第1話『潮時』
ここまでのあらすじ
ハッサク、お店閉めるってよ。
――ワシ、この店閉めますねん。
ハッサクさんからの爆弾発言を受けて、俺はしばらく固まってしまった。
「おーい、ユージさーん?」
「…………はっ!?」
「お、生きとった」
この店を閉める……?
「今日はもう閉めるってことですか?」
「ちゃうちゃう。この店辞めるっちゅうことですわ」
「辞める? なんで!?」
ここは我が戦場北浜において、唯一無二の癒しスポットなのだ。
失う訳にはいかない!!
「んー、金がのうなってしもてね」
「お金が?」
たしかにここは数少ない常連と、ほとんどいない一見さんしかこないような小さな店だ。
とても儲かっているようには見えない。
「あ、そうだ! 絵は? あの壁に描いてあるおっきなやつ、あれ確か何億とかって」
「あー、あれ。うーん、なんぼ価値があっても、買い手がおらな金にはなりまへんからなぁ」
「いや買い手いないのかよ!!」
あれだけ毎日一生懸命コツコツ描いてるから、てっきりどこぞの好事家の依頼で描いてるもんだと思ってたよ。
絵のほうでそこそこ食ってけるから道楽でカフェバーやってるもんだと……。
「もうちょっと時間があったら、大金が手に入るアテもあったんでっけど、それより先に金が尽きてまいまいしたわ」
「大金……? それは一体……」
「あー、それについては勘弁しとくんなはれ。ワシがしとることがバレたら、えらい目にあいますよって」
む……もしかして違法行為か何かか?
そういうのは良くないと思うけど、あんま深入りするのもなぁ……。
「じゃあここ閉めたあと、ハッサクさんはどうするんです?」
「ホームレスかなぁ」
「ホームレスっ!?」
「はは、そない驚かんでもよろしでっせ。ワシいままでも何回か経験ありますよって」
「そ、そうなんですか……」
ホームレスになるって一大事のはずなんだけど、ハッサクさんはなんでもないことのようにケロッとしている。
たくましい……のか?
「えっと、いつ閉店するんです?」
「今日ですわ」
「今日!?」
「へぃ。もう家賃3カ月分滞納しとりまして、今日催促に来たとき払われへんかったら出て行け言われとりま」
「そんな……。だったらなんで呑気に絵なんて描いてるんですか!?」
「んー、いまさらあがいてもどないもなれへんし、それやったらギリギリまで描かしてもらおかな思て」
「そうですか……」
俺が仕事を辞めた日に、お気に入りの店がなくなる。
奇妙な偶然だけど、これってもしかして運命ってやつかな。
「ねぇ、ハッサクさん」
俺は視界の端に捉えたものに歩み寄り、少しかがんで拾い上げた。
「せっかくですからコレ、やりませんか?」
俺が拾い上げたのは木枠付きの木箱、オンバコさまだ。
「ワシ、そういうんあんまり得意やないねんけど……」
そういえば、ハッサクさんがオンバコさまを使っているところは見たことがないな。
この人はいつもバーカウンターの向こうにぬぼーっと立ち、注文があればセコセコ動く。
そんな感じだ。
「ま、俺しかいないですし、いいじゃないですか」
「んー、ほなせっかくやし」
ハッサクさんは照れたようにポリポリと頭をかいたあと、俺の差し出したオンバコさまを手に取った。
そして、壁画を背に立ち、顔を小箱に突っ込む。
『……ずっとこの店、続けたかったなぁ!!』
ハッサクさんの叫びがAMラジオ風に響く。
「へへ……言うたった……。ほな、次ユージさん」
俺はハッサクさんからオンバコさまを受け取り、例のごとく壁画を背にして立った。
ふと、これまでのことが思い出された。
受験勉強をサボり、関西の三流私大にしか受からなかった俺は、ダラダラと大学生活を過ごしたあと、やっぱり就活をサボり、ロクでもない会社に入った。
情報ビジネスとかなんとか聞こえのいいことを言っているが、手八丁口八丁で投資を煽るのが俺の仕事だ。
毎日億単位の金を動かすのはとんでもないストレスだったが、それでも10年この仕事を続けられたのは、なんだかんだでこの町が好きだったからだろう。
俺は大阪弁をしゃべらないから大阪を嫌っていると思われがちだが、そんなことはない。
学生時代はちゃんと大阪弁を喋っていたからな。
でも、この仕事の始めるにあたって言葉を戻したのだ。
それは俺の武器になると思ったから。
実際、いかにも関東人ですよという雰囲気を出しながら、大阪文化に対する造詣の深さをちらりと見せると、非常に食いつきが良いのだ。
そうやって自分を偽り、他人を欺きながらそれでも仕事を続けられたのは、何度も言うようだが、大阪が好きだからだろう。
ザ・なにわ、とでも言うべき『ミナミ』はもちろん、どこか都会的な雰囲気を持ちながらも結局なにわ文化に引きずられる『キタ』も好きだ。
なにより、『キタ』と『ミナミ』に挟まれながらも、そのどちらの空気もまとわない、独特の雰囲気を持つここ北浜の町を、俺はとても気に入っている。
そんな異質な空気を持つ北浜にあって、なお異彩を放つこのハッサ・クントコという店は、一番のお気に入りだ。
数年前、ふらりと立ち寄ったこの店があったからこそ、俺は今までやってこれたんだと思う。
そんな大切な場所が、今日なくなる。
『あー、あー……』
俺はオンバコさまに顔をつっこみ、声の響きを確認した。
北浜に来て10年。
自分にはおそらく向いてないであろう仕事に邁進してきた。
この先も、愚痴をこぼしながらも働き続ける、そんな日々が続くと思っていた。
でも今日、あのピンクトップとアロハデニムを見た瞬間、何かがプツリと切れた。
だから俺は仕事を辞めた。
そのうえ、いまや唯一の寄る辺であるハッサ・クントコがなくなるという。
……潮時かな。
『ハッサクさーん!!』
「は、はい!?」
AMラジオ調に響く声で突然名前を呼ばれたハッサクさんが、驚いて背筋を伸ばし、素っ頓狂な声で返事をする。
『いくら必要ですかー!?』
知ってるか?
潮時ってのは本来、なにかをするのに一番いいタイミングのことを指すんだぜ?