エピローグ others
「……動いても大丈夫なのですか?」
戦馬などの動物を入れておく厩舎の中、いつもの女性の事務官が、やや心配そうに問いかけた。
「大丈夫らしいよ。ユランがクッションになってくれたみたいで」
傭兵王、ヴァレンシュタインは腕を包帯まみれにしながらも、疲れ気味の笑顔で答えた。
革命から一夜開け、パリの町には平穏が戻りつつある。
傭兵団は、パリの南側に張った陣を動くことはなく、皆がそこで休養を取っていた。
「まだ体は痛むけど、ウィルほどじゃないしね」
副団長として先陣を切り、猛将である敵のグラストと戦ったウィルガンドは、その戦いの後も追撃戦に参加した。今は全身筋肉痛で寝込んでいる。
「狼化したらいつもああ(全身筋肉痛に)なるんだから、出来るだけやめとけって言ってるんだけど」
「良いじゃないですか。勝てたんですから」
二人が話していたのは、少し変わった厩舎の中。動物たちが居るのは普通だか、何が変わっているのかというと、
「――ユランもゆっくり休めよ」
「グウゥ」
ドラゴンの厩舎だった。
ヴァレンシュタインが撫でていた黒竜ユランの他にも、赤や青といった色のドラゴンが、その巨体をテントのしたに納めていた。
「俺よりお前の方が怪我してたし、何より庇ってくれたからなー」
ありがとな、とヴァレンシュタインが顔を労うように撫でると、ユランは嬉しそうな呻きをあげる。
「――一応聞いておくけど、被害はどれくらい出た?」
傭兵王の突然の振りに、いつものように女性事務官は手元の資料を捲る。
「骨折などのすぐに戦線復帰できない重傷が三十三。脱臼や打撲の一時休養が必要な凖重傷が八十二。寝たら治るような軽傷は……市街戦に参加した者は全員ですね」
頑張ってくれたなら結構だ。だが、一番知りたい情報をまだ聞いていない。
「それで終わり?」
「ああ、損耗した魔力石や武器の数ですか。いつも通りぐらいの使用量で、部隊経営に支障は出ませんよ」
澄ました顔で事務官は報告する。
「……焦らすね、今日は」
「ええ、なんのことでしょう」
苦笑いで言ったヴァレンシュタインに、半目の事務官は、しかし笑みを浮かべて答える。
傭兵王は、もう待てない、と口を開く。
「死人は……」
「ゼロでしたよ、もちろん」
ふう、とヴァレンシュタインが安堵の溜め息をついた。
不死不殺の傭兵団。そこから死人が出なくて助かった。戦闘のあとはいつもヒヤヒヤさせられる。
だが、
――相手を、かなり殺しちゃったな。
パリの守備隊はほぼ全滅した。傭兵団も、その多くを殺してしまった。
――だけど、彼らは俺らに「殺され」にきた。
自分達よりも、遥かに強い力を持ちながら、その身を犠牲にして団員達にその技を伝えてくれた。
――いつか、俺もそれぐらい気概と余裕のある大人になれたらな。
はあ、と今度は諦めの溜め息をついた。
「他には何か連絡あった?」
「ハルクフ商工会長から、今回の雇用代金について話し合いたい、と伝言がきています」
うーん、と少し傭兵王が悩んだ後、
「明日の午前中に行くって伝えて。向こうもまだ忙しいだろうし」
わかりました、と返事をした事務官が、手元の書類に何かしらを書き込む。
「あとは……」
「あとは?」
言い淀んだ事務官に、傭兵王が問い掛けた。
「ジャンヌ・ダルクと名乗った者からの伝言で、「近々邪魔するぜ」とのことですが……」
あぁ……、と遠い目でヴァレンシュタインが呟いた。
「うん、放っといて。見なかったことにしとこう」
はあ、とまた溜め息をついて、傭兵王は項垂れた。
「……モテモテですね」
「こんなモテ方嫌だよ」
肩を落としたヴァレンシュタインは、ユランの体を現実逃避に撫でる。
「――団長! リシュリューさんが呼んでます!」
そのヴァレンシュタインを、伝令が呼びに来た。
「了解、すぐ行く」
痛む足を引き摺りながら、傭兵王は厩舎から出ていく。
残されたのは、女性事務官と黒竜ユラン。
「……あの人は、」
――いつもがんばり過ぎです。
事務官の呟いた独り言に、返す声があった。
「主殿も大変だからの。出来る男はつらいものよな」
カカ、と笑う声に、事務官が振り向いた。
「ぬしも、素直になればもっと頼って貰えるかもしれんぞ」
「あなたは黙っていてください」
先程まで黒竜がいたところ、厩舎の中で、一糸纏わぬ姿の女性が地べたに座り込んでいた。
んー、とその女性は延びをした。よく締まりながらも起伏の激しい体が、綺麗に揺れる。
「……ドラゴンとはいえ、もう少しおしとやかに生きてみてはどうですか?」
「ぬぅ? 竜も野獣の一種だからの。欲望には正直ぞ?」
――『高位のドラゴンには、人間に変化するものもいる』
全裸の女性、それは人型のユラン。
腰まである長い髪の色は、吸い込まれるような黒。その髪が、彼女の背中に生えた小さい翼の付け根を隠す。
口からは、短い牙が見え、頬には黒い模様が描かれている。
横顔には、髪を押し分けて生える細く長い尖り耳があり、人間ではないことを示す。
「他の人の前ではその姿を見せないでくださいよ」
事務官は、持っていた袋からリンゴを取り出す。
「心得ておる。我も、騒がれるのはあまり好きではないからの」
ユランは、そのリンゴを取り、かじりつく。
「食べてて美味しいんですか?」
「当たり前じゃ。竜は、格好と魔力量以外は人間そのものじゃぞ。そんなことも知らんのか」
バカにするように薄く笑ったユランは、芯ごとリンゴを食べきった。
「で、ぬしの最近の調子はどうじゃ?」
「どう、と言うと?」
何か楽しげな話でもするように聞いたユランに返ってきたのは、興味なさげな聞き返し。
「とぼけるでない。なんのために我は人の姿になっていると思っているのじゃ!」
ユランが、事務官と人型で接するようになったのは、五年ほど前。夜中に厩舎から物音が聞こえ、偶々一人で歩いていた事務官が入ってみると、居たのが真裸のユランだった。
――第一声は「リンゴが食べたい」だったか。なぜ「服が欲しい」ではなかったのだろう。
その後、ユランは事務官の前でだけ人間に変化するようになり、その度にいろいろと詮索されるようになってきた。
「……一体何のことでしょうか」
「焦らすな焦らすな。早く教えるのじゃ――」
にやけ面のままユランが体をくねくねと振る。一往復ごとに胸と尻が揺れた。
「――主殿とどこまでヤッたのじゃ?」
はあ、と事務官の溜め息。
「何も。何もしていませんよ」
「何も!? 何もしていないのか!?」
次に出た溜め息は、ユランのものだった。
「主殿の鈍感ぶりも大したものじゃが、ぬしの奥手にも困ったものじゃの」
――奥手も何も、私は別にそういう気持ちは……。
心で言い訳して、顔を紅に染めている自分が居た。
言ったユランは、事務官の体を凝視する。
「まあ、しょうがないかもしれんのぉ……」
万が一にと着込んでいる革の服は戦闘用で、軽さと防御を優先した男性用だ。
「そんな貧相な体ではなあ……」
「なっ……!!」
勝ち誇った笑みと共にユランは自分の胸を持ち上げる。揺れた。
「それに、何も主殿を狙うのはぬしだけ――人だけとは限らんぞ?」
それはどういう意味だと顔を歪ませた。
「――元より、この身は主殿に捧げたもの。我も主殿と共に居たいと思っているのだぞ? 例のジャンヌとか言うのも、その気がありそうだしの」
ニィ、と意地悪い笑みをユランが作る。
「そ・れ・に! 恩を受け、長年ともに戦った相棒が、己と恋に落ちるとは、なんとも喜劇的ではないか?」
夜這いで既成事実というのも悪いものではないの、とユランが頬を赤くした。
――そんなことは……!
「やらせません!」
何故そんなことを口走った、と言ってから後悔するが、感情のままに続けた。
「あなたにあの人を取られるぐらいなら、私が取ります!」
ほお、とユランは唇に弧を作る。
しまった、と思った後悔は取り返せなかった。
「なら、勝負じゃの」
「ええ、勝負です」
気持ちにまかせて言う。
「「どちらがあの人をものにするか……!!」」
意識が飛ぶほど酔わされたヴァレンシュタインが、朝起きたら裸の貧乳と巨乳に、自分も裸でサンドイッチにされていたり、女二人男一人に取り合いにされたりするのは、また別の話――?
大量の書類の山があった。ところどころでその山が崩れ、海すら形成している。
フランス王宮の行政府。補修作業中であるその建物の二階北側、臨時執務室で、三人の大臣が書類と戦っていた。
「フィリップ! あとどれくらいだ!?」
「五千七百二十一枚……!」
「一人あたり千九百七……」
暗算で答えを導き出したペセタが、計算を終えると同時に絶望して鼻血を噴き出した。
「ペセタ! ――倒れている暇があるんだったら手を動かせ!」
「おい、大丈夫か!?――書類は」
海軍大臣シャルルと、法務大臣フィリップが「仕事」の心配をした。
「大丈夫に決まってるじゃないですか……! 書類は!」
鼻血を両手と顔面で受け止めたペセタが、虚ろな笑みを浮かべる。
革命終結から三日。徐々にフランスは、その政治機能を取り戻しつつあった。
革命前より復国同盟が行っていた各勢力への根回しや、旧政府側の『潔い玉砕』で、スムーズに政府交代が終わったとはいえ、各地の混乱は少なからず起こっていた。
混乱に乗じた盗賊が町を襲うこともあり、治安方面の動きは手を抜けない。
また、イングランドやスペインからは『旧フランス王族の処遇如何によっては宣戦布告も辞さない』と言った内容の警告文書が届き、アイルランドでは軍の動きが見られた。革命時に援軍を借りたバチカンとは、相互防衛条約を結んでおり、そのために神聖ローマとの関係も悪化した。
元々友好国であったイングランド、スペイン、バチカンには、事情を話す友好大使と、通商条約・防衛協定を確認・締結する使節の派遣を決定し、沿岸部と東側国境には防衛部隊の出動が急がれた。
その他諸々の手間が、この部屋の山と海を生み出していた。
「手伝いにきましたよー!」
ガッ、と扉が開いた拍子に山が崩れて海になった。
「これは……酷い有り様ですな……」
入ってきたのは、リシュリュー夫妻と学院長ルドルフ。どちらも事務職のプロだ。
一人九百五十三枚!、と叫んだペセタがまた鼻血を飛ばした。
「総戦死者は三千二百ですか……」
一段落に休憩していたペセタが呟いた。
「軽微、の範疇か。旧政府側に比べれば圧倒的だろうな」
同じように休んでいたリシュリューが呟き返す。
「有力者の安否はどうだ?」
聞いたシャルルに、ペセタが紙を一枚取り出す。
「治安大臣はモンタギュー騎士団との戦いで戦死。グラスト軍教官は傭兵団副団長と戦って戦死。軍需大臣は、北部での戦闘で戦死。宗教大臣は、服だけが城内で見つかっており、自殺か逃亡でしょうね。クィルドリフ氏は、行方不明です」
ペセタは、また別の紙を束の中から取り出し、目を通す。
「革命の首謀者であるクライス・イルスタントですが……」
一呼吸置いたあと、
「戦死です」
沈黙。
気まずいような空気が部屋に満ちる。
「――あ、差し入れあるんだよね」
それを破ったのは、良くも悪くも空気を読まないリシュリュー夫人。
「茶菓子だけど、クリス君から」
一同はその言葉に表情を明るくする。
「クリス殿からですか。女王の執事の茶菓子とは楽しみですな!」
「クリスさんも気が利きますね!」
わざとらしいほどに「クリス」を強調して皆が会話する。
「クライス・イルスタントは、死体は見つかってませんが、殺したという兵士がいるので恐らく死んだんでしょうね!」
「クライス・イルスタント」は、在位して日が浅かったために他国の人間に顔を知られていない。また、すぐに復国同盟との戦いになったため、国内で彼の顔を知るものも少ない。その数少ない者達も、ほとんどが革命において死亡した。
女王の執事である「クリス」の方も、『一般人』であるため、世間に個人情報は全く知られていない。
すなわち、復国同盟が決めたことは、「クライス・イルスタントはクリスではない」ということだ。
例え、顔を知る者が真偽を聞いてきても、「他人の空似」で誤魔化すことができ、クライス――否、クリスに危害が及ぶことはない。
「言いましたからね――若い奴等は死なせない、と」
『夢と未来は若い奴等にまかせるとして、ジジイババアの我々は汚い今を掃除しませんとな』
すべてをハッピーエンドに終わらせるための、「大人」達が考えた最終手段。
元々、復国同盟の面々は、ルクレツィアもクライスも、死なせるつもりはなかった。この「クライス死亡論」も、革命の計画が持ち上がった初期に決まったことだ。もちろん、女王の主従は抜きで。
だが、それをどちらかにでも言えば、「いいえ結構です。自分が死にますから」と二人共に一蹴されていただろう。
それは、明確で誠実な信念によって断られる。だが、この政治の世界において、信念よりも守らなければならないものがある。
「命と可能性を放棄していては、政治をしていけはせんよ」
命があれば可能性が生まれ、可能性があれば、何度でも再起することができる。
信念を貫き通すのは誉れ高いことだ。しかし、それで希望を諦めてはいけない。貪欲なまでに生を渇望し、前へ進まなければならない。
「君らは未熟だ。だが、」
未熟者は、未熟なりに未熟の道を走らなければならない。
壁に当たろうとも、穴に落ちようと、進んでいけ。
「どこに行けばいいかわからなければ、我々が背を押してやる」
それが「大人」の「子供」への義務。
「忘れるなよ、未熟者」
誰かがニッと笑った。
「『今』を担うのはお前たちだ」
革命終結から一週間が経った。
「いっつー……」
「無理しすぎるからだよ。あ、こっちに判子頂戴」
モンタギュー騎士団が作った陣営の、団長用テントの中で、副団長が団長に印を求めていた。
「アロルドいるか?」
テントに入ってきたのは、やや疲れた表情をしたモンタギューだった。
「あ、おかえり。クラリス。今まで何してたの?」
「へばってるアロルドの代わりに事後処理やら謝礼受理やらをやっていたんだよ」
副団長エンリコの問いに、モンタギューは溜息と共に答える。
「……まあ、お前も、良く頑張ったんだろうけどな」
伏し目がちに見たアロルドは、ベッドに寝かされ、ギブスと包帯で固められた左足は専用の台に置かれている。
「……どうしたんだ? 戦闘のすぐ後は別になんともなかっただろう?」
「いや、あんときは、アドレナリン出まくりで、全然痛くなかったんだが、一晩寝たら一気に痛くなってな。医者に見せたら骨が折れてた」
馬から飛び下りたのがダメだったな、とアロルドは首を振る。
「カルシウム飲まねぇと」
解決策はそこに行くのか、と他二人が首をかしげた。
「で、そっちはどうだった?」
聞かれたモンタギューが、何枚かの羊皮紙を取り出す。
「ああ、戦死した団員の遺体の引き取りと引き継ぎは終了。フランスからの感謝状と、いくらか謝礼金も出たぞ」
訓練内容が強化できるな、と内心喜んだ。
「あとは、女王から個人的な言伝で、」
別の質素な紙を取り出し、
「『ありがとう』とだけ、聞かされたな」
自然と、三人の顔が緩んだ。
「良い響きだな」
「うん、聞いていて心地が良いね」
素っ気ない感謝の言葉が、逆に、綺麗にそれぞれの心に落ちていった。
「クライス――いや、今はクリスか。それと大会議場で対面したときは凄かったんだろ?」
話は、革命の最終局面へと移った。
「ああ、凄かったな――いきなり目の前で痴話喧嘩し始めるんだから」
その上、濃厚なキスシーンと惚気たやり取りまで見せつけられたのだ。見ている方が恥ずかしくなったほどだ。
「殴り合ったと思ったら、ベタ甘の会話始めるんだぞ。しかも最後は結婚式紛いの約束事までやって……」
最近の若い奴は訳がわからん、と言うと、一回り下なだけだよ、とエンリコにツッコまれる。
「で、お前は楽しかったのか」
もう答えは解っているという表情で、アロルドが笑った。
「――すごく、楽しかった」
照れ臭そうに笑いを返す。
「目の前で、国が終わって、また始まったんだぞ? 楽しくないわけがない!」
しかも、その光景を客観的に見たのは、己だけ。
「俺は今、世界で一人しか経験したことのない歴史を、鮮明に、確実に思い出すことができるんだぞ!? 最高級に幸せじゃないか!」
興奮してきたモンタギューを、エンリコがまあまあと落ち着かせる。
「――それなら、こんなとこまで来て骨折した甲斐があるってもんだ」
感謝しろよ、と言ったアロルドへと、
「感謝しないわけがないだろう!?」
モンタギューが言った言葉にエンリコが吹き出す。
「君らのやり取りは、見ててホント飽きないよ」
ハハハ、と腹を抱えたエンリコに、二人は訳がわからないと首を捻った。
「本当、――」
ようやくエンリコの笑いが収まり、
「僕ら三人は、実に良い仲間だよ」
三人が、ともに満足そうな笑みを浮かべた。
モンタギュー騎士団の本拠地、商業都市ヴェローナを数千頭の様々な竜が襲う『竜祭事件』が起こり、この三人の内の一人が消えるのは、この一年余り後のことである。
革命が終わった翌日のことである。
「ただいま」
魔女の娘、ヴェルは、自分の家の玄関扉を開けた。
「あ、おかえり~」
奥の台所から、母の声が聞こえた。一緒に漂ってきたのはトマトの甘い臭い。夕御飯はミートソーススパゲティだろうか。
「学校どうだった~?」
「いつも通り」
いつも通り、勉強して、放課になって、――恋人に帰り道で押し倒されて、相手女なのにいろいろとはっちゃけた。うん、いつも通りだ。涙が出るが。
「そ、なら良かった。スッキリしてそうだし」
――ああ、バレてるな、これは。
二十四歳で、今十二歳の自分の親をしている母だ。それぐらい気付かない訳がない。
そもそも、魔女は常人より成長スピードが早いとは言え、中等部に入ると共に子持ちになるなんてどういう体と心をしているんだろうか。自分に子供ができるなんて考えたこともない。
靴を脱ぎ、台所を通って寝室に向かう。横目で見た料理のメニューはチキンライス。ちょっと手を抜いたな。
寝室に入り、その自分のスペースに荷物を置き、夕御飯に向かおうとして、
「……?」
母のベッドに、男が寝ているのに気が付いた。
母が男を連れ込むことは滅多にないが、まだ二十四歳で娘に手一杯というのが有り得ないのも解っている。もう片親がどんな人で、どうなっているのかは知らないが、母が恋をしても戸惑わないくらいの覚悟はしている。
――私が見たことすらない男と付き合っていたりはしないだろうし。
右頬に、何かが掻き消えたような痣があるその男性は、体の至るところに傷が見え、どこかの戦場帰りのように見えた。
――母さん、最近夜中に正装で抜け出したり、私が昼にいない間に出掛けたりしていたみたいだったし、フランスで革命騒ぎが起こっているみたいだし……
母が、その革命にどう関わっているかは聞いていないが、目の前で眠る男はその関係者だろう。
――たまたま近くにいた傷病兵を匿ったか、民間人を保護したか。
目を醒まして襲ってきても、並みの人間に負ける気はない。
――まあ、大丈夫でしょう。
心配ない、と結論付けて台所に戻る。
ちょうど夕御飯がテーブルに並べられているところだった。品目はオムライス。どうやら一手間増やしたらしい。
食器類を並べるのを手伝ってからイスに座る。
「――お母さん、寝室にいた人は?」
いただきますと小さく言ってスプーンを持った。
「ああ、あの男の人? えっとねぇ、いろいろあって連れてきたんだけど――」
こちらを見た母の顔には、所々に治療用の湿布や魔法の札が貼ってあった。
民間人の線が濃厚かな、とオムライスを口に入れて、
「――ヴェルの新しいお父さん」
盛大に噴き出した。
クィルドリフは、深い意識の底にいた。
心の海に浮いているような感覚。沈んでは浮き上がり、浮き上がっては沈んでいく。
どこか遠いところから、母子の会話が聞こえる。
「お父さんって……!? どういうこと!? なんでアレと……!?」
「んー? 人生の歩み方に対する興味の探求みたいな?」
「ワケわかんない! 第一、どれくらいそういう関係でいたの!? いつ知り合ったの!?」
「……昨日?」
「ハァ――――!!??」
聞いていて訳がわからないから、きっと幻聴か夢なのだろう。
流れていく意識の中で、ポッカリと空いた穴を見つける。
大きな、大きな穴。
それは、恐らく自分が最も尊び、大切にしてきたもの。
しかし、欠落した。奪われた。なくなった。
生きる意味の喪失を表す穴は、心の水を吸い込み、奈落に押しやっていく。このままでは、やがて穴にすべての「心」が呑まれてしまう。
だが、不意に、その「心」の流出が止まった。
――そんなものは、もうどうでも良いのかもしれない。
生きる意味なんてものは、すぐに変えれば良い。いちいち立ち止まっていれば、生きてなどいけない。
――何かが変わった。
穴は、徐々にその大きさを縮め、消えていく。
――何のために生きようか。
わからない。だから、
――いろんなものに、接してみよう。
他人は、何のために生きているのだろうか。何をして生きているのだろうか。
知りたい。自分が持たなかった答えを、他人は如何にして手に入れたのか。
虚空に、手を伸ばす。
その回答を見つけるために、
「生きよう」
目が覚めた。




