第19話 薄氷の上の幸せ
「桜歌ちゃん、ほんとにいいのっ?」
りるはの声が弾ける。胸に抱き抱えるのは、先ほど桜歌から貰った、クリーム色のカーディガン。ゆるっとしたデザインが可愛らしい。
「いいって言ってるでしょ。……そんなに着てないから、ほとんど新品よ」
テーブルには、半分ほど減った巨大パック寿司。寿司が並ぶだけで、いつものリビングはおめでたい空間に様変わりする。ありがたいことだ。
誕生日会、と言うほど豪勢な催しではないが、祝われている本人、りるはは充分ほくほくした顔をしている。
「前買ったワンピースに合うと思うわ」
「お、桜歌ちゃん……!」
「お下がりでそんなに喜ぶ?」
「桜歌ちゃんのお下がりだから嬉しいのっ」
毎年自分の誕生日が来る度、少し不思議に思う。ケーキに向かって、問いたくなる。これって、そんなに祝われるようなことなのだろうか、そんなにめでたいだろうか、と。
でも、他人の誕生日には、そんなことは忘れてしまう。人を祝うのって、なんだか楽しい。贈り物をするのも、感謝を伝えるのも、誕生日という言い訳が背中を押してくれる。
こういう日が必要なんだな、つまり。
そんなことを考えて、俺はカバンから出したそれを、りるはに渡す。
「はい、これは俺からのプレゼントだ」
受け取ったりるはは、見慣れないものなのか、首を傾げた。
「えっと、これは……」
「アマゾンのギフトカードだ」
桜歌から、こう、なんとも言えない視線を感じる。いや、言わんとすることはなんとなく分かるぞ、うん。
「あまぞん……」
「りるは、ブラジルの熱帯雨林のことではないぞ」
「それくらい知ってるよ!?お兄ちゃん私を舐めすぎ」
「なんか、"逃げ"って感じするわよね」
桜歌の指摘に、俺は肩をすくめる。
一応、迷った上でのチョイスであることは強調しておきたい。ショッピングモールに行って、それなりに吟味して、最終的に出した結論が、それなのだ。
だってさあ、
「分かんねえんだ、改めて考えると」
趣味も、嗜好も、何を必要としているか、何をあげれば喜ぶのか。いざ向き合うと、何も浮かんでこなかった。
当たり前だよな。彼女がここに来て、まだ一週間とちょっとなのだから。知らないことがあるのなら、これから知っていけばいいのだ。
「だから、それを使って好きなものを買ってくれ。そんで、りるはの好きなもの、俺に教えてくれよ。来年までに、知っておかないといけないだろ?」
「……うん」
りるはが、ぐすっと鼻をすすった。伏せた瞼の下が、きらりと潤んでいる。
「なんで泣いてんのよ」
「うう、感動だよう……」
カーディガンとギフトカードを抱えたまま、りるはは手の甲で涙を拭う。
感動、と本人は言うけれど。その表情に映る、どこか息が詰まるような圧迫感はなぜなのだろうか。
何を考えて、何を感じて零れた涙なのか、それすら掴めなくて、ああ、俺は本当にまだ彼女のことを何も知らない。
りるはは静かに呼吸を整え、貰ったそれらをぎゅっと胸の前で抱きしめた。
「お兄ちゃん、桜歌ちゃん、本当にありがとう。カーディガンも、ギフトカードも、大切に使うね。……えっと、ちなみにこれは、バーコード当てたらぺいぺいって鳴るやつ?なのかな」
やっぱり全然分かってないじゃないか。
「後で使い方、教えてやるから」
そのとき、玄関からドアの開く音が聞こえた。直後、
「ただいま〜」
ラムネのような、きゅんと弾ける元気な声。李の帰宅だ。
「お?寿司?いえーい」
リビングに入ってきた途端、食卓を見てピース。ポニーテールがぴょんぴょん跳ねる。
「今日、早いな」
「いやだって、りるちゃんの誕生日だし」
「李ちゃん、覚えててくれたの?」
「あったりまえじゃーん」
そう言って、李は手に持っていたビニール袋を揺らす。
「プリン、いっぱい買ってきたから。りるちゃん好きに食べていーよー」
「な……ほ、惚れそう」
冷蔵庫に大量のプリンをしまい込んだ李は、さっそく食卓の寿司に手を伸ばす。俺は慌てて李を押しとどめた。
「食べる前に手ぇ洗いなさい」
「……その間に無くならない?」
「そんな短時間で食べ切れるわけないだろ」
「サーモン、あと一つだぞ?」
「食べないから」
「約束な?」
しぶしぶ洗面所に行く李。彼女の姿がリビングから消えたと思うと、今度は俺のスマホが音を立てる。
「なんだ……って、胡桃からだ」
メッセージを確認した俺は、無言でりるはに画面を見せる。
《りるはちゃん、お誕生日おめでとう\(^o^)/~
りるはちゃんが来てから、家がさらに賑やかになって楽しいよ〜( ˊᵕˋ )♡.°⑅
これからもよろしくね!☆(*^o^)乂(^-^*)☆ 》
"これからも"もなにも……というツッコミはしないでおく。同じ屋根の下に住んでいるんだし、何より祝われた当人が嬉しそうだ。
「こんなに幸せでいいのかなー」
なんて、ぼやいている。いいに決まっている。
「そういやさ、勝負?ってどうなったんだよ」
洗面所から帰ってきた李が、そんなことを聞く。さっそく片手にはサーモンの寿司。一貫そのまま口に放り込み、頬を膨らませたまま首を傾げる。
「ふぇっちゃふついふぁのは?」
決着ついたのか?だろうか。
「どうなの?」
にやにやした顔で、桜歌が俺を覗き込む。りるはもくすぐったそうにこちらを見ていた。
「……俺が決めるんだよな、確か」
桜歌とりるは、どちらが本当の妹か。
俺はため息をつき、アナゴのにぎりをかじった。
結果なんて、最初から決まっている。揺らいだことなんて一度もない。
「……二人とも本当の妹だ。勝ち負けなんてない」
ふっと二人の顔が緩んだ。
「面白みのない答えね。ま、そう言うと思ってたけど」
「私はそんなお兄ちゃんが好きだよ〜」
はいはい、と躱し、俺は乾いた喉に緑茶を流し込んだ。
……本当とか、偽物とか、普通とかキモいとか、そんなことはどうでもいい。妹はそれ単体では妹ではない。当たり前の話だが。兄がいるから、妹なのだ。兄が妹を規定するのだ。だから、
「俺が妹だとみなした人間は、もれなく全員俺の妹だ」
その場にいる全員が、もれなく苦い顔をする。
「……なんかキモい」
桜歌がぼそっとそう言う。頷く李、苦笑をうかべるりるは。
「だからつまり、全員大切ってことだよ」
そういうことを言いたかったのだ。
ふと、りるはの視線があさっての方向を向いていることに気づく。目線の先を追うと、どうやら壁にかけたカレンダー。
「そういや、りるはって高校の準備はどうなってるんだ?」
ゆっくりとこちらを向いたりるはは、数秒間固まったかと思うと、ぎこちなく頷いた。
「……うん。四月になったら、色々と、ね」
「そうなのか」
そのひきつった口角に、疑問を覚えながらも、俺は深く追求しようとは思わなかった。
なぜだろうか。
分からない。
震えたスマホを確認すると、今度は親父からの連絡だった。
「親父と母さん、明後日には帰ってくるってさ」
俺がそう伝えると、リビングが軽く沸き立つ。特に嬉しそうなのは李だ。素直に感情を露わにする。桜歌も、クールを装いながら口元は綻んでいる。
りるはは。
その顔に、感情はなかった。
能面のような白い顔で、カレンダーをじっと見つめている。あさって、と微かに呟く声が聞こえた。
緊張しているのだろうか、と俺は思った。
離婚した父の新しい母親。俺も桜歌も長い時間をかけて乗り越えた壁が、今りるはの目の前に迫っているのだ。
大丈夫だよ、と言うように、俺はりるはに目線を送った。母さんは優しい人だから、きっと受け入れてくれる。そう伝えたかった。
俺の目線を受け取ったりるはは、一瞬泣きそうな顔をした後、軽く頷いた。
その後、買ってきたケーキをみんなで食べ、ゲームをして腹を抱えて笑い、夜は更けていった。
幸福の真っ只中にいるときは、その幸福に気づかない、なんて聞くけれど、俺は確かに幸せだった。わざとらしいほど強く、噛み締めていた。
本当は分かっていたのだろうか。分かっていて、気づかないふりをしていたのだろうか。
風呂を終え、俺はリビングで、炊飯器をセットしていた。明日の朝は、めずらしく朝ごはんを準備してみようと思ったのだ。
「お兄ちゃん」
後ろから、りるはの声が聞こえた。
「なんだ?」
俺は米を量りながら、返す。
「今年の誕生日、お兄ちゃんと過ごせて良かった」
「なんだよ急に改まって」
「急じゃないよ。ずっと思ってたんだ」
量り終えて振り返ると、りるはは既に背を向けていた。リビングから出ていくその後ろ姿に、何か声をかけようと思って、しかし声は出なかった。
なにか、言っておけばよかったなあ。
りるはが置き手紙を残して姿を消したのは、翌朝のことだった。




