8 これで誰もいなくなった
目覚めたテレーザがまず感じたのは、柔らかく肌触りのいいシーツの感触だった。
「……ここは」
視線の先には見知らぬ天井とシャンデリア。
倒れた場所は確かに、夜空の下の、冷たい石畳だったのに。
「ディ・フェッロ侯爵家の王都邸宅でございます、テレーザ様」
控えめな、聞いたことのない、女の声。
少し横を向けば、寝台のそばにメイドが二人、気づかわしげな表情で立っていた。
――その背後に置かれた時計の針を見て、テレーザは既に二十三時も半ばを越しているのを知った。
内心でドッと汗をかく。この身体は二時間近く寝ていたというのか。
「ご気分はいかがですか。若様はただいま外出中ですが、すぐに戻ると仰せつかっております」
「まぁ、そう。あの、ところで、わたしのドレスと従者はどこ?」
身に纏っているものもまた、見覚えのない室内着である。そのことに気付いたテレーザは、微笑みを張り付けたまま早口で問いかけた。
メイドの一人がホッとした様子で「汚れを落として保管してありますわ」と部屋の外へ向かう。残されたもう一人のメイドは、テレーザを気の毒そうな目で見て、口を開いた。
「テレーザ様。お連れの騎士殿に関してですが、怪我をされていまして」
「ロベルトの怪我のことなら知っているわ」
寝台から足を下ろしながら、焦りが伝わらないようゆっくりと、しかしきっぱりと言う。
「すぐに我が家の医師に診せたいから、悪いけれど家に帰らせていただくわね。ディ・フェッロ卿へのお礼は、後ほど、父から」
本音をいえば、ロベルトはもう少しここで休ませていきたい。気を失う前に見た姿は、かなり疲弊して自力で歩けないようだった。
だが、エミリオの密命を考えればそういうわけにもいかない。現状、テレーザが旅に連れていける護衛は彼一人しかいないのだから。
ドレスを抱えたメイドが戻ってきたのを見て、テレーザはラベンダー色の室内着のリボンを緩めた。――あの朴念仁の屋敷に置かれているにしては、趣味のいい色だ。手触りもいい。
頭の隅でそんなことを考えていると、カメオのブローチやイヤリングをテーブルに広げていたメイドが、気遣うように話しかけてきた。
「それにしても、大変恐ろしい目に遭われましたね」
「ええ。夜は物騒だわ」
後ろめたいテレーザは言葉少なに同意する。
「若様も、お早くお帰りになって下さると良いのですが」
「そう?」
顔を合わせずにすんで良かったと思っていたので、とっさに同意し損ねた。幸い、メイドが気にする様子はない。
「テレーザ様のお連れの騎士殿もこんなことになって、お労しいことです」
「そうね」
「あれではしばらく、歩くこともままならないでしょうし」
「ええ、本当に。……」
テレーザは手を止めてメイドたちを振り返った。
「……『歩くことも、ままならない』?」
メイドたちはきょとんとして、また二人で顔を見合わせた。
――数分後。
「ロ、ロベルト、お前、足を痛めたって本当なの⁉」
侯爵家のきらびやかな応接間にて。
ソファに座る護衛騎士の肩を掴んだテレーザは、慌てる医師や看護師、メイドたちの制止も振り切り、鬼気迫る表情で問いただしていた。
「どうなの⁉」
「お嬢様……」
目を血走らせるテレーザの前で、ロベルト本人は苦渋の顔で奥歯を噛みしめる。
トラウザーズをまくり上げ、膝をむき出しにしたまま。
黒と紫がまだらになり、明らかに常とは異なる様子で木製の足置きに支えられている、膝を、テレーザの眼前にさらけ出したまま。
「申し訳ございません。……奴ら、あの細い棍棒の中に鉄芯のようなものをしこんでいたらしく……」
老騎士が噛みしめた歯の間から絞り出した言葉に、医師が慌てた顔で「ご心配には及びませんよ!」と口を挟んだ。
「幸い、骨は折れておりません。安静になさってくだされば、それほど時間をかけずに、ちゃんと治りますとも」
「どれくらい!?」
ザッと音がしそうな勢いで目を向けられた医師の丸顔が、いかにも自信ありげに上下揺れる。
「ご年齢を考えれば、ざっと一ヶ月か、二ヶ月ほど!」
そこで、テレーザはその夜三度目のめまいを覚えた。
ふらつく身体を、「テレーザ様!?」とメイドが支える。
「お嬢様、ご心配召されますな! このロベルト、二週間で治してご覧に入れますとも!」
力強く宣言する護衛騎士に、医師が呆れたように首を振っている光景が、かすんでいく。
(どちらにしろ、二週間だって待ってられないのよ……)
これで、護衛はゼロになった。
***
「……お加減は、などと、聞く方が野暮だな」
頭を抱えていたテレーザは、神経を丹念に逆なでしてくる低い声で弾かれたように振り返った。屋敷の“若様”に向かって、使用人たちが一斉に頭を下げる。
応接間の入口に立つフランツ・ディ・フェッロは、床に座り込むテレーザをいかにも迷惑そうに見下ろしていた。
「安心したよ。怪我人に詰め寄る金切り声が玄関まで響いてきたから」
「…………お見苦しいところを見せてしまったわね。いえ、わたしも心配で居ても立ってもいられなくて、つい」
外面の仮面を装着してバネのように立ち上がったテレーザの横を、フランツは大股で通り過ぎていく。
そのとき、テレーザはかすかに眉を寄せた。相手の不躾さにではなく、自分の鼻を特徴的な香りが掠っていったことにだ。
それは、通りで助けを求めたときと同じもの。
(……お酒を飲んでる)
それもかなり強い蒸留酒の。
歌劇場では、そんな様子なかったのに。
テレーザが部屋の奥に向かう背中を見つめていると、フランツは思いもかけないことを口にした。
「逃げた馬が見つかったよ。襲撃者たちも警備隊に追わせているから、じきに捕まるだろう」
フランツは驚くテレーザを一顧だにせず、暖炉の近くの椅子に腰かけた。額を押さえて深く息を吐いたと思うと、近づいてきた執事に「軽いものを何か」と命じる。
「……そうですか。それは、ありがとうございます」
テレーザは作り笑顔も忘れて礼を口にした。
まぎれもない本音だった。
立場はどうあれ、危ないところを助けてくれた上、馬まで探してきてくれたらしい。
頭の片隅では『どうやったら今夜のことをもみ消せるか』を考えながらも、相手の義理堅さに、このときのテレーザは素直に感嘆していた。
背もたれの向こうの男から、苛立ちに満ちた冷ややかな声が寄越されるまでは。
「これに懲りたら、少しは自身と、父親の振る舞いを見直すことをおすすめするよ。……手始めに、その着こなしを直したらどうかな」
「っ!」
テレーザはぎょっとして、襟ぐりのリボンがほどけた室内着をぎゅっと掴んだ。しまった、着替え途中で飛び出してきたままだった。
屈辱に震える主人のため、ロベルトが抗議しようとしたところを「ではフランツ殿、これにてわたくしどもは」と、医者がのんきな声で遮った。
「ああ、ロッシ先生、お疲れ様です。こんな夜中にお呼び出ししてすみませんでした」
フランツが立ち上がりもせず疲れ切った声で謝ると、丸顔の医師は人のよさそうな笑顔を背もたれしか見せない雇い主に向けた。
「いえいえ。妊婦が倒れたとの一報には焦りましたが、護衛の方ともども大事なくて良かったですよ」
――その瞬間、部屋の空気が凍りついた。
「……先生、それはさっき聞いたので、もう」
「ええ、そうでしたな。――大丈夫ですともご令嬢。彼女は産婆としての経験も積んでましてね、御身にお子様がいらっしゃる可能性は限りなく低いとのこと。倒れたのは、極度の緊張と疲労によるものでしょう!」
医師は途中からテレーザの方を向き、傍らの看護師を示して励ますように語った。冷たく凍りついた部屋の中で、医師の場違いな笑顔だけが不自然に場を照らす。
突然話をふられたテレーザも、まん丸の目を二、三度瞬かせて医師の顔を凝視していた。――が、やがて、その顔にゆっくりと笑みの形を取り戻していく。
「……ええ、それは良かったです、本当に」
テレーザの言葉をかき消すように肘掛け椅子がガタリと音を立てる。
「先生! 馬車の用意ができているので!」
立ち上がったフランツに急かされた医師は帽子を上げて挨拶をし、看護師と共に応接間を後にする。
沈黙が残された応接間を、空咳が横切った。
「………………馬車は引いて来てあるし、馬も連れてきた。そこの騎士に手助けが必要なら、執事に必要な男手の人数を伝えるといい。コッラーロ伯爵令嬢、今回のことについて礼はいらないから、どうぞ迅速にお引き取り願う。それが我々、双方にとって何より望ましい後始末だろう?」
重く低い声のフランツはそれだけ言って、速足で応接間から出ていこうとする。扉口でトレーを手にした執事とかち合うと、運ばれてきた琥珀色の液体が揺れるグラスを取り「やっぱりボトルごと執務室に持ってきてくれ……」と呟いては、廊下の先に消えていった。
「な、なんという無礼な……!」
怒りに震えるロベルトを、テレーザは手で制した。
怪訝そうな老騎士に対し、テレーザは微笑みを一瞬だけ向け、それからメイドたちを振り返って、儚くも悲壮な顔つきをしてみせた。
✽✽✽
コンコンコン、とノックの音がした。
机上のランプの明かり一つきりの執務室。
端々が闇に沈む部屋の中のどこよりも暗い顔で、壁際に作られた書棚の背表紙を見つめていたフランツは「後にしてくれ」と短く返して、またグラスを口につけた。
置き時計の短針は、じきに天辺を越える。
歌劇場帰りの人々に紛れて、客人も帰っただろうか。王都の警備隊が警らを強化しているから、今夜はもう襲われることはないだろう。
――彼女は、何故あんなところにいたのだろう。歌劇場から伯爵邸へ向かうのに、あの道は通らないのに。
(……僕の知ったことじゃない)
フランツは油断すると頭をもたげてくる思考を酒の苦みで散らそうとした。今日のことなんて今更考えても意味がない。わかっているのに、頭から離れない。
自分も、なんであんなことをしてしまったのだろう。顔見知りのいる警備隊に預けて、あとはさっさと立ち去ればよかったのに。
でもそんなこと、あのときは思いもつかなかったのだ。
歌劇場で遠目に見たとき、王子と抱き合っていたから。
直接話したときも、体調が悪そうだったから。
突然縋りつかれて、助けを請われて、カッとなって。
戻ってきた途端に目の前で倒れたから、今度は頭が真っ白になって――。
(……酒のせいだ。この時期はずっと気をつけていたのに、今夜は耐えられなかったから)
自己嫌悪に溺れる男の耳が、ドアの開く小さな音を拾う。後にしろと言ったのに。八つ当たりが盃を進める。先ほど開栓したボトルは、もう半分ほどかさを減らしていた。
「若様、酒肴をお持ちしました」
「いらない」
「まあ。お酒だけ飲むのは身体に良くないんじゃない?」
「放っておいてくれ。……」
真っ青な顔で振り返ったフランツは、執務机の向こうに佇む黒髪の女を見て、内臓がギュッと絞られるのを感じた。
「あなたがお酒好きだなんて知らなかった。それ、産地はどちら? わたしもご相伴にあずかってもいいかしら」
「帰りたまえ」
「くれないの? ここには妊婦なんていないのに」
部屋の主が息を止めたことを気に留めるそぶりもなく、女は執務机に手を伸ばす。手に取った酒瓶をしげしげと眺めてから、にこ、と笑った。
「襲われたうえ、護衛が怪我をしてしまって、帰り道が不安なの。今夜はもう少し、ここにいてもよろしいでしょう?」
言いながら机の手前側にゆっくり回り込んできたテレーザは、フランツのグラスにボトルを向け、とぷとぷとぷと琥珀色の液体を注ぎ込んだ。
王都邸宅は造語です。それをパラッツォと呼ぶのもここだけです。
領地の屋敷・城とは別にある王都のお屋敷みたいなものとして使ってます。




