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藍色の疾風  作者: 黒詠
ガラスの子馬
10/10

適材適所

 フォルクマールが晴れやか、とまではいかなくともどことなく覚悟を決めた顔で戻ってきた頃には、レーヴィも馬に乗れるくらいには回復していた。もちろん、まだ全力疾走させられる程ではないが、出発して駆け足程度で行く分には特に問題はない。

「じゃ、行ってくる。留守を頼むな、マルク」

「はい。でも早く帰ってきてくださいね。フォルクマールさんも、ご無事で」

「おぅ。サンキュ」

 ひらりと手を振り、フォルクマールは馬を出した。それにつられるように馬を進め、ふと大事なことを思い出してレーヴィは馬を止め振り返った。驚いたような顔をしているマルクに向かって、にやりと挑発的に笑う。

「もし俺の居ない間にこの街になにかあっても、俺の居ない間はお前が団長代理だ。しっかりやれよ」

「……分かってますよ。この街は俺が守ります。団長は前だけ見ててください」

 ため息とともに吐き出された言葉だったが、マルクが本気で言っていることはよく分かる。そもそもマルクは嘘を吐かない性質だ。―――嘘が吐けないフォルクマールと、もう少し時間があればもっと仲良くなったかも知れなかった。そんなことがちらりと頭を掠めたが、フォルクマールは立ち止まらずに進んでいるだろうから下手に距離を空けるとレーヴィ自身が辛い。それ故にレーヴィはそれ以上何も言わず踵を返し、実際かなり遠くなっていたフォルクマールの背を追いかけたのだった。


「思ったより早く着きそうだな。何事も無かったらだけど」

 国境の山の麓辺りを馬でゆっくりと進んでいたフォルクマールは、後ろについてきていたレーヴィにそう声をかけつつ振り返った。何事も無いなんて続いている外交官事故を考えればありえないだろうが、とこれは内心で呟くに留める。……フォルクマールとしては、逆にグラドコフ帝国に入れさえすればどうとでもなるだろうと思っている。あのいかにも不自然な事故はすべてアラルースア王国領内で起こったことだ。言い換えればそれは、あの事故を引き起こしているのがこの国の人間だということでもある。……レーヴィには言い辛いが、下手に隠して痛くもない腹を探られるより吐き出してしまった方がこちらとしても楽だ。

 フォルクマールが色々と打算的なことを考えているとは露知らず、レーヴィは楽しそうにきょろきょろと辺りを見回しながらそうだな、と生返事をよこしてくる。

「そろそろ日が暮れるし、ここらで野宿しよう。この辺りには食えるもんも多そうだし」

「あ? まだ日が高いじゃねぇか、もう少し行っといた方が良いんじゃねぇのか?」

「この先は割と気温が低くなりがちな場所だから、野宿には向かないんだと。そんな訳だから今日はここで早めに休んで、明日一気にその地帯を抜ける。そこを抜けさえすれば『外交官事故』に遭わなくて済むし」

「……あの『外交官事故』に遭わなくて済む? どういうことだ」

 レーヴィは自分は頭が良くないと思っているようだが、その勘の鋭さと頭の回転の速さは十分に頭がいい部類に入るはずだ。レーヴィが言いたいのはきちんとした教育を受けていないということだろうが、それだってこの戦争の時代にまともな教育を受けているものの方が稀だ。大体、頭が良くなければ、取り立てて対策もされないまま続いてきた『外交官事故』に疑問を持ったりはしない。

 フォルクマールは馬から降りて、馬の首筋を撫でてやりながら答える。

「あれってさ。……オレの勘だけど、リーベルさんとイェレミアスが引き起こしてるものじゃないかと思うんだ。この国のためを思って」

「……即座に反論できねぇのが辛ぇが……なんで国のために外交官を殺す? むしろ早いとこ和平を結んだ方が国のためになるんじゃねぇのか?」

 レーヴィも馬から降りながら問いかけてきて、フォルクマールは苦笑しつつ振り返った。

「オレもそう思うんだけどな。……リーベルさんが守りたいものは多分、“この国の人間”じゃないんだ。だから平気で兵士を戦場へ向かわせ、外交官を事故に見せかけて殺してきた。あの人が守ろうとしてるのは誇りとか矜持とか、“この国”なんだと思う」

「……誇りとか矜持と、“アラルースア王国”と何の関係があるんだ?」

「だからさ、オレとかお前は“人あっての”国だって分かってるだろ? 王様が居たって国民がいなきゃ意味はない。……だけど多分、リーベルさんは“アラルースア王国”って入れ物が大事だと思ってるんだよ。自分を認めてくれた国、自分が兵を率いてきた国、愛する祖国がこちらから仕掛けた戦争で負ける訳にはいかない、和平を申し入れるなど敗北を認めるのと同じだ、って」

 思い当たる節があったのだろう、複雑な顔をしてレーヴィは押し黙った。

 フォルクマールには愛国心なんてもの欠片も備わっていなかったが、国のためにと命を懸ける人たちが居ることも一応理解はしているつもりだ。リーベルの行動も、決して正しいとは言えなくとも軍人らしい選択だとは思う。

 けれど、それは自らの身に火の粉がかからなければの話だ。

「レーヴィ、先に言っておく。オレはまだ死ぬわけにはいかない。だから……リーベルさんがオレを殺しに来たら、多分手加減は出来ないし、しないと思う」

「……仕方ねぇ。それが戦争だ」

 苦虫を噛み潰したような顔をして答えたレーヴィは、多分戦うことは好きでも戦争は嫌いなのだろう。リーベルが言っていた喧嘩別れというのもそこに原因があるような気がした。

「ま、とりあえず今日はここで休むんだ。この辺りで食えるもん探すのと一緒に少し見てこいよ、街から出たことあんまりなかったんだろ?」

「おぅ。……って、なんでてめぇ知ってんだ?」

 本気で分かっていない顔でレーヴィが聞き返してくるので、フォルクマールは思わず噴き出した。

「なんでも何も、お前さっきからきょろきょろ周り珍しそうに見てたからさ。オレが馬とか荷物とか見とくついでに火起しとくから、襲撃だけ注意しろよ」

「……外交官事故、か?」

 また苦い顔で聞き返してくるレーヴィに努めて明るく笑って答える。

「かもしれないしそうじゃないかもしれない。この辺りは国境付近だからグラドコフってのもあり得るしな……ま、何かあったら呼んでくれれば行くよ」

「……てめぇにゃ俺は敵わねぇしな。分かったよ、手に負えねぇと思ったらてめぇを呼ぶ、それでいいんだろ?」

 いつまでも悪い方へばかり考えていたら動けなくなる。考えても無駄なことでは悩まないレーヴィは、やはり頭がいい。フォルクマールは少々考えすぎる気があるから尚更、そう見えるのかも知れなかったが。

「おぅ。今日の晩飯になるもんだからな、しっかり探して来いよ」

 そう答えながら、フォルクマールはレーヴィに背を向けて馬を手近な木に繋ぎ始めた。


 フォルクマール達の予想よりもずっと早いペースに、イェレミアスは焦りを覚えていた。隊を離れてたった一人でフォルクマール達を尾行しているイェレミアスは、自分一人ではフォルクマールはおろかレーヴィすら殺せないことがよく分かっていたせいもある。―――心情的にも、能力的にも。

 見知らぬ少年に託した伝言が無事にリーベルに届いていればいい。そうすればリーベルが早晩駆けつけてくれるはず。

「……それでも、俺が彼やあいつをこの手にかけることが出来るかは分からない……」

 イェレミアスの親友であり、尊敬する師リーベルの弟であり、エレオノーラの所属する自警団の団長であるレーヴィ。またリーベルが認めた、人のいい青年フォルクマール。

 弱い自分に、彼らを斬ることが出来るかと問われればそれは多分、否だ。

 ―――けれど。

「それが、戦争……」

 彼らを手にかけ、恐らく彼ならうまくやってのけてしまう交渉を阻止するのがイェレミアスに与えられた任務だ。兵士である以上、任務には従わなければならない。

 リーベルが始めたこの“事故”で、イェレミアスとリーベルが手にかけた人数は恐らく100を超える。そのうち文官は27人。……グラドコフの外交官も、その中には含まれている。

 ここまできてしまったからにはもう引き返せないのだ。故にイェレミアスはきつく唇を噛みしめ、火を起こしているフォルクマールの監視に戻ったのだった。


 ひゅん、と風を切るような微かな音が聴覚に引っかかり、フォルクマールは反射的に首を右へ傾けた。一瞬後には左頬を掠っていった矢が深々と地面に突き刺さっていて、避けなかったら頭蓋骨も貫通しただろうなと思いつつ目を細める。

「ち、仕留めたと思ったのに」

 まだ若い青年―――むしろまだ少年かもしれない―――の声が後ろから聞こえてとっさに振り向く、その直前に左手に殺気を感じて短剣を抜いていた。

 宙を舞う鮮血と、数条の髪。アラルースアでも山向こうでも見かけなかった、青色の髪―――

「……グラドコフ、だな」

 その独特の髪色を持つのはグラドコフ帝国の中でも極めて少数だけだ。フォルクマールにとって死角となる左側から飛び出してきた男は、フォルクマールの短剣で切られたこめかみの傷を拭おうともせず、唇を引き結んでいる。

 代わりに答えたのは、背後の木の上から矢を放った少年の声だった。

「ご名答~。景品は俺の矢だ、ありがたく受け取んな」

 言葉と同時にまた矢が飛んでくる。それを短剣で切って落とし、フォルクマールは苦笑して見せた。

「……それは謹んで辞退させて頂きたいもんだな。大体、ここはアラルースア領だろう?」

「は、悪魔の国の国境警備が間抜けなんだよ。それとも配置してないの?」

「さぁ。オレは知らないな、よそ者だから」

 フォルクマールの台詞に、白々しい、と吐き捨てたのはそれまでずっと黙っていた男の方だった。

「よそ者がこんな所を通るものか。貴様だろう? 悪魔の国の準騎士というのは」

 ……そのとき表情を変えなかった自信はない。何故ならフォルクマールが嘘を吐けないのは口だけではないからだ。むしろその表情から、隠したいはずの感情まで読み取らせてしまうこともままある。

「……グラドコフの間諜は優秀みたいだな」

 だから、フォルクマールはしらばっくれるのを諦めてそう言った。背後から緊張したレーヴィが草をかき分け戻ってくる音がして、小さくグラドコフか、と尋ねてくる。

「まぁ、名乗る必要性は感じないけどね」

 レーヴィの問いに答えたのは少年で、青い髪の男は二人に増えた敵をどうしようかと思案しているようだった。と、レーヴィがフォルクマールにだけ聞こえるように口元を隠しつつ囁く―――青い髪はグラドコフの将軍だ、気をつけろ。

「……何を勘違いしてるかは知らないけど、オレは……オレとこいつは、グラドコフと戦争を終わらせるために派遣されたんだ。グラドコフに害をなすつもりはないよ」

「は、そんなの信じると思うの。準騎士とかいうお兄さん? 生憎、悪魔どもを信じられる程おめでたい頭、俺らは持ってないんだよっ」

 少年の言葉と共に再び矢が飛来する。飛んできた矢をさっきと同じように切ろうとして―――フォルクマールは舌打ちし、それまで抜いていなかった長剣を抜いて矢と男の剣の両方を受け止めた。

「へぇえ、やるじゃんお兄さん。けどこれならどう、かなっ」

「レーヴィ、お前は退け!」

「退くってどこにだよ! 俺は……っ!」

 木の上から短剣を抜いて飛び降りてきて軽やかに斬りつけてくる少年と、フォルクマールと剣を噛み合わせつつレーヴィに向かって短剣を放った男の連携にフォルクマールすら苦戦しているのだ。間一髪、レーヴィが男の短剣を避けたのは見えたが、それ以上フォルクマールにレーヴィを気にする余裕は正直なかった。元々、フォルクマールの戦い方は一対多に特化しているものだということもある。

 レーヴィにもそれが分かったのだろう、小さく悪態を吐き草むらへと分け入っていった。

「……賢明な判断だが、貴様一人で我らを相手取るつもりか」

 馬鹿にされたように感じたのか、男が低く問うてくる。その殺気に気圧されそうになり……しかし、フォルクマールは苦笑を浮かべて見せた。

「正直、厳しいと思ってるよ。でも……」

 そこで表情を切り替える。レーヴィだけではない。フォルクマールとて、ここで死ぬわけにはいかないのだから。

「オレにはやらなきゃいけないことも、守りたいものもある。それはそっちもそうなんだろ?」

「……ふ。気に入った」

 不意に男の剣の重みが消失し、次いで剣を鞘に納める音がした。少年の方は相変わらず今にも飛び掛からんばかりにフォルクマールに敵意に満ちた視線を突き刺していたが、男が短く殿下、と呼びかけると渋々剣を納める。

「貴様は今までの奴らとは違うようだ。やはり我らが間諜は優秀だな」

「何を言ってるんだゲルマン! こいつだって悪魔の国の……!」

「殿下。命令をお忘れですか」

 声を荒げるでもなく、まるで臣下が王を諌めるような口調で男は短く言った。ぐっと言葉に詰まった少年が、状況をいまいち理解できず突っ立っていたフォルクマールを見て舌打ちする。

「……俺は認めないね。こんな奴、斬って捨てればいいんだ」

「―――フォルクマール=ヴィル=エックハルト卿。我はゲルマン=ペトロノヴィチ。神聖グラドコフ帝国軍の長にして皇帝陛下より命を受けた者だ。同行を願いたい」

 ゲルマンの顔をしばし見た後……フォルクマールも剣を鞘に納め頷いた。

 微かに髪を揺らした風に、レーヴィの悪態が聞こえてフォルクマールは苦笑する。

「……彼を呼び寄せてもよろしいですか、ゲルマン卿?」

「構わん。……但し武器は預からせてもらうが」

「構いません」

 大人しく短剣と長剣を差し出し踵を返したフォルクマールの後ろで、少年がゲルマンに食って掛かっていた。


「何故殺さない!? あいつは悪魔の一人だろう!」

「彼は山向こうの人間です。悪魔ではありません」

「は、笑わせる。藍色の瞳なんて存在するはずがない、人と違うものは悪魔なんじゃなかったのか!?」

「それは我々が決めてよいことではありません、殿下。アレクサンドル皇帝陛下が我らに下されたのは彼を連れてこいとの命……忘れたわけではありますまい?」

 皇帝の……兄の名前を出され、少年―――イヴァンはぐっと唇を噛み押し黙った。

 5年前に18歳という若さで即位した兄。彼の役に少しでも立ちたいとイヴァンは懸命に弓を覚え、剣の扱いを習った。優しい兄は皇帝としてはやや頼りなく見えるのか、それとも王宮の内外で囁かれる兄と父の血が繋がっていないのではないかという噂を真に受ける馬鹿が居るせいか、戦場に出て次々と悪魔たちをなぎ倒していくイヴァンを皇帝に据えようという動きもあるから決して内でも油断はできない。兄の傍に居る少年をイヴァンは信頼しているが、イヴァンよりも強いあの少年だって万能ではないのだ。

 イヴァンは舌打ちをし、ゲルマンに背を向ける。

「……なら兄上に言う。俺はあいつを信用しない」

 ゲルマンが僅かにため息を吐いたのが聞こえ、彼はまた舌打ちをした。


 レーヴィと合流した後色々ありつつ、無事にゲルマンのところへ戻れたことにひとまずほっとしてフォルクマールはため息を吐いた。

「お疲れのようだな、フォルクマール卿」

 馬に乗り国境を越えている最中に不意にそう声をかけられ、フォルクマールは苦笑しつつ首を振る。

「いえ、私はそれほどでも……それよりも、早く国境を越えてしまった方が良いかと」

「……気付いていたのか」

 若干驚いたようにそういうゲルマンこそ、気付いていたのだろう。フォルクマール達をつけてきている者が居ると。

「……一人のようだな。ここで叩くか?」

「いえ。流石に国を越えてまで追っては来ないでしょう。こちらと違って、グラドコフは国境の守りも厳重なのでしょうし」

「は、分かってんじゃんアンタ。でもそんな甘いこと言ってちゃ生き残れないと思うけどね」

「殿下」

 鋭くゲルマンが言う。少年が苛立ったように舌打ちしたのに声をかけようとして―――そこで初めて、フォルクマールは少年の名を聞いていないことに気付いた。

「……失礼、貴方の名を伺っても良いですか?」

 少年がちらりとゲルマンを見る。ゲルマンがそれに頷くと、少年は一つ舌打ちをした後呟くように言った。

「……イヴァン=アズレトヴィチ=グラドコフ。皇帝陛下の弟さ」

「こっ、皇帝の弟ぉ!? そんな奴が何で」

 レーヴィの思わずといった悲鳴のような声をイヴァンは一睨みで黙らせ、舌打ちをして答えた。

「陛下の命だ。俺にできるのは、兄上の代わりに戦場に出ることくらいだから」

「……兄貴のために、か」

 何かを考え込むように……否、今その台詞と共に考えるのなら答えは一つだろう。レーヴィはリーベルのことを考えているのだとフォルクマールは思う。

「……今夜は国境警備のところで休みましょう、殿下。野宿よりはマシなはずです」

「お前に任せる」

 イヴァンの言葉にゲルマンは一礼すると、フォルクマールとレーヴィに視線を移した。

「貴卿らには申し訳ないが、そこで服を変えてもらわねばならん。……今の貴卿らでは目立ちすぎて的になりやすいのでな」

「分かりました」

 もう国境だ。ここから先は手を出せないだろうと一瞬気を抜きかけたフォルクマールは、何かが飛来する音を聞きとめて咄嗟に馬から飛び降りた。横で驚いたようなレーヴィが声を上げようとし―――

 断末魔の鳴き声を上げて倒れたフォルクマールの馬を見て口をつぐんだ。

「……ゲルマン卿。イヴァン殿下とレーヴィと共に先へ」

「おいっ、フォルクマールてめぇっ」

「―――勝算がおありか、フォルクマール卿?」

 ゲルマンの静かな問いに、フォルクマールは薄く笑って6割程度です、と答えた。それまで黙って聞いていたイヴァンは不機嫌そうな顔を隠そうともせず、悪態を吐く。

「死にたいんだろ、アンタ。死にたい奴は勝手に死ねばいいさ。戦争の時代だ、死に場所は無限にある」

「別に死にたいわけでも、死ぬつもりがあるわけでもありません。ただ相手が多少厄介な人ですし……私は一対多の戦い方に慣れていますから」

 周りの気配全てが敵ならば、元の世界でも散々伸してきたしこの世界でも相手取れた。しかし、敵味方入り乱れての戦闘は慣れていない上、狭い視界で乗り切るのは難しい。イヴァンやゲルマンは言うまでもないが、レーヴィの気配すらまだきちんと覚えていないのだ。下手に一緒に戦って、誤って斬ってしまったら元も子もない。……尤もフォルクマールが一人で戦うと言ったのは、それだけが理由ではないが。

「……兄貴、なんだろ」

 馬の上でぼそりと呟いたレーヴィに、自らの兄を敵と見なし斬りかかれるほどの覚悟はまだないように見える。リーベルの腹心であるイェレミアスはレーヴィの親友だったと聞いていたから余計に、フォルクマールは無理だろうと思った。

「オレは戦える。もう殺す覚悟もできた。でもお前は多分、無理だろ? レーヴィ」

「……ちっ」

 舌打ちと共にイヴァンが馬の上で弓に矢をつがえる。その矢が向けられた先に―――……

「こんにちは、フォルクマール卿」

 感情の読めない笑みを浮かべた、リーベル=イスフェルドが立っていた。


 5年振りの兄の姿に、レーヴィの目は限界まで見開かれた。

「親父……?」

 若くして病で倒れたレーヴィとリーベルの父親に、その姿は瓜二つだったからだ。兄は父のことが嫌いで、ガラナの街には珍しい鉄の職人だった父が止めるのも聞かずに軍に入ったくらいだったのに何故……

「久しいな、レーヴィ。そんな悪趣味な刺青を入れているとは思わなかったが……元気そうで何よりだ」

 嘘だ、と思う。リーベルは決して人を外見で判断する人ではなかったし、人を否定するような言葉を使わなかった。フォルクマールはああ言っていたが、自らの立場を守るためだけに人の命を奪うような人では、決してなかったはずだ。

「……時が経てば、人間は変わるよ、レーヴィ」

 絶句したレーヴィに低い声でそう言って、フォルクマールも剣を抜く。既に臨戦態勢に入っているその背に、レーヴィはやめろと声をかけることも忘れて呻いた。

「……何があったってんだよ、この5年の間に!」

「戦争だ」

 事も無げに言葉を返してきたのは、他でもない兄その人だった。

「お前がフォルクマール卿について行ったと聞いて手こずるだろうと警戒していたが……杞憂だったようだな。イスフェルドの弟だというのに、鈍ったもの」

 キィン、と耳に痛い金属音が兄の言葉を遮った。レーヴィを現実に引き戻してくれたその音は、躍りかかったフォルクマールの2本の剣とリーベルの長剣が激しくかみ合う音。

「レーヴィが鈍ったのではありません。貴方が、人の道を外れたのです」

 フォルクマールの静かな、しかし確かな怒気を孕んだ声に、兄よりもその後ろ、木の上からフォルクマールを狙っていたイェレミアスが動揺を見せた。フォルクマールに向けられていた短剣の切っ先が揺れたその一瞬を見逃さず、イヴァンの矢が唸りを上げる。

「くっ……」

 下から上へとはいえ至近距離、加えてフォルクマールすらも(ゲルマンの剣との連携も含めてではあるが)苦戦したほどのイヴァンの弓の腕だ。イェレミアスが咄嗟に突き出した剣に掠りもせず、イヴァンの放った矢はイェレミアスの左肩に深々と突き刺さった。それでも木の上から落ちたりバランスを崩したりしない辺り、イェレミアスの兵士としての能力が決して低くないことを物語っている。

 ―――それなのに。

「……何をしている、イェレミアス。戦える、と言ったあれは嘘か。役立たずが」

 兄は労うどころか、苛立たしげにそう吐き捨ててフォルクマールの剣を払う。そこに昔の、まだ街に居た頃の面影はない。

「まぁいい、ここは退く。―――グラドコフの皇子殿下もいらっしゃることですし」

 それでも諦めるつもりはないのだろう。兄はフォルクマールに向け酷薄な笑みを見せると、こちらには見向きもせず静かに踵を返す。

 声をかける暇さえ、レーヴィには見つけられなかった。


 頭が悪く粗野な、フォルクマールの足を引っ張る男。イヴァンのレーヴィに対する印象はそんなものだったが、夕刻のあのとき剣を抜くことすらできなかった姿に少し考えを改めた。信頼していた兄が敵として、自分に剣を向けてくる―――そんなの、動揺しない方がどうかしている。

「……おい、刺青」

 だから少しだけ、話をしたくなった。

 フォルクマールと暗い顔でぽつぽつ会話していたレーヴィに声をかける。こちらに背を向けていたフォルクマールはすぐに振り向いたが、レーヴィが顔を上げたのは一拍おいてからだった。

「……皇子様か」

 てめぇと話す余裕なんかねぇよ、という顔を隠そうともしないレーヴィに少しだけ鼻白む。と、双方を諌めるようにフォルクマールが静かに立ち上がった。

「……私は席を外しましょう。ですがイヴァン殿下、あまり夜遅くなりませんよう。レーヴィも疲れておりますので。……御用が済みましたらお呼びください」

 頷き、一礼したフォルクマールが立ち去るのを見送る。……間諜の調べてきた話では、山向こうで“領主”という一番高い地位に居たはずだが、何故目上の者に対する礼儀がなっているのかふと気になった。

「……用は?」

 レーヴィの声にはっと我に返り、イヴァンは恥じるように一度目を伏せてから、まっすぐにレーヴィの目を見つめて口を開いた。

「アンタの、兄上の話を聞きたい」

「……どうしてだ? さっき見ただろ、あれがアラルースアの司令官で俺の―――」

「違う。俺が聞きたいのはアンタの言ってた、以前のアンタの兄上の話だ。彼はアンタの兄であったかもしれないけれど、アンタは彼を兄とは呼びたく―――いや、呼べないのだろう?」

 レーヴィの前に座りながらそう言ったイヴァンの言葉に虚を吐かれたように2、3度瞬きをした後、寂しそうな笑みを浮かべてレーヴィはあぁ、と頷いた。

「……そうだな。あれは俺の知ってる兄貴とは違ってた。兄貴は落ち着いてて頭が良くてカッコよくて、いっつも女から花だのガラスだの贈られてて、そのくせ剣は俺より弱くて、でも手合せするたびに自分は負けたってのに俺の勝ちを喜んでくれて……」

 レーヴィの語る男の面影は、さっきの悪魔の国の司令官には残っていないように思えた。優しくて、周りからの人気も評価も高かった彼を変えてしまったのは―――……

「……戦争、か」

 さっき、彼自身が言っていたことだ。戦争はすべてを狂わせる。思想を曲げ、信念を歪め、無数の命を刈り取る。人の強い意志でさえも、それに立ち向かえるものはごく僅かだ。

「……てめぇの兄貴はどうなんだ?」

 イヴァンの物思いを断ち切ったのは、レーヴィの静かな問いかけだった。相手は悪魔の国の者だ、と一瞬頭を掠めたが、レーヴィはイヴァンの問いに答えてくれた。返さないのは不公平だ。

「……兄上は少し、体が弱いんだ。剣の腕は一流なのに、体力がもたないせいで戦場に出られない。けれど兄上は誰よりも民を大事にしているし、税制改革や皇帝崇拝の廃止の施行で民からの信頼も厚い。兵士を戦場に送ることにも誰より心を痛めている。それに……兄上を脅かすのは戦争だけじゃない。兄上のやり方が気に食わない奴らが、兄上を暗殺し傀儡としてオレを皇帝に据えようと目論んでいる。兄上が父上の子ではないのではないかという根も葉もない噂に踊らされて。……俺に出来るのは、兄上の命に従い兄上を手伝うことだけだ」

 無力な自分が、そしてこんな無駄な戦争を始めた今は亡き父がイヴァンは嫌いだった。父は自分には優しかったが、血が繋がっていないのではと当時から噂されていた兄のことは無視していたし、皇帝の座だって何度もお前のものだといわれた。父の後を追うように亡くなった母も、貴方こそ皇帝にふさわしいのよ、と呪文のように、呪詛のようにイヴァンに繰り返した。本当に能力のある兄は蔑ろにされ、そこまでの器を持たないことは誰の目にも明らかなのにイヴァンが優遇される。イヴァンの意志も、兄の存在も、すべて父と母によって殺されていたのだ。

 確かに、兄は母にも父にも似ていないし、髪の色も青みがかった金と珍しい色だ。だが、そもそも血の繋がりをあまりよく思わないイヴァンには、血の繋がりに囚われ皇帝陛下の命を狙うなど正気の沙汰とは思えない。

「……自分が皇帝に、とは思わないんだな」

 レーヴィの言葉に、イヴァンは当たり前だと頷いた。イヴァンにとって玉座は重荷以外の何物でもないと自分が一番よく分かっていたし、自分よりも兄の方が皇帝に相応しいこともよく分かっていたから。

「俺は兄上にも皇帝にもなれないけれど、戦場に出る体力がある。兄上は戦場には出られないけれど、皇帝に相応しい器を持っている。適材適所、は人が暮らす上での基本だ。……利権を独占していた無能な大臣たちは、そのやり方が気に入らないらしいけれど」

 言いながら、イヴァンは不意にこみ上げてきた笑いを抑えきれずにくっ、と笑った。

「……なんだ?」

 怪訝な顔で尋ねてくるレーヴィに、くつくつと笑いながら礼を言う。

「いや……アンタのお蔭で、悪魔の国の全員が悪魔じゃないって分かったよ。アンタが信頼してるあのフォルクマールって奴も面白そうだし、対話も不可能じゃないかもね」

 一瞬きょとんとしたレーヴィは、一拍おいてイヴァンの言葉の意味を悟ったらしい。光栄です殿下、とおどけた様に言って、またイヴァンを笑わせたのだった。


グラドコフ突入を無事に果たしました。どんどん長くなってずれこんでますがフォルクマールさんのせいということで。

お読みいただきありがとうございます。

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