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第21話 企業執行官
地下研究区画の空気は、地上よりいつも少し冷たい。
国家先端技術研究機構の地下ラボは、巨大な金属の箱を何重にも重ねたような構造をしている。壁は白ではなく鈍い灰色で、床は磨かれてはいるが病院のような清潔さはない。機械油の匂いと、熱を持った基板の匂いと、長時間動き続ける空調の乾いた風が混じり合って、ここにしかない空気を作っていた。
スープラが地下駐車場に入ってきたとき、そのエンジン音はやけに生々しく響いた。
コンクリートの天井に反射し、柱の間を跳ね返り、わずかに遅れて戻ってくる。電子モーターの滑らかな駆動音ばかり聞き慣れた場所では、その低く荒い音はむしろ異物だった。
久世はハンドルを切り、壁際の区画に車を滑り込ませた。
ブレーキ。
車体が軽く前に沈む。
エンジンを落とすと、世界が一度しんと静まった。
ほんの短い静寂。
次の瞬間には、換気ファンの回転音と遠い機械音が、また耳の奥に戻ってくる。
助手席の黒瀬が先にドアを開けた。
大きな体が外に出ると、スープラがわずかに持ち上がる。黒瀬は片手でショットガンのスリングの位置を直し、もう片方の手で首の後ろを軽く掻いた。
後部座席では、凛がレールガンケースを縦に起こして持ち直している。蒼はすでにドアを開け、外に出ていた。足音がほとんどしない。着地の仕方まで無駄がない。
久世は最後に降りた。
ドアを閉める。
金属音。
コートの内ポケットに入れた通信モジュールが、まだわずかに熱を持っているのを左胸のあたりで感じる。
「急ぐわよ」
久世がそう言うと、凛がレールガンケースの持ち手を握り直しながら肩をすくめた。
「はいはい」
黒瀬が横目で見る。
「その返事、全然急いでないな」
「気持ちは急いでるの」
「そう見えねぇ」
凛が黒瀬を見上げる。
「でっかい人に言われたくないなあ」
黒瀬は鼻で笑っただけだった。
蒼はすでに認証扉の前に立っている。久世がカードキーをかざすと、赤いランプが一瞬灯り、遅れて緑に変わった。ロックが外れる鈍い音がして、扉が左右に開く。
その先の廊下には、白というより青みがかった光が満ちていた。
床は無機質な金属板。
天井を走る配線ダクト。
壁の中に埋め込まれたセンサー。
歩くたびに靴音が長く引く。
凛はその廊下を歩きながら、ほんの少しだけ肩をすくめた。
「やっぱここ苦手」
黒瀬が横を歩く。
「何がだ」
「全部」
凛は手首をくるりと回した。
「静かすぎるし、白すぎるし、機械しかないし」
「お前の店じゃねぇんだ。研究所だろ」
「だから苦手なの」
蒼が前を見たまま小さく言う。
「騒がしいのが好きなだけ」
「それ言う?」
凛が蒼を見る。
蒼は何も言わない。
表情も変わらない。
だがその沈黙が、からかっているのだと分かる程度には、緒方姉弟は長く一緒にいた。
研究室の自動扉が開いた瞬間、予想通り、いや予想以上の音量で神代の声が飛んできた。
「久世隊長じゃあないかネェェェ!!」
白衣の裾を翻しながら、神代がこちらへ歩いてくる。
早歩きというより小走りだ。
机の角に置かれていた工具箱に膝をぶつけ、それでも止まらず、そのまま勢いで作業台に片手をついて体を支える。
「来たネ!!」
「待っていたヨ!!」
「全員で来るとは思わなかったがネ!!」
久世は眉一つ動かさなかった。
「うるさい」
神代は胸を張る。
「褒め言葉として受け取ろう!!」
黒瀬がぼそりと言う。
「都合いいな」
神代はすぐに黒瀬を見た。
「君もだヨ、黒瀬!!」
「その肩!!」
「その雑な歩き方!!」
「元気そうでなによりだ!!」
黒瀬はショットガンを机の端に置いた。
金属の重い音。
「会うたび思うが、やっぱうるせぇな」
神代はそれを無視した。
というより、気にもしていない。
凛の方を見る。
「狙撃手!!」
「そして静かな弟!!」
凛が片手をひらひら振る。
「どーも」
蒼は軽く顎を引くだけだった。
神代は満足そうに一度大きく頷くと、急に真顔になった。
「で」
「問題の品は」
久世はコートの内ポケットから通信モジュールを取り出した。
親指と人差し指でつまむ。
小さい。
だが、その小ささが逆に不気味だった。
これ一つで、事故現場の義体と都市ネットワークと、見えない観測者が繋がっていた。
神代が手袋をはめる。
一つ一つの動きは速いが粗くない。
指先は器用だ。
さっきまでの騒がしさが嘘みたいに、作業に入ると目つきが変わる。
作業台の中央にモジュールが置かれる。
ライトが上から落ちる。
白い光が焼けた外装を照らす。
神代はルーペ型モニターを下ろし、片目で覗き込んだ。
「……やはり」
久世が腕を組む。
「何」
「後付けだネ」
神代はピンセットの先で外装の焦げた角を軽く押した。
パキ、と小さな音がして、黒い樹脂の破片が一つ外れる。
中から銀色の薄い基板が見えた。
「しかも企業仕様ではない」
黒瀬が神代の背中越しに覗き込む。
「東亜じゃねぇのか」
「フレームは東亜製」
神代が短く答える。
「だが通信規格が違う」
「継ぎ足してある」
凛が作業台の反対側から身を乗り出す。
「誰かが改造したってこと?」
「そういうことだネ」
神代は細いケーブルを一本つまんだ。
「そして、雑ではない」
「かなり手慣れている」
蒼が壁際に立ったまま言う。
「企業内部」
神代は首を横に振った。
「断定はまだだ」
「だが」
そこで言葉を切る。
神代の視線が基板の一点に止まった。
指先のピンセットが止まる。
久世はその沈黙の変化を見逃さなかった。
「何」
神代はすぐには答えない。
基板の端に焼き付けられている、ごく小さな記号をルーペ越しに確認する。さらに別角度からライトを当てる。基板の上に走る細い回路が、光の角度によって浮かび上がる。
神代が低く言った。
「見覚えがある」
黒瀬が眉をひそめる。
「どこで」
神代はピンセットを置いた。
手袋をした指先で作業台を一度だけ軽く叩く。
コン。
乾いた音。
「……昔だ」
研究室の空気が、ほんの少しだけ変わった。
凛の背筋が伸びる。
蒼は壁から背を離した。
久世だけは動かない。
ただ、神代を見ている。
「昔って、いつ」
久世の声は低かった。
神代は視線をモジュールから外さないまま言った。
「特務零班の頃だヨ」
黒瀬の顎がわずかに上がる。
凛の目から軽い笑いが消える。
蒼は何も言わない。だがその沈黙の硬さが、いつもの無口とは違った。
久世はゆっくり一歩近づいた。
作業台の端に左手を置く。
義手の指先が金属板に触れる。
「それ」
「どこで見たの」
神代は一度だけ息を吐いた。
「事故現場だヨ」
その一言のあと、研究室の空調音がやけに大きく聞こえた。
誰もすぐには喋らない。
機械のファンが回る音。
モニターの冷却ユニットの高い唸り。
ケルベロス三機の待機音。
それらが一度に耳へ入ってきて、逆に会話の途切れを際立たせていた。
久世は先に目を逸らさなかった。
「……確か?」
神代は頷くでもなく、首を横に振るでもなく、少しだけ眉間に皺を寄せた。
「完全には」
「だが似ている」
「少なくとも系統は同じだ」
黒瀬が低く言う。
「事故じゃねぇな」
凛が小さく呟く。
「最初から」
蒼が足元の床を見る。
「繋がってた」
久世の指先が、作業台の縁をほんのわずかに強く掴んだ。
義手の関節から、ごく小さな作動音がした。
神代がその音に気づいたように顔を上げる。
「久世」
「まだ断定は」
「してない」
「ええ」
久世は短く答えた。
だがその声には、いつもの冷たい平静とは別の硬さが混じっていた。
怒りとも違う。
苛立ちとも違う。
それはもっと深いところから浮き上がってくるものだった。
凛が空気を少し和らげるように、わざと明るい声を出す。
「でもさ」
「逆に言えば、ようやく線が見えてきたってことでしょ?」
黒瀬が凛を見る。
「軽く言うな」
「軽く言ってないよ」
凛は肩をすくめる。
「重くしすぎると息詰まるじゃん」
その言葉に、黒瀬は何も返さなかった。
返さなかったが、否定もしなかった。
神代はモジュールを保持台に固定した。
横のコンソールを操作する。
モニターに立体スキャン画像が出る。
外装が透過し、中の回路が青い線で浮かび上がる。細いラインが幾重にも走り、中央部に信号処理ユニットの塊がある。その奥に、焼けているのに妙に綺麗な一画があった。
神代がその一点を指差す。
「ここ」
「この回路だけ、別」
黒瀬が目を細める。
「何をしてる」
「観測」
神代は即答した。
「制御ではない」
「命令送信でもない」
「受信と記録だ」
凛が顎に指を当てる。
「戦闘ログを見てるってこと?」
「それだけじゃない」
神代の指がモニター上を滑る。
別のウィンドウを開く。
そこには、時刻と位置情報の記録が並んでいた。
事故現場。
湾岸高速。
そして——
久世たちの移動経路。
スープラの走行軌跡まで、粗いが出ている。
黒瀬が舌打ちした。
「うぜぇ」
凛の顔から完全に笑みが消える。
「本当に追ってるんだ」
蒼が短く言う。
「監視じゃない」
「学習」
神代は頷いた。
「そうだネ」
「これは見ているだけじゃない」
「学んでいる」
久世は無意識に煙草を探るようにポケットへ手を入れた。
箱を取り出す。
一本くわえる。
ライターを出す。
火をつける。
今度は炎は揺れなかった。
オレンジ色の小さな火が安定したまま、煙草の先を赤くする。
一口吸う。
ゆっくり吐く。
白い煙がライトの下で細くほどける。
「なら」
久世が言った。
「向こうは私たちの動きを見て学習してる」
神代が頷く。
「その可能性が高い」
「エニマ」
久世は義眼の奥へ声を投げる。
「いる」
「さっきの通信記録、全部洗って」
「了解」
「特徴抽出、優先順位最大」
「了解」
凛がすぐに動いた。
作業台の横のキーボードを引き寄せ、椅子に座る。足を組む余裕はない。背筋を伸ばし、義眼の解析モードを起動する。右目が通常の色のまま、左の義眼レンズだけが薄く赤みを帯びる。
黒瀬は作業台の脇に置いたショットガンを一度手に取って、すぐにまた置いた。何かしていないと落ち着かないのだろう。研究室の奥と手前を二歩三歩と歩き、ふとケルベロスの前で立ち止まる。センサーを指で軽く叩く。
「お前らも見られてるぞ」
エニマの声がケルベロス側のスピーカーから返った。
「知ってる」
黒瀬が鼻で笑う。
「生意気だな」
蒼は部屋の端にある壁面ディスプレイに近づいていた。表示されているログの位置情報を、ほとんど瞬きもせず見ている。
「隊長」
久世が顔を向ける。
「なに」
蒼は画面の一点を指差した。
「ここ」
久世が近づく。
凛も椅子を引いて立ち上がる。
ログの地図上には、湾岸高速から研究機構までの移動線が出ている。その中に、一本だけ不自然な跳ね方をした信号があった。
久世が目を細める。
「切り替わってる」
神代も横から覗く。
「……通信の中継点だ」
凛が言う。
「どこ?」
神代は指を伸ばし、地図を拡大した。
中央区の北側。
企業区画と研究区画の境目。
そこに出た施設コードは、一般公開されていないものだった。
黒瀬が低く言う。
「東亜か」
神代は即答しない。
別の画面を開く。
施設コード照合。
数秒。
表示された結果に、神代は口元をわずかに動かした。
「……東亜関連」
久世の煙草の先が、静かに赤く光る。
「関連?」
「東亜重工精密 外部保守施設」
凛が顔をしかめる。
「外部保守って、絶対それっぽくない名前だよね」
黒瀬が笑う。
「企業は隠す時ほどまともな名前つける」
蒼はもう次の動きに意識が向いていた。
「行く?」
久世は煙を吐く。
その煙が、ライトの下で細く裂ける。
研究室にいる全員の視線が久世に集まった。
神代は両手を白衣のポケットに入れたまま、黙っている。止める気はない。多分、止めても無駄だと分かっている。
凛は椅子の背に片手をかけたまま、少しだけ楽しそうな顔になっている。怖がっていないわけではない。だが、それ以上に仕事の匂いを嗅いでいる。
黒瀬はショットガンのストックに指をかけた。
蒼はすでに壁から背を離している。
久世は煙草を灰皿に押し付けた。
小さく煙が立つ。
「行くわよ」
黒瀬が口元を歪める。
「だと思った」
凛がケースのハンドルを掴む。
「準備五分」
蒼は短く。
「三分」
神代がため息混じりに笑った。
「本当にせっかちだネ、君たちは」
「後方支援は?」
久世が聞く。
神代は作業台の上のモジュールをケースに入れながら答える。
「私がやる」
「エニマも回す」
「ただし」
神代は一度だけ真面目な目をした。
「次は向こうも、もう少し強く触ってくるかもしれない」
久世はその視線を真正面から受け止める。
「なら」
「こっちも強く返す」
神代は、その答えにほんの少しだけ満足したように見えた。
研究室の奥でケルベロス三機が起動シークエンスへ入る。
青いセンサーが順番に点灯する。
サーボが低く鳴る。
金属の獣が、静かに息を吹き返す。
都市のどこか。
企業区画の高層ビル群のさらに奥。
窓の外に新東京市の光を見下ろしながら、東雲迅はモニターに並ぶログを眺めていた。
数字。
位置情報。
信号断片。
観測記録。
部屋の照明は落とされている。モニターの青白い光だけが、東雲の横顔を切り取っていた。
背後で部下が口を開く。
「外部保守施設に向かう可能性が高いと」
東雲は視線を動かさない。
「そうだろう」
「排除しますか」
東雲は数秒だけ黙る。
窓の向こうでは、無数の交通線が光の糸のように走っている。
「まだいい」
低い声。
感情はない。
「観測を優先する」
部下は一礼した。
東雲はモニター上の一つの名前を見る。
久世玲
その文字を見て、東雲はごくわずかに目を細めた。
「どこまで届くか」
誰に聞かせるでもない声が、暗い会議室の中に落ちる。
都市の深部。
ネットワークのさらに奥。
Λはまだ言葉を持たない。
だが、記録は増えていく。
観測対象。
移動予測。
行動傾向。
反応速度。
連携精度。
すべてが静かに蓄積されていく。
新東京市は何も知らない。
今も信号は切り替わり、車は走り、ドローンは飛び、夜勤明けの人々がコンビニの自動ドアをくぐっていく。
そのすべての上を。
そのすべての奥を。
見えない観測者が、静かに眼を開いたまま這っている。




