第1話:禍神村(まがじんむら)に来て三日目、スマホはただの板になり、ボーナスステージが始まる
この山深い、禍神村に到着して三日目。
俺――藤原啓一のスマホは、完全にただの薄い板と化していた。圏外。文字通り、現代社会からの完全な断絶である。すべての元凶は、父の突然の脱サラだ。
「俺は都会のしがらみを捨てる!」
と、妙に清々しい笑顔で長年勤めた会社を辞め、なぜかこんな過疎の山奥へと一人息子のオレを連れて引っ越してきた。
もっとも、父の本当の狙いは別にある。
母を亡くして以来、俺の身体を蝕んでいた原因不明の体調不良――どれだけ寝ても抜けない疲労感と、体の芯から冷えていくような悪寒、頭をかきむしりたくなるような頭痛について、古い伝承や民俗学の文献にドハマりした父が、
「この村の自然と謎の秘術で、絶対によくしてやる!」
と勝手に大盛り上がりし、移住先をここに決めてしまったのだ。親の愛とは時に迷惑なものである。
父子二人、車が険しい山道を登りきったとき、村の入り口にあった『歓迎』の看板は土埃と錆にまみれ、まるで文字が剥ぎ取られているようだった。
窓の外を通り過ぎる村人たちの視線も、決して俺たちを歓迎などしていない。
ねっとりと肌に貼り付くような、品定めするような冷たい眼差しだった。
そして迎えた三日目の昼休み。
教室に充満する、よそ者に対する村の生徒たちの冷ややかな空気に耐えきれなくなった俺は、購買で買ったパンを手に、少しでも静かな場所を求めて校舎を出た。
人目のある場所に行けば、また「都会の奴は食い方が違う」だの「田舎をバカにしてる」だのという陰湿ないちゃもんをつけられそうだったからだ。
誰も近寄らないであろう校舎の裏手まで回り込めば、そこには鬱蒼とした木立と、埃っぽいコンクリートの壁があるだけだった。
「……よし、ここなら一人になれる」
人けのない静寂の中で、ようやく落ち着いてパンを口に運ぼうとした――その時だった。
「おい、新参者」
背後から低い声に呼び止められた。
驚いて振り返ると、そこには村を牛耳る旧家――『阿波流川家』の跡取りである阿波流川博と、『姥井山家』の跡取りである姥井山守の二人が立っていた。
彼らはこの一年で突如として村に流入してきた新興宗教団体と俺たち一家を脳内で混同し、「カルトの回し者」と決めつけて敵視している。
ただ、彼らは親の威光を笠に着ているだけで、村の裏事情など何も分かっていない能天気な阿呆どもだった。
「悪いが、俺たちは宗教とは一切関係ない。父も、息子の健康祈願ついでに脱サラしてこの村へ移住してきたただのバカ親だ」
「口では何とでも言えるさ。お前の家族が来てから、村の空気が一段と淀んだんだよ」
博が容赦なく俺の制服の胸ぐらを掴んだ。
その瞳の奥には、薄っぺらな選民意識と土着の狂気が宿っていた……はずなのだが、いかんせん小物感が漂っていて正直あまり怖くない。
俺が心の中で「早く離してくれないかな」と冷めた目を向けたその時だった。
冷え切った空気を切り裂くように、二つの影が割って入ってきた。
「――そこまでにしておきなさいよ。みっともない」
現れたのは、村で代々続く広大な山林の林業と、豊かな川魚の養殖を牛耳る山田家の娘・山田ミナだった。
彼女の家系は旧家と近い関係にはあるものの、圧倒的な経済力と自立した稼ぎを持っているため、旧家側さえも下手に手出しができない一目置かれた存在だった。
その毅然とした佇まいに、博はわずかに顔を引きつかせ、舌打ちをしながらも掴んでいた手を離した。
「ミナ、お前、またあの新参者を……」
「私の勝手でしょ。あんたたちみたいに、何でもかんでもカルトのせいにしなきゃ不安で眠れない臆病者とは違うのよ」
ミナが旧家を鋭く牽制したその隙に、もう一人の影がすっと滑り込んできた。
「こんにちは。そんなところで言い争いなんて、もったいないですね」
新興宗教の信者の娘・田中サヤだ。
彼女は校舎の陰からすっと現れると、常に表情の変わらない、少し不気味なほど美しい笑顔で俺の反対側の腕を取った。
旧家から睨まれ、宗教の少女と誇り高き少女に両脇を固められる。
――ちょ、ちょっと待て!
田舎の転校生がいきなり学年の美少女二人にかばわれ、両腕を抱きしめられるなんて、これ完全に王道のハーレム展開じゃないか……!?
スマホは圏外だし村人は冷たいけれど、もしかして俺、人生の特大ボーナスステージに突入してしまったのでは……?
そんなドキドキとドギマギが入り混じったお気楽な勘違いを、この時の俺はほんの少しだけしてしまったのだ。
それがのちに盛大な墓穴を掘ることになるとも知らずに。




