六 君に寄り添う為に来た
随風の父と兄達も揃って式典に参加していた。母は既に故人だが、兄嫁達の顔は見えた。子供達は幼いので留守番だ。家族に婚礼の件は知らされておらず、一家は度肝を抜かれていた。
賠償交渉は途中であったが、圧力をかけるために英雄の国葬を行ったのだ。それ故に、南山国の使節団も招かれていた。薄絹で顔を隠した侍女は、顳顬に青筋を立てていた。棺の上からその姿を確認した随風は、上機嫌で顎を反らした。女が袖の中で巫鈴手花を鳴らそうと手をくねらせた。
巫鈴手花とは、指と手首に嵌めた輪で留める、鎖手甲である。鎖にはびっしりと小さな鈴がならんでいる。あらかじめ寄生させた巫蠱術の虫は、この鈴の音で操れるのだ。これは、女性の手甲飾りハスプールに似た稀少な暗器である。公主本人も秘術を使えたとは、これまでの情報にない事実だった。日々岳柔の暗殺部隊と無音に張り付かれ、相当不安定になっていたのだろう。
自信満々な人物ほど、見下している相手を捻り潰せないと解るや否や落ち着きを失うものだ。翠雲公主は、他人を操れる絶対強者だと自負していた。そこへ崩せない相手が二組も同時に現れて、憔悴していた。そのため功を焦り、成り行きも見ずに奥の手を出してしまったのである。
「何をスル!」
取り押さえられた翠雲公主が金切り声を上げた。微かな鈴の音に反応した参列者たちは、虫を植え付けられた傀儡である。会場の警備兵も暗衛たちも、選りすぐりの達人ばかりだ。傀儡はすぐに無力化され、一室に集められた。念の為に待機させられていた医師が、嬉々として解毒に励んでいる。治療というより、趣味の活動だ。勿論、東哲門下生の例の弟子である。
「この傀儡蠱は初めて見るな。成長段階によって、戦闘スタイルが変わるのか。面白い。解毒はおそらく……」
使者団は知らぬ存ぜぬを貫いて、翠雲公主を切り捨てた。虫による傀儡術でさえも瞬殺されたのだ。南山国は、完全に戦意を喪失した。
一方、婚礼行列は、騒ぎを無視して階段を登り続けていた。随風は、引き摺られてゆく翠雲公主を目で追う。位牌を捧げ持つ手には力が入った。ぐっと唇を引き結ぶ。円な瞳には、不安の色が見えた。傀儡蠱は解けるのか、未知数だ。主犯の翠雲公主が連行されて行く途中で、不測の事態が発生することもあり得る。もし逃げられたら、今度こそ捕まえることが出来なくなるのではないか。
武功皆無の随風では、翠雲公主の息の根を物理的に止めることが出来ない。公に拘束されたので、無音の仲間が手を下すわけにもいかない。無音も皇帝配下の組織なのだ。動きづらい部分もある。
(あの手のスパイは、生かしておくとまた手下を手に入れて暗躍し始める)
随風の希望では、岳柔が放った刺客に仕留められるか、逃げても無音に排除されるかであった。しかし皇帝は、賠償内容が確定するまでは泳がせておかないと、責任問題で交渉が難航すると考えた。南山国の帝王一族が行方不明になれば、見つけ出すまでは交渉を延期にされるだろう。亡骸が見つかれば、事件解決を迫られるだろう。この場合も、解決するまで交渉は中断される。使節団に名前がなくとも、私的に訪問していたと言い張られたら、皇帝は黙殺できない。結局のところ、生かしておくことが国益となるのだ。
(せっかく岳柔が動いたのに、無音は結果的にスパイの警護をさせられた)
随風は本来、国葬と拝堂を分けるつもりであった。国葬が盛大に行われれば、民衆の熱狂も益々激しくなるだろう。国葬は、段燕最後の花道だ。この場で拝堂を強行すれば、葉随風の舞台になる。そんな蛮行は言語道断である。段燕の見せ場を邪魔するなんて出来ない。だが、いつまで待っても翠雲公主が報いを受けたという知らせが来ない。痺れを切らせた随風は、血赤に塗り上げた棺桶に乗って会場を進む事を思いついた。
翠雲公主の凶行で、随風の心は一段と頑なになった。
(燕燕を無惨に死なせておいて、黒幕を自由に動き回らせるなんて)
花婿行列で国葬に乗り込むと決めた時、既に覚悟は決まっていた。拝堂は、不正に屈しないという意思表示である。幸せは奪えないという宣言である。黒幕を逃しはしないという威嚇である。
本来ならば、国葬を終え賠償交渉を済ませる流れだ。そうすれば、翠雲公主にも手が届く。無音ならば、初国で息絶えたと偽装することも容易い。だが、国葬の場を黒幕が乱した。随風が自分の命よりも大切に思う段燕の尊厳を踏み躙った。取り押さえれば良いというものではない。皇帝は、国葬の場で黒幕に行動させてしまった。
(この賢帝が、草原連盟をも一気に手にする貪欲さを持つなんて、考えたくないけど)
わざと騒ぎを大きくし、対立を深めるのが目的かと勘繰ってしまう。戦争へと向かう道を、素知らぬ顔で整えているようにも見えた。一度は翠雲公主を捕らえておき、憎しみを煽ってから解き放つ。そうなれば、翠雲公主がまた水面下で人と情報を操るだろう。そして、草原連盟と南山国の合計五国が公然と手を組んで攻め込む。一方の巌国は、策を弄さずとも四国を一度に相手取れるのだ。
(草原連盟領土に手を伸ばすのは、辞めておいたほうが良いんじゃないかなあ)
棺はついに、階段を登り切った。赤く塗られた棺桶が下ろされる。葬儀を想定した祭壇に、婚礼用の赤い蝋燭、赤い布などが飾られてゆく。黄護衛が老将軍の位牌を持って、祭壇の脇に立つ。笑顔の女性が反対側の横に進み出た。皇帝は、更に上の段から見下ろしている。衛調査官と東哲医師の手を借りて、随風が棺桶から降りた。
「吉時に到れり」
女性が声を張り上げる。影絵一座の一員である。一連の出来事はどれも常軌を逸しており、参列者はしんと静まりかえっていた。皇帝が黙認しているので、誰も手を出せない。使節団も呆気に取られて眺めるばかり。
「一拝天地」
随風は女性の合図で、祭壇に背を向け、天を仰ぎ、位牌を抱いて深々と礼をした。天が応えるように雪を落とす。地が受けるようにその雪を吸い込む。
「二拝高堂」
あの日のように赤い髪帯を風に流れるままにして、随風は老将軍の位牌へと向き直った。高堂とは先祖である。巌国では父母や祖父母も含まれていた。花婿は老将軍の位牌に向かい、完璧な曲線を作って礼拝した。随風の立つ石の階段は、みるみる薄雪で化粧されてゆく。祭壇に飾られた赤い布にも、雪は休まず積もってゆく。
「夫妻対拝」
随風は腕を伸ばして位牌を捧げ持ち、深々とお辞儀をした。燕の位牌に掛かった布が、ふわりと揺れた。本当の頭蓋かと錯覚するほどに、瑞々しくも優雅だ。刺繍された鴛鴦も白くなってゆく。
頭を起こした随風は、鬼気迫る雰囲気であった。再び燕の位牌を懐深く抱き込むと、大石から酒壺を受け取った。参列者には、何処からともなく現れた赤い衣の人々から、酒を満たした陶椀が配られる。随風はモヤシである。赤い大きな袖から細く頼りない腕が伸びていた。必死に位牌の台座を支えて抱きかかえ、小ぶりの酒壺を片手で雪空へと持ち上げた。
「段家軍に献杯!」
モヤシとは思えない、気迫に満ちた献杯であった。一同も杯を高く掲げて声を揃えた。
「段家軍に献杯!!」
皆は一斉に酒器を傾け、目の前に一の字を書く動作で酒を溢した。足元の雪が酒で三度削られる。涙を零す人が現れ、あちこちで啜り泣きが聞こえた。皆は一口だけ酒を含んで、祭壇に向かって丁寧に頭を下げた。五狗だけは子供なので、代わりに茶を使っている。祭壇の前に立ついつもの六人が、再び酒器を天へと掲げる。ギュッと唇を閉じて、思い切りよく酒器を地面に叩きつけた。参列者も次々と酒器を割る。頭に、肩に、腕に、足に、どの人にも雪が飾られてゆく。
「雪がどんなに白くても、あの日流れた鮮血の色を忘れるな!」
階段の下では刑部尚書葉淵が、我が子が見せる見たことのない様子に胸を痛めていた。兄たちや兄嫁たちも心配そうに目配せしあっていた。刑部には、翠雲公主がらみの事件は関わってはいけない、というお達しがあった。そんな特殊な犯罪者が相手だった今日の大捕物の間、息子は平然としていた。
もとから慌てない息子であったが、今日は落ち着きぶりが普通ではない。重苦しく、薄気味悪くすらあった。周囲の五人も只者ではない。段家軍の生き残り二人は見知っている。後の三人を見たことは無かった。父の中で、人の動きには敏感だという自信が崩れ去ってゆく。
「卑劣な者を赦すな!」
随風は雪に埋まり始めた両足を踏み締めて叫んだ。
「赦すなー!」
大衆が答える。皇帝が苦い顔を見せた。
「ひとり残らず炙り出せ!」
「炙り出せー!」
妻の位牌を大衆に向け、随風は棺の側に立っている。
「気高く勇猛な我が愛妻、鎮南将軍神燕段燕に栄光あれ!」
「神燕将軍に栄光あれ!!」
最後に一度、大衆へと腰を折る。皆も同じくらい本気のお辞儀を返した。皇帝は不機嫌そうに立ち上がった。国葬の場を荒らされたのだ。腹も立つだろう。
「陛下、お見送り致します」
会衆と随風たちが、心をひとつに送り出す。
(燕燕、出来ることなら僕のこの手で翠雲公主を地の底へ送ってやりたい)
モヤシには荷が重すぎる。
(僕にはできない。でも、信頼できる仲間がいるんだ)
段家軍のふたり、彼等はもとより燕の部下だ。仇を逃す気はさらさらない。瓦舎のふたり。ふたりは無音の所属だが、自由気ままな気質である。衛寒雨。この人については、表の職業を知らない。随風は、彼が土壇場で裏切る可能性を捨てきれないでいた。
(それでも必ず、翠雲公主にはきっちり引導を渡してやるからね)
岳一族や皇族、南山国の使者や帝王については、どうでもよかった。彼等はこれからも、互いに噛み合うことだろう。それで良かった。だが、謝天開を操って段家軍に獅子身中の虫を作り出した者は、見過ごせなかった。
(裏切り者は、燕燕のことをクソ女だなんて呼んでいたんだ)
五狗によれば、翠雲公主もその場にいた。
(そういう人は、ダメだよね、燕燕)
心の中で新妻に語りかけるうちに、随風は冷静さを取り戻した。冷静ではあるが、平常心ではない。
「東哲先生、虫の治療を見学したいんですが」
「竹月の奴に聞いてみるよ。あんまり期待はするなよ?断られると思うぞ?うっかり寄生されたら面倒だからなあ」
「ええ、それは理解できます」
弟子は竹月という名前のようだ。衛調査官が随風をじいっと見る。
「何をしでかすつもりですか?」
「雨の旦那も気になる?やっぱり何かやろうとしてるよね?モヤシの旦那」
五狗も好奇心剥き出しで訊いてくる。
「見学出来てから教えますよ」
「そうですか」
「ふうん?」
会衆は帰宅を始めている。係員が祭壇を片付けにやってきた。赤いものは、影絵一座が片付ける。足元まである上衣を翻して、東哲の弟子が近づいてきた。大柄な師匠に比べて更に上背があるが、痩せて骨張っていた。似たようなだらしなさだ。擦り切れた上衣が雪風に煽られて、バタバタと不規則な布地の音がする。無精髭を生やし、彫りは深く、黒檀色をした髪の毛は緩く波打っている。眼が青い。北東に住む友好民族の血が入っているようだ。
(いろんな意味で目立つな。こんな人がなんで、南山国から解毒方法を盗んでこられたんだろう?)
「やあ、いい知らせがあるよ」
彼は挨拶は抜きで、いきなり話しかけてきた。低めの濁声である。
「さっきの蟲使いに、死ぬまで本当のことしか話せなくなるマゴコロ蟲と、あと、何だか効果が分からない蟲を何種類か取り憑かせておいたよ」
いつの間にか、解毒だけではなく秘術も手に入れたらしい。絶賛研究中のようだ。
「翠雲公主は、巫蠱術の高手でしょう?自分で解いてしまうのではありませんか?」
黄護衛が懸念を述べる。竹月は口を曲げて首を少し傾けた。
「そしたら、また別の虫を試すさ」
五狗が目を煌めかせて見上げた。
「虫の旦那もやるねぇ」
「小僧、虫の旦那はねぇだろうがよ」
「いや虫だろ?」
「医者だよ。人間だよ」
「人間かよ。つまんねぇ」
東哲の弟子は五狗と意気投合している。
「へぇ」
随風が嬉しそうに笑った。衛調査官が半歩下がる。
「前から思ってたんだが、お前さん、ちょっとおかしいね?」
東哲医師がズケズケと言った。
「いやいや。ちょっとどころじゃないだろ」
五狗も失礼である。
「そうかな?まあいいや。燕のところに帰るよ。みなさん、すみませんが、お願いします」
随風は、蓋の上に積もった雪を払う。それからのそのそと赤い棺に這い上がる。影絵劇一座が数人で担ぎ上げ、階段を下り始めた。帰路も春陽の都全域に婚礼の事実を知らしめながら、練り歩く心づもりである。
降り頻る雪の中、赤一色の行列がしずしずと階段を降りてゆく。幅広の石段に、キシキシと足跡をつけて進む。雪はもう足首まで積もっていた。棺の後を、葉家の人々がついてゆく。どの人も眉やまつ毛に雪片を載せていた。
宮中の兵士たちは既に起き上がっていた。全ての宮殿職員に伝達は行き届いている。随風の乗った赤い棺が通り過ぎる時、剣を、槍を、弓を、笏を、扇を、何も持たないものは腕を、重く垂れ下がる雪雲に向かって掲げた。巌国で婚礼の行列に出会った人々が、一行を見送る時の儀礼である。行列には、布製の杏花、生米、生小豆、銅の小銭、小さな木製の燕のレリーフを撒く係がいた。道々撒かれた五種類の縁起物は、棺が通り過ぎてから人々が拾った。
「いっこ!」
「えー、全部欲しい」
「縁起物だからね、一個だけよ」
子供は五種類集めたがるが、どれか一つしか貰えない決まりだ。杏の花は春を告げる。春陽の都を真っ白に飾り、人々はまっさらな始まりを実感する。米は命の源である。小豆の色は幸せを象徴した。悪霊避けの意味もある。銅の小銭は慎ましい生活の喜びを知らせ、桃の木に彫られた燕は魔除けになって、健康で平安な一生を送れるようにとの願いが込められていた。よく考えてから拾う者、目をつぶって運試しする者、パッと迷わず選ぶ者。道ゆく人は様々だ。
雪は本降りになってきた。道には彩とりどりの傘が花開く。無地もあれば美しい書画が描かれた傘もある。竹製の骨組みが微かな傾斜を作り、持ち手も節のある真っ直ぐな竹だ。目の詰まった丈夫な紙には桐油が塗られている。四方から傘を抱えた町人が駆け寄って来た。
「どうぞ」
小さな女の子が真面目な顔で差し出した。
「お使いください」
人の良さそうな店員が、前掛け姿で手渡した。
「あげる!」
元気な男の子の笑顔が眩しい。
「差してってくださいな」
しわがれ声のお婆さんが、開いた赤い傘を差し掛けた。
「ありがとうございます」
随風は位牌を胸に抱いて、周囲の町人たちに頭を下げた。目には涙が滲み出た。それまでは一滴も見えなかった涙が、じわりと浮いてくる。目が赤くなってきた。
「ありがとう、ありがとう、ございます」
随風は鼻声になってゆく。ようやく泣くことが出来た花婿を見て、行列の皆も啜り泣く。町の人々も傘の陰ではらはらと涙の粒を落とした。
花婿行列は、賑やかな婚礼音楽を鳴らしている。ドラに太鼓にラッパのような金属の笛。これは祝い事で吹き鳴らす嗩吶という楽器だ。独特のビリビリした音色が遠くまで響く。
「神燕将軍万歳!」
随風が涙声で叫ぶ。
「神燕将軍万歳!」
大衆が呼応する。随風が
「段燕!」
と言えば、道端の大衆も
「段燕!」
と応える。随風が
「将軍!」
と絶叫すれば、見守る人々も
「将軍!」
と応じる。
「その名も高き段燕は」
影絵芝居一座の歌い手が、雪の春陽を美声で満たす。宿や茶楼の二階では、窓が次々開いてゆく。本日は国葬のため、地味な色を身につけた富裕層や旅人たちだ。
「神燕将軍様の婿殿だわ」
「お労しい」
「なんて深い愛情なんでしょう」
「でもちょっと怖いわね」
窓の下を眺める人々は、ゆったりと言葉を交わす。
「十二を数えるその歳に」
歌い手は段燕の生涯を語る。町の楽人や講談師達が急いで文言を書き留めてゆく。
「勇ましい将軍様とお優しい婿殿は、なんとお似合いですかしら」
「お二人とも、どんなにかこの日を待ち侘びていらしたでしょうに」
薄化粧の貴婦人が、絹の袂で目頭を押さえた。雪が静かに舞い込んだ。
「初陣飾る勇ましさ」
笛や太鼓が景気付けの合いの手を入れる。群衆はワーッと歓声をあげて手を叩く。行列のしんがりには、葉家の人々が並んでいた。いつの間にか、下働きの人までがいる。幼い子供は親に抱き抱えられ、歩ける歳の少年少女は縁起物を撒いていた。刑部尚書府の者たちは皆、鎮南将軍段燕と五男坊葉随風の愛情の軌跡を間近で見てきた。
五年である。縁もゆかりもなかったふたりが、突然皇帝の勅令で婚姻を結ぶことになった。随風は、神燕の顕現たる美しくも豪壮な段燕将軍の英雄譚を聞いて育った。二歳歳下の女の子だが、三十歳も歳上の大人に思えた。兵器十八般を極め三十六計の神髄を悟った名将は、幼い少年の心を鷲掴みにした。水利を狙う南山国の騎馬隊を、妙案奇計で斥ける。勝利の酒に酔いしれて、得意の横笛を独り奏でる。
笛は語り手の創作で、彼女が好きなのは絵であった。少しは戦の曲を吹けたのだが、あまり得意とは言えないのだ。老将軍からこれを聞き及び、十九になったばかりの随風少年は、急いで画材屋に走った。父に頼んで師を選び、ある程度描けるようになった。
「庭の杏を描きました。早く一緒に花を観たいです。あなたの婚約者、葉随風」
「蕾が膨らんだのですね。幕屋にて、段燕」
「皆で休んだ様子を描きました。美味しい干し杏を今しばらくお待ちください。あなたの婚約者、葉随風」
「皆笑顔で私も嬉しいです。幕屋にて、段燕」
祭りの日には、香袋や手巾を送り合う恋人達を羨ましく眺めた。
「父上、刺繍を覚えたいのですが」
「次男夫人が得意だったな?どれ聞いておいてやろう」
巌国では、手芸を生業とする男性もいる。だが、趣味となると珍しかった。父は偏見のない人だったので、随風の夢はすんなりと叶えられた。
「私の名前を贈ります。あなたの婚約者、葉随風」
「刺繍をお学びになられたのですね。手巾は毎日身につけております。幕屋にて、段燕」
しばらくすると、随風はまた新たな風習を聞き齧って来た。
「父上、戦場を駆ける恋人に、籠手や腕覆いを送ると聞きました」
「なんだ、作るのか?」
「はい、縫ってみたいです」
随風の針仕事は進化した。一針一針丁寧に、愛を込めて縫ってゆく。八割がた仕上がった頃、辺境から休戦の知らせが届いた。
「父上、直にお渡ししたいです」
「解るぞ。父もお前の母上と出会った頃、菓子を作っては持って行ったものだ」
「えっ、父上、お菓子を作れるのですか?」
「やってみるか?」
「はい!」
手先が器用な随風は、すぐに菓子作りを覚えた。
「あんまり楽しくないな」
上手ではあるが、好きではなかった。
「どんなお菓子がお好きでしょうか。あなたの婚約者者、葉随風」
短信で訊ねると、燕は、
「干し杏。既にご存知でしょう。幕屋にて、段燕」
と返信を寄越した。
「だったら、お菓子作りはもうやめよう」
鎮南将軍府嫡長女段燕の離れには、主を待って立ち続ける杏の樹があった。枝もたわわな杏が実る頃、随風はハシゴと竹竿を抱えて婚約者の庭を訪れた。
「随風君、無理はするなよ?私がやろうか?」
「老将軍、おみ脚にご無理がかかります。やはり在下が」
「えい、忌々しいこの脚め」
老将軍は不機嫌に自らの脚を叩く。
「早く、誰か梯子を支えなさい」
離れの下働きを呼び集め、皆で杏の収穫をした。庭に作った竹の棚に平笊を並べて、種を抜いた杏を広げる。尼僧の衣にも似た柔らかな杏色が、夏の陽射しを浴びている。瑞々しい黄緑色の枝葉が作る陰で、主人も下人も竹の長椅子に腰掛けた。作業を終えて、配られたのは甘酸っぱい杏に少し苦味のある緑茶を注いだ果物茶である。暑さと疲れに苦味が嬉しい。渇いた喉が潤ってゆく。
「若将軍にもお届け申し上げたいですね!」
年若い下女が笑顔を見せた。
「生の実は辺境に届けるまでに痛んでしまうよ」
老将軍が優しく笑う。
「あら、残念ですねぇ」
将軍府の人々は、段燕が好きだった。老将軍とも仲が良かった。礼儀は失わず、同時に身分はあってないようなもので、大きな家族と言えるほどだった。日々押しかけて来る婿殿のことも気に入っていた。
婚礼行列は城門広場に差し掛かる。随風はそのまま進んでゆく。段燕の背中に空いた矢傷の穴が、眼の前にチラチラと浮かぶ。色を失った形の良い唇を思いだす。明るく話をしていた、ただ一度の昼食を懐かしむ。
城門を潜り、郊外の山へと分け入ってゆく。段家廟に到着した。棺桶が下ろされ、随風は脛まで積もった雪の中に立った。
「こんな天気の日に、すみませんでした」
「段家軍の受けた痛みに比べたら、なんてことありゃあしませんよ」
影絵芝居の座長が気さくに笑った。口上係の女性が進み出た。
「送洞房!」
ワイワイと皆が随風を取り囲む。煩いほどに楽器を鳴らす。廟の中にはいくつかの部屋がある。随風は迷わず目的の場所に入った。黒い棺の前に赤いテーブルが設えてあった。係が蝋燭に火を灯す。棺の蓋が上げられた。シンプルな赤い服を着た燕の姿が見える。
「燕燕、君に寄り添う為に来たよ」
随風が優しく語りかけた。
「燕燕、お針の得意な次兄夫人がおいでくだすったよ。後で寸法を計ってもらおう。そんな赤い下着じゃなくて、立派な花嫁衣装に着替えようね」
薬草の匂いがツンとする。最高級の防腐措置が施してあるのだ。
「師匠、この配合は思いつかなかったなぁ」
後ろの方でコソコソと耳打ちしているのは、何故かついて来ていた竹月である。
「でも、この嬢ちゃん」
「おお?こりゃあ」
師匠と弟子は頷きあって、サササと棺の前に出る。
「東哲先生?」
随風が不意を突かれてポカンとする。
「ハハッ、代書屋!お前さんにそんな表情させられて、雪ん中、こんな山奥まで来た甲斐があったってもんさな!」
東哲はご満悦である。喋りながら、虫好きの弟子と共に燕の顔を覗き込む。あちこち覗いたり指先で押したりした。随風は目を見開いて、医師ふたりを注視した。だらしなく崩れた服を着た背の高いふたり、即ち老人と中年男が、てきぱきと何かを調べてゆく。
「これは驚いた」
「師匠、薬剤を入れた時にはこうじゃなかったんでしょ?」
「うん。ちゃんと亡骸だった」
「背中」
「うん」
二人はそそくさと燕の遺骸を抱え出す。
「代書屋、すまない、傷を調べていいかい?」
「は?はい」
随風は慌てて皆を外へ出す。燕の背中が現れた。獣や鳥が遺体につけた傷が目に入り、随風は着ている婚服を握りしめた。古い刀疵や矢傷があるが、どれもかなり薄れている。そして。
「おおお」
ふたりの医師が感嘆の声をあげた。
「ほとんど治ってらぁ」
「おい、小竹。背中や腕の古傷まで治って、肌にもハリが出て来てるぞ?」
少し下がって成り行きを伺っていた随風が、転がるように走り寄った。
「治った?」
「ああ、代書屋。こりゃ助かるかも知れんぞ?」
「目が覚めるかどうかはまだ何とも言えねぇけどな」
「ああ、良かった!東哲先生!竹月先生!ありがとうございます!ほんとに、ありがとう!」
随風は、堰を切ったようにわんわんと泣き出した。竹月が袖から出した小瓶の栓をキュポンと抜く。矢傷に近づけると、傷口から五匹の芋虫がゾロゾロと這い出して来た。
「初めて見るな」
「お前さんでも知らないのかい?」
「初めてだ。ただ」
「ただ?」
「皇帝に付けられてたのとおんなじ虫にも見える」
「そうか?言われてみれば、似ているような?」
虫は変異種のようだった。
「たぶんなんだが、矢に塗られた南山国の奇毒蠱の卵が、段燕将軍の体質か絶世神功に当てられて、ちっちぇえ郎中に変異したんじゃねぇかな」
「体質か。杏が大の好物で、暇さえあれば干した杏を齧っていたな」
「それかもな。干し杏の成分が、虫に影響を与えたのかも。まだ分かんねぇけど」
「そもそもが仮死状態だったんだろう」
「師匠ー」
竹月が東哲を避難の目で見る。東哲は、腕を広げて言い訳した。
「呼吸も、鼓動も、脈も、顔色も、硬さも、どっから見ても立派なご遺体だったんだよ」
「いずれにせよ、南山国の陰険な手口が、却って将軍を生かしたんだな」
「ハツ、馬鹿な奴等め。鏃に虫の卵なんか付けなければ、暗殺に成功していたのにな!」
段燕からしてみれば、まさに、災い転じて福と成すというやつだろう。
「東哲先生、竹月先生、燕燕は本当に助かるんですね?」
随風が涙でぐしゃぐしゃになりながら念を押した。
「代書屋、ほらほら顔を拭きなさいよ」
東哲は懐から清潔な布を取り出して、随風の顔をゴシゴシと拭いた。だらしのない風貌からは想像のつかない物だった。よく見れば、全身不潔ではないのである。着方がだらしなく、ボロでも繕わないが、洗濯や消毒に手は抜かない。手先も器用なのだ。なにせ名医である。ただ、少々変人でものぐさだというだけだ。
「ありがとうございます」
程なく落ち着いた随風は、部屋の外で気を揉んでいた皆を呼び入れた。皆は驚き、喜び、涙を流した。段燕は随風の自室に運ばれた。乗り物がないので、随風が乗って来た赤い棺に入ってもらう。
「また棺桶で可哀想だけど、馬車を持って来るよりこの方が早いからね」
鎮南将軍府は現在復旧作業中で、病人どころか健康な大人ですら安静にしていることが出来ない。他に適切な場所もなく、随風の部屋で経過を見ることとあいなった。
二ヶ月後、段燕が目を覚ました。季節は真冬、庭の池には氷が張っている。
「燕燕!」
寝台に起き上がった段燕の手を取って、随風は破顔した。
「阿随?ここは?何故ここに?真冬のようだけど、戦はどうなった?みんなは?」
随風は段燕に茶を渡す。
「燕燕。落ち着いて聞いてね」
「ん?」
これまでに起こったことを、随風は順を追って伝えた。翠雲公主の手下ふたりは、早々に始末された。草原同盟の四国は、南山国とは無関係であると主張し、これまで通りの相互不干渉を希望した。新太子はいまだ立てられず、岳柔は有力官僚の後妻に決まった。
「阿随、話すの上手いねえ!」
普段報告書を大量に目にしているため、いつの間にか伝達がうまくなっていた。
「それにしても」
段燕は大きく息を吐き出した。
「私だけ生き返ったのか」
「燕燕」
段燕は虚な顔で随風の声に反応した。音がする方向に顔を向けただけに見える。
「段家小廟に行く?」
罪人を投げ捨てる穴から救い出して、こっそり山中に埋葬した遺体は、今ではきちんと改葬が済んでいた。段家小廟は、その改葬場所だ。段家廟の隣に、小さな霊廟を建設したのだ。改葬した白鉢巻の仲間たちは、それぞれ棺に収められた。辺境で奸計に倒れた兵士たちは、ひとりのこらずきちんとした位牌が納められていた。何らかの偶然で、辛くも災禍を逃げ延びた段家軍将士の老母や幼い兄弟姉妹たちが数人、霊廟前の田舎屋で暮らしていた。霊廟管理の名目で雇われている。
「行く」
「もう少し回復したら一緒に行こうね」
「そうだね。足腰がだいぶ弱っている」
またひと月が経過した。鎮南将軍府の再建は、雪で中断されている。段燕はあらかた回復し、仲間たちのいる段家小廟を訪れた。随風、黄護衛、大石が同行する。燕は三人を待たせて、ひとり霊廟へと入って行った。老将軍は、段家廟に祀られているが、分霊の位牌が小廟にも安置されていた。あの日先頭に立っていたからだ。皆もきっと、同じ廟にいたいことだろう。
「帰ろうか」
小廟から出て来た段燕は、穏やかな様子であった。
「うん、燕燕」
雪の斜面を馬橇で走り、一行は刑部尚書府に帰宅した。
「お帰り」
父が立ち上がって出迎えた。
「寒かったでしょう?ほら、火鉢の近くに」
「お茶どうぞ。暖かいわよ」
「肩に雪が。ほらほら拭いて」
「厨房に声かけてくるわね」
兄嫁たちが段燕の世話を焼く。兄たちも皆帰宅していて、その様子をにこにこと眺めていた。
「あの、差し支えなければ、今夜は大石に食事を作って欲しいのです」
皆は一瞬しんとして、顔を見合わせた。
「そうだな。それが良かろう」
刑部尚書葉淵は、暖かな笑顔で同意した。仕事柄、人の悪どい面をたくさん見て来た。凶悪犯のせいで一家離散の憂き目に遭わされた人も、ひとりやふたりではない。社会は已然不安定である。冤罪で惨死した段家軍の兵士たちを思うと、葉淵はやりきれない気持ちでいっぱいになった。葉淵は、凶悪犯や、手出し禁止の政治犯と遭遇することもある。悔しい思いを無理に飲み込んで、友の亡骸を抱えて帰った夜もある。ひとり助かってしまった段燕将軍の気持ちも、少なからず察したのである。
「春になったら、神燕軍も訪ねてやったらいい」
「はい、岳父上」
「陛下に願い出れば、指揮権を返して貰えるんじゃない?」
随風が励まそうと思って言った。指揮者の身分証である兵符は、段燕死亡に伴い、自動的に返上されていた。一旦皇帝の手に戻ってからは、誰にも託されず保管されている。段燕が生き返ってからも、そのままだ。
「新しい辺境軍の意向を聞いてみてからにするよ」
「うん、それも良かろう」
食後の茶を受け取り、段燕は姿勢を正した。
「拝堂をきちんとしたいんだけど」
随風は勢いよく燕の手を握った。
「燕燕!ははっ!燕燕」
言葉にならない嬉しさを全身で表す五男坊を見て、食卓は朗らかな笑い声に包まれた。
自室に戻って随風と燕は二人きりになった。戸の外には冬川と黄護衛が控えている。近ごろ流行りのずんぐりした行燈が、戸に貼られた白い紙にユーモラスな影を落としている。素焼きに楕円の窓が空いた、単純な作りのランプである。
「阿随」
「うん?」
「ありがとうね」
「何いってんの。気にすることなんてないよ」
「ふふ、阿随がいてくれて良かった」
燕は心の底からそう言った。随風は燕の肩を抱き寄せて、愛情溢れる眼差しを向ける。
「燕燕。僕はこの一生、君に寄り添う為にこの世にやって来たんだよ」
燕は噴き出した。
「何だよ?笑うことないじゃないか」
「あはは、ごめん」
張り詰めた気持ちがふわりと緩む。随風も笑い出す。ふたりの笑い声が、厳冬の宵に軽やかに響く。今夜もまた雪が降っていた。月はまるで見えないけれど、それでも分厚い雲の向こうに、確かに存在しているのであった。
これにて完結です
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