最終話:虚妄の果てに
老人が振り下ろした刃によってオレの血は祭壇へと容赦なく注ぎ込まれた――だが、いくら待とうとも、神聖な地響きが轟くことも、神の降臨を示す異様な気配が漂うこともなかった。
ただ、ぴちゃ、と。
冷たい石の床に血が跳ねる音だけが、不気味なほど鮮明に祠の中へ響き渡る。
――儀式は、失敗したのだ。
その事実が全員の脳裏に落ちた瞬間、空間からあらゆる音が消え去った。
「なっ……! うそだ、そんなはずはない……!」
静まり返った石造りの空間に、旧家の老人のうわ言のような叫びが空しく木霊する。老人は血で赤く染まった祭壇にすがりつき、狂ったように何度も刃を突き立て直した。だが、手応えにあるのはただ無機質な石の冷たさだけだ。神の啓示どころか、奇跡の兆しすら微塵も起きやしない。
あるのはただ、さびた鉄の匂いと、背筋が凍るような静寂だけだった。
「おかしい……! 血が足りないのか!? もっとだ、もっと別の生け贄を捧げろ……っ!」
姥井山守が血走った目を剥き出しにして周囲の若者たちに掴みかかるが、誰一人として動く者はいない。皆、足元から崩れ落ちるような底知れぬ恐怖と、言いようのない気まずさに囚われていた。
そこにあるのは、圧倒的な「無音」だった。
聞こえるのは、外で燃え盛る教団の炎がパチパチと乾いた音を立てる響きと、自分たちの早鐘を打つ心臓の音だけ。どれだけ祈ろうとも、どれだけ血を捧げようとも、この暗い地底からは何の応えも返ってこない。
――禍神など、最初からいなかったのだ。
何百年もの長い年月の中で、狂信的な者たちが勝手に都合の良い妄想を膨らませ、身勝手な欲望を正当化するためにすがりついてきただけの、荒唐無稽な伝承。
そのたった一つの幻想のために、彼らは血族を呪い、異端を排し、罪なき人々の命を奪い尽くしてきたというのか。
すべてが嘘だったと突きつけられたその絶対的な静寂の中で、祠の空気は凍りつき、旧家の者たちの足元にあったはずの「特権」と「自信」が音もなくすり減っていく。
その傍らで、阿波流川博は崩れ落ちたまま、泥と血にまみれた床に突っ伏していた。
「……こんなの……何だったんだよ……」
掠れた声は誰にも届かない。
ミナを失った怒りと絶望に狂い、啓一を外様と罵って追い回し、教団の聖地を自らの手で焼き払い、血みどろになって辿り着いたその果てが「ただの空振り」だったという現実。
救いなど最初からどこにもなかったという底無しの虚無感が、博の精神を容赦なくすり潰していく。
自分が犯してきた罪の重さと、そのすべてが滑稽な茶番にすぎなかったという絶望に、彼はただ頭を抱えて震えることしかできなかった。
地底に眠る力を得てこの山村の全権を我が物にしようとした旧家の野望は、轟音とともに散るのではなく、あまりにも静かに、白々しく崩れ去っていった――。
すべてが幻想だったと気づき、取り乱し、泣き叫び、醜態を晒して絶望に狂う旧家の者たち。
彼らが犯した罪――ミナの命を奪い、教団を焼き払い、多くの血を流したその代償は、神からの罰などではなく、自分たちが積み上げた狂気と破滅という現実そのものだった。
呆然とする旧家の者たちが足掻き続ける中、祠の重厚な扉を蹴破って飛び込んできたのは、息を切らした父親だった。
「啓一……っ!」
あの夜、絶望に打ち震えていたはずの父が、息子の命を守るために必死でここまで辿り着いたのだ。
父は儀式の刃に怯むことなく旧家の者たちを力任せに押し退け、オレを縛っていた縄を必死の思いでほどき、その腕の中に強く抱きしめた。
父の震える温もりに触れた瞬間、オレの張り詰めていた糸がプツリと切れた。
◇ ◇ ◇
数日後。外界との隔絶が解かれた山村の惨劇は、全国のニュースで大きく取り上げられていた。
テレビ画面の向こうでは、キャスターが冷ややかな声で報じている。
『――山間部の閉鎖的な村落において、地元の旧家と新興宗教団体との間で激しい抗争および大規模な惨殺事件が発生しました。警察の調べによれば、教団関係者および村人ら多数が死亡……』
報道ははじめ、狂信的なカルト集団が引き起こした内輪揉めの凄惨な事件として処理されかけていた。
だが、生き残った旧家の者たちは、もはやかつての権力など完全に失い、警察の徹底的な捜査と世間の糾弾の前に引きずり出されていた。
ミナの殺害をはじめとする隠しきれない数々の罪状により、姥井山守や老人たち、そして自らの過ちの愚かさに打ちひしがれ、魂の抜けた人形のようになっていた阿波流川博を含む旧家の中心人物は全員が逮捕され、法の下でその身柄を拘束されていた。
自分たちが隠蔽しようとしたすべての真実を知る彼らは、これからその重い十字架を背負ったまま、長い間冷たい牢獄の中で裁きを受けることになるだろう。
警察の事情聴取と病院での治療を終えたオレは、すべてを失ってやつれ果てた父親と共に、あの山村を離れることになった。
車窓から流れていく山々は、あの日の夜と同じように静かで、気味の悪いほど美しい緑に覆われていた。
あの山の中で何が行われ、どれだけの命が理不尽に踏みにじられたのか。
そのすべてを知る者たちは、ミナやサヤだけでなく、罪にまみれて落ちぶれた旧家の連中も含め、あの村の深い闇の中に消え去っていく。
失われたものは二度と戻らない。
心にぽっかりと空いた穴を埋める言葉など、どこにもないまま、オレは、隣で静かにハンドルを握る父の横顔を見つめながら、ただ虚しい思いを抱えて遠ざかる村の景色を見送るのだった。
――ふと、この村へやってくる直前のことが脳裏をよぎる。
あれほど激しい原因不明の倦怠感や、頭をかきむしりたくなるような頭痛に襲われていたのは何だったのか。
あれがすべての始まりだったはずだ。あの時はただの体調不良だと思っていたが……。
ガタゴトと揺れる車体と騒々しいエンジン音。その騒音を切り裂くように、オレの胸の奥から、ドクリと巨大な鼓動が響いた。
それは心臓の音ではない。もっと深く、もっとおぞましい、地底の底から這いずるような胎動だ。
――よくぞ、目を覚ましてくれた。
聞いたこともない重く響く声が、直接脳内に這い寄ってくる。
隣で静かにハンドルを握る父の横顔を見る。だが、父はその声に気づいた様子もなく、前をまっすぐ見据えたままアクセルを踏み続けている。父には、この声は聞こえていないらしい。
――我は、お前の中にいる。
ぞっとするような冷たい気配がオレの全身を駆け抜け、ふと窓の外を映すバックミラーに目をやった。
そこに映る自分の瞳の奥に、不気味な黄金色の光が、わずかに、しかし確実に宿っているのを見つけた瞬間――。
遠ざかっていく山村の闇の底から、そしてオレ自身の胸の奥から、禍々しい産声が、重なり合うように響き渡っていた。
(完)




