたしを観ていました。
それから、なんの不思議もなく、わたしの中に住み着いて今に至っています。
「違うよ、四十年前から、ずっと住んでいるんだよ」
と、頬を膨らませます。
わたしが、本を書いているうちは、わたしが書斎代わりにしているリビングの片隅で遊んでいます。
わたしと違って、たいそう本の好きな子です。
大した本というか、ムツカシイ本は読みません。赤川次郎や、氷室冴子がお気に入り、数は少ないですが浅田次郎の本も読みます。
「ポッポ屋が好きなんだ」
ある日、機嫌のいいときに、事のついでのようにそう言った。
「そうなんや……」
わたしの気のない返事をとがめるでもなく。わたしの好きなコーヒー牛乳を二つ冷蔵庫から持ってきて、一つをわたしの前に置き、もう一つは、自分で飲みます。
佐藤愛子が自分の兄であるサトウハチロウの悪口を書いたエッセーを読んでいます。
「『妹』書き直してみる気ない?」
と、振ってきました。
『妹』はわたしが二十二の時に書いた戯曲で、十数回の上演実績があって、わたしの作品の中でも売れ筋でした。
しかし、十年ほど前に、北陸の劇団で演られて以来、上演はおろか、わたしの記憶の中でも引き出しにしまったものになっています。
「あれなあ……三億円事件が出てくるから、かなり手え加えんとなあ……」
気のない返事をして、パソコンに目を落とすと、「テネシーワルツ」のメロディーが聞こえてきます。
「ん……」
顔を上げると、少女が目を潤ませながら、じっとわたしの顔を見て、「テネシーワルツ」をハミングしています。
「どないしたんや?」
「ム~~」
一言唸って、少女は消えてしまいました。
そのままボーっとして…………気がつきました。
テネシーワルツは『ポッポ屋』で出てくるのです。
主人公の乙松が、亡くなった妻や、赤ん坊のうちに死なせた娘ユッコを思い出すときに出てくる曲です。
「そうやったんか……」
その少女は、わたしの……妹でした。
わたしは、三つ年上の姉との二人姉弟です……戸籍上は。
姉の上に、昭和二十四年生まれの兄がいました。月足らずで生まれ、この世に三十分しかいませんでした。当時の医療技術では、育たない未熟児で、取り上げた産婆さんは、父にこう言いました。
「死産やいうことにしとくさかいにね」
たとえ、三十分でも生きていれば出生届をださねばならず、同時に死亡届も出さねばなりません。
つまり、葬式を出さねばなりません。
当時臨時工であった父にそんな余裕はありません。だから産婆さんは気を利かして「死産」としたのですね。
初めての子、それも待ちわびていた男の子。父と母の落胆は大きかったにちがいありません。
親切な、アパートの人たちが、ささやかな葬儀をやってくれました。
ミカン箱の棺にオクルミにくるまれ、ほ乳瓶一本と、ささやかな花々を入れてもらい、子犬のような大きさの兄はリヤカーの霊柩車に載せられて神崎川の河川敷に葬られました。
父は目印に子供の頭ほどの石をおいて墓標としました。
しかし、そのささやかな墓は墓標ごと、その年のジェーン台風にさらわれてしまいました。
まだ、二十四歳でしかなかった父と母は落胆し、このことが貧しい夫婦の一生の負い目になりました。
明くる年に、姉が仮死状態で生まれました。
産婆さんの懸命の蘇生措置でやっと息をとりもどし。父と母は、初めての娘に「三枝子」という、パッとしませんが、精一杯の想いをこめて名前をつけました。「三枝の礼」からとった名前だそうです。
その三年後にわたしが生まれました。
姉弟の中でただ一人まともに生まれた子でした。名前を「睦夫」とつけました。愛称は「むっちゃん」で、こう呼ばれるのはたいてい女の子。子供のころは嫌でした。
大学にいって分かりました。「睦夫」の「睦」は、さるやんごとなき方の名前から一字をとっているようです。しかし画数が多く大橋の橋も画数が多く大橋睦夫と、ちょっと重たく感じます。そこで、ペンネームは「むつお」と平仮名にしています。
わたしは、嫌いなことはしない子でした。
一番嫌いなことは勉強で、高校二年で留年しました。三年の二学期にも担任から「卒業があぶない」と言われていました。
普段、あまり口もきかない父が、始めて言いました。
「睦夫、おまえには妹がおったんや」
衝撃でした。
わたしの三歳のときに母が身ごもったのですが。あいかわらず臨時工であった父と母に、三人の子を育てる経済力はありません。
やむなく、その子は堕ろされてしまった。
お医者さんに聞くと女の子でした。
わたしは、十九歳で高校生をやっていたので、妹の姿は十六歳の高校一年生のそれです。
「おまえが生きてんのは、早産で死んだ兄ちゃんと妹のおかげやねんぞ」
無念の思いを、父は、そう表現しました。
還暦までに半年を切ったわたしは、どこから見てもくたびれたオッサンですがが、妹は、いつまでたっても十六歳の少女のままです。
可憐であると感じるよりも、いつまでも、わたしが衝撃を受けた時の姿であることが、わたしには重荷でした。
わたしは、母のお腹を隔てて、三ヶ月の間、妹といっしょにいました。
——生まれたら、あれもしたい、これもしたい——
そういう想いがあっただろうと不甲斐ない兄は思います。
そして、自分が堕ろされると決まったとき、妹は、わたしに背負いきれないほどの想いを託していきました。
わたしは、男のくせに針仕事が好きで、劇団をもっていたころ、たいていの衣装は自分で作っていました。
オンチなわりには歌が好きでした。
物心ついて最初に読んだ本は『オズの魔法使い』と『不思議の国のアリス』でした。
ママゴトも好きな変な男の子でもありました。
高校に入って入部したクラブは、男子が一人もいない演劇部でありました。
また気配がするので、パソコンのモニター越しに覗いてみると、こたつにアゴを載せて妹が言います
「今度のはるかは、ポニーテールでいくわね」
妹の名前は、聞かずとも分かっていました。
栞といいます。
わたしの人生のページに「ここ忘れるべからず」と挟まれた栞であります。
「今度は、ひとのことじゃなくって、栞のことも書いてね」
そう、ナレナレシく言います。こいつには、いっぱい借りがあります。
「はいはい、書かせてもらいます」
「はいの返事は一回だけ!」
で、とりあえず、この短編を書いています。
そのあいだ、妹はミカンの皮を剥いています。
「兄ちゃんも、わたしもビタミン不足だからね」
「そう……かな」
「うん、そうだよ」
「栞は、ビタミンの何が不足してんねん?」
「……ビタミンIにきまってるじゃん」
「ビタミンI?」
中学の家庭科か理科でビタミンは種類が多くA~Kまであると聞きました。
ググってみると、ビタミンIとJは欠番で存在しません。
Iが愛のカケコトバであることに気づいたころには、栞はパソコンのモニターの中で、まどかを演じておりました。




