第110話 翡翠の決意。
「私はロードヴェイクと情報共有してくる。ネズミが餌に喰い付くよう今までも定期的に餌の噂を流布してある。ついでに城内の害虫駆除は徹底的にやったつもりだったが、矮小な虫のクセに知恵が回ってね。私としたことが潰し損ねていたらしい。あれほど綺麗に清掃した城内に悍ましい害虫がまだウヨウヨいるのは不快だろう? 虫の好む餌の選定もロードヴェイクとしてこなければな」
と、言いたいことだけ言い終えたアレスは背を向け立ち去りかけて「ああ、そうそう」と声をあげ背後で直立不動になって拝聴していた翡翠へと振り返る。
「害虫の親玉の方の作戦はさっきの素案をもう少し練っておこう、親玉はその餌を知ったら欲しがらずにはいられないから、触覚を出すのも早いだろうから怪しみながらも食らいつくだろうが。親玉に餌は疑似餌だとバレないよう徹底的にね。誰のものに手を出そうとしているのか分からせないと」
アレスは薄っすらとした冷笑を浮かべていた唇の端を意地が悪そうに釣り上げた。
その笑みは人間を破滅へと誘う悪魔の微笑み。
シュヴァリエの叔父なだけあってその美しい相貌から放たれる邪悪な色気。
絶対に触れてはならぬとわかっているのに、破滅へと道を踏み外してしまいそうな――――
その笑みを向けられた当人は、その矛先が自分ではないのは頭でしっかり理解していたが、それにしても破壊力抜群である。
アレスが芳しい残り香だけをその場において颯爽と去ったあとも、その場から指先ひとつ動かず固まったままであった。
翡翠は、宰相閣下が残していった「素案」と、自らが作成し提出した報告書を交互に睨んだ。
報告書の隅には、宰相閣下の筆跡で簡潔に「受諾」と書かれている。
決定事項として無慈悲な判決を下されたかのような流麗な文字を見つめ、翡翠は鉛でも呑み込んだような表情をする。
(なんだよもう~、よりによって、影である俺が表になって中心で動くのか……)
脳内でシミュレーションするたび、計画の無謀さが浮き彫りになる。
アレスが翡翠と平民出の娘を公爵令嬢並みに仕立て上げるなど、並大抵のことではない。確かに、これまで彼女には貴族としての立ち居振る舞いや社交界の知識を徹底的に叩き込んできた。しかし、それはあくまで「それらしく見せる」ための訓練だ。
「男爵家ならギリ。子爵家は厳しい」――それが、彼女の現在の「仕上がり」だった。
そもそも開始の頃は「我らが姫様に害なした女」ということで、結構な扱いを受けていた。
普通の精神の持ち主なら人間不信に陥り、人に対して恐怖で萎縮しててもおかしくない。
だが、あの女は違った。
そもそも脳内構造がヤバイ奴なのか、どの角度から詰めてもお花畑な返答ばかりで話がまともに通じることがなかった。
まともに取り合うだけ時間の無駄だと一度精神をバッキバキに折り、脳内の花畑を焼き尽くしたが、それでも少し時間をおけば定期的に花畑が出来上がってくるというタフさ。自己肯定感高すぎだろ。
そこまでくるとお花畑というよりも、雑草畑に違いない強靭な妄想の草が生えまくる生命力である。
「こいつじゃなくて違うの鍛えたほうがまだマシだったんじゃないの……」
改めて報告書に目を通した感想は散々である。
自分もたまに様子を見には行っていたが、さほど使えそうだと感じたこともない。
裏の世界に勧誘したくなるほどの能力もない。
しいていえば平民しては美しい容姿をもっているか? といったところ。
妄想の雑草畑の方は生え広がる度にきっちり折って燃やしているらしいけど、未だに自分は誰からも愛さずにはいられない存在だって盲信してるタイプだから、定期的に陛下はまだいらっしゃらないのかとか訊いてくるらしいんだよな。
(訓練の為に着せられているドレスも、陛下からのプレゼントだと勝手に思ってるっぽいし……)
「マジでどこからその自信湧いてくるの……」
この作戦は、囮となる娘の演技力と度胸、そして運に全てがかかっている。
少しでも綻んでしまえばすべてが水泡に帰すどころか、向こう側がさらに奥深くに潜ってしまうことになる。
警戒心を与えてしまえば次に引きずり出すには相当手間が掛かるだろう。
今以上の無茶をしなければならなくなるだろうし、何より陛下が姫様のことを心配している。
失敗して向こうが破れかぶれになって万が一でも姫様に何かがあれば、関わった者全員の首が簡単に飛ぶ。
「姫様に何かあるより首が飛ぶ方がマシなんだけど、でもどうせならこんなしょっぱい作戦で死ぬよりも、姫様を命がけで護って殉死したいわ……」
そんな身に余る役回りなど回ってこないだろうが。
翡翠の口から深い溜め息が漏れた。
宰相閣下のあの目は、一切の迷いを許さないと伝えていた。
姫様の安寧は国家の安寧である。
世界平和のためにも魔王は静かに眠らせたままがいい。
翡翠は意を決し、机の上の書類を掴んだ。
「……やってやろうじゃないの」
低く呟き、通信用の魔道具に手を伸ばす。
まず連絡すべきは、囮となる娘の教育係だろう。




