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snow white  作者: 小山 優
後章
32/37

第三十章 クリス

 大会議場、そこに一人の男が立っていた。

「空が綺麗……」

 クライス・イルスタントは、なくなった天井から雲一つない夜空を見上げる。東の空は白み始め、夜明けはもうすぐだ。

「ハイルディも、やんちゃしすぎだよ」

 ふ、と小さく笑って、玉座に座る。

 それは、少し前まで自分の使えるべき人が座っていた場所。

――そうだよ。これは、君の場所だ。

「……昔はさ、まだ僕らがこの国に来たばかりの時は、ここに座った君の足が、まだちゃんと床につかなくて、「舐められたくない」って言って、無理して踵の高い靴履いてたよね」

 懐かしむように、玉座の持ち手を撫でる。

「足痛めて、それも言わなくて、それで僕がどれだけ心配したと思ってる?」

 こっそりと湿布を机に忍ばせたのも、ちょっとした苦労だ。

「強がって、無理して、心配掛けて、相談しないで」

 ゆっくりと立ち上がった。

 玉座へ向き直り、その全体を目に入れる。

「自分の心に蓋をして、なんとか「女王」らしくしようとして――」

 そんな彼女に、

「なんで僕は惹かれてしまったんだろう」

 だって、

「君を想わなければ、なにも考えずに殺されることができるのに」

 彼女がどこかで笑っていれば良いと、自分を憎んで幸せに生きて欲しいと思ったはずなのに、

「会いたいよ……!」

 床に水滴が落ちる音がして、自分が泣いているのに気づいた。

「会いたいよ、ルーシー!!」

 会いたい。自分が守りたい、守ると決めたお姫様に、もう一度だけ、一瞬だけで良いから会いたい。

 自分はなんと弱いのだろうか。信念をもって決めた役割を、死の間際になって恐れ、我が儘を言う。

――こんなのじゃダメなのに!

 だって、僕が守らなければ、ルーシーを守らなければ。

――そう約束したんだから!

 彼女は、こんな僕よりももっとか弱くて、脆くて、柔らかで、優しくて、綺麗で、美しくて――だから、

「僕が守らないといけないんだ……!」

 我が女王のために――僕のお姫様のために。

 さあ、僕は彼女を守りに死にに行こう。

 背後で、大会議場の扉が蹴破られる音が鳴った。

――ああ、死神の足音はすぐそこに。

 さあ早く殺してくれ。殺して、僕の心臓と共に彼女の未来を斬り開いてくれ。

 振り向く。

 そこには、軽い鎧を着た二人の人影があった。その一つ、扉の外側にいるのは、兵士と言うより随員というような顔立ちの男で、扉の内側、自分に近いところにいるもう一人は、

「……ルー、シー……?」

お姫様だった。



 理解が出来なかった。

 どうして目の前のルーシーが鎧を着込んでいるのか。

 体のあちこちに布や鎧が擦り切れた跡があり、その下にも少なくない血が見える。

 魔法の使い過ぎか。右手がダラリと力なく垂れ、それを押さえる左手も怪我だらけだ。

――ああもうそんな、

 言いたいことが山ほど浮かんだ。

――血が出る怪我は早く治さないと痕が残るから、すぐに治療の魔法を掛けてって言ってるじゃないか。

 王族魔法は消耗が激しいから、一日に三回まで。血が服に付いたら、落ちにくくなるから早く洗う。鎧は、兜を着けないならキャップを被る。全部着けたら遅くなって危険だから腰の部分は革製品にする。扉を開ける時はノックした後、静かに入る。

 そして何より、

「どうしてここに……?」

 だって彼女は王族で、こちらを憎むように仕組んで、フランスは今最も危険な国なのに。

 カツカツと無言のまま、ルーシーは鎧のブーツを鳴らして近づいてくる。その間に胸当てや腰の鎧を彼女は脱ぎ捨て、周囲に放り投げる。

――脱いだものはちゃんと片付けてっていつも言っているのに!

 鎧の下の、木綿で出来た簡素なドレスが、汗で皮膚に張り付き、体のラインをくっきりと見せる。

 小手とブーツ以外はいつもの部屋着のような姿になった彼女は、自分から数メートルほど離れたところで歩く速度をあげた。

「な、にを……?」

 それは、歩きから走りに変わり、最後は全力疾走になって、その途中で彼女は右手を大きく引いて、

「『吹っ飛べこのバカ野郎――――!!』」

こちらの顔面をアッパーで殴り上げた。

――!!??

 激痛の後に浮遊感。

 魔法で強化された拳圧が自分の体を持ち上げ、空中で仰向けにし、夜空を見させた。

 綺麗だな、と思った次の瞬間、体が玉座を破壊して床に落ちた。

 木の椅子がバラバラに飛び散り、先程での感慨がまぬけに思える。

 げ、ぐ、ヴェ、と潰れた蛙のような声を出して床を転がる。

――痛い……。

 目の回る頭を無理矢理動かし、正面を見上げる。

 ルーシーが、やはり無言でこちらに近づいてくる。残っていた鎧も全て脱ぎ捨て、肌着だけだ。

――風邪を引くかもしれないじゃないか!

 自分の思考が支離滅裂だ。

 彼女は、動けないこちらを無理に立たせ、こっちの頭の後ろに手を回して鷲掴みにしてきた。

――次は一体何の攻撃を……?

 理解が追い付かない頭が、彼女の顔に強引に引き付けられ、

「――――!?」

唇を奪われた。

 触れ合うだけならまだしも、舌が歯をねじ開け、口の中に押し込まれてきた。

 ファーストキスが、と思い掛けて、違うと思い出す。

――昔に、まだ初等部に入ったすぐ後に、一度だけしたことあったね。今思えば遊びみたいで、だけど当時では本気で。

 もっと変なこともしていたような気もするが、よく憶えていない。

 考えていることが無茶苦茶になっているのはわかっている。状況に理解が追い付いていない。

 裏切って殺されようとしたら殴ってキスされた――整理した方が訳がわからなくなる。

 もっとちゃんと考えようとして、キスの甘い快感に思考が塗りつぶされた。

 執拗に口内が掻き回され、甘ったるい感覚が口と脳を埋め尽くす。

 応じてしまった自分の舌が、相手のものに絡め取られ、こねくりまわされ、融け合った。

 念入りに、歯の裏や舌の奥、口の上部が舐め上げられ、言い様のない快楽がすべてを押し退けた。

 ピチャピチャと、唇から漏れた唾液が淫らな音をたてて床に垂れる。

 ぷはっ、とルーシーがやっと口を離した。二人の間で唾が糸を引き、弱い月光に煌めく。

 双方が顔を上気させ、熱い息を吐いた。

 何を言って良いのかわからず、無言のまま立ち尽くす。奥に唖然としている文系顔が見えた。

「なんで……」

 先に聞こうとして呟いた言葉は、

「なんで勝手に死のうとした!?」

 相手の叫びに掻き消された。

――なんでって、それは……!

「僕が死ななければ、あなたが死ぬことになっていたんですよ!?」

 政治の責任を取るのは首長の仕事。だから、それをルーシーから自分に変えた。

「――ふざけるな!」

 また叫ぶ。

「どうして私が、自分一人死ねばいいだけにしていたと思っている!? どうして、お前が無事に帰れるように、迷惑を掛けないように――!」

「それじゃダメなんです!」

 叫び返す。

「僕がルーシーを守るって、そう決めたから……!」

「違う! 私が、お前を、クリスを守る!」

 傍目から見れば、のろけた痴話喧嘩。だけど、心は真に怒っていた。

「僕が―― !」

「私が―― !」

 平行線の押し問答。

 何回とそれを繰り返し、終止符を打とうと、

「――だから僕を早く殺してください!!」

禁句を言った。

 ルーシーが硬直する。その顔は怒りと憤りで赤く歪んでいた。

「お前は――!!」

 殴られる、と直感が気付いた。振りかぶって拳を突き出すのにちょうど良い距離だ。

――また飛ばされる!

 上がった相手の手に、魔法の攻撃を警戒して、

「バカッ!」

顔面に拳を食らった。

 だが、ただ少し痛いだけ。先程のように人間離れした力は受けない。

 原因は単純明快。ルーシーの魔力切れだった。

 これなら大丈夫、と安心したところで、頬に殴りが入った。地味だがはっきりとした痛み。

――この人は……!

 何かが自分の中で吹っ切れた。

 こちらも同じように殴り返す。だが、スッと横に動いて避けられた。

 どうだ、と言わんばかりの顔に苛立つ。

――一発は殴ってやらないと……!

 そこから先は殴り合いの喧嘩だった。

 技能だの足技だのは全く考えていない。ただ手を相手の顔にあてることを狙った喧嘩。

 しかも、どちらも戦闘職種ではない――ルーシーの戦闘方法は王族魔法と不意打ち以外にないし、杖がなければ満足に操れない。自分は魔法以外の戦いはからっきし――ため、相手にダメージを与えられないどころか、逆に、変に殴った手が痛む。

「僕の言うことも聞いてくださいよ!」

 肩を狙った右手が外れてたたらを踏んだ。

「知るか! なんで私が言った通りにやってくれないんだ!」

 これでは、駄々を捏ねる子供の喧嘩だ。

 防御に構えた両の手の隙間から、相手のパンチを食らった。

「僕だって!」

「私こそ!」

 意地の張り合いは白熱する。

「いつもそうだよルーシーは! 僕のことなんて何一つ考えていないんだよ!」

「それはクリスでしょ!? 私に好き勝手させてよ!」

 お互いに、素の心と言葉が出始める。

――これじゃあまるで、学生時代の言い合いじゃないか。

 ハイルディにはなんと言われてからかわれたんだったか――「夫婦喧嘩」か「のろけ話」だ。

 殴り合いが数十発目に突入した時には、もう双方手を動かせないほど疲弊していた。

 フラフラと両者がよろめき、同時に仰向けに倒れ込んだ。頭が間にひとつ入る程度の隙間を開けて、横を向いたら上下逆の相手の顔が見えるような位置だ。

 横を向くと、相手も同じようにこちらを向いていた。

 見つめあった相手の顔は、殴られた痕で小さく腫れていて、赤や青のアザがアクセントのように色をつける。

――ひどい顔。

 ふ、と笑った自分の顔も、ひきつるほどに痛みを送ってきている。にやけた相手の表情から察するに、相当な惨状だろう。

「ねえ、クリス」

「何、ルーシー」

 言葉を交わして、どちらも黙る。

 沈黙にまだらな色を塗るように、外の喧騒が小さく聞こえた。

「ねえ、ルーシー」

「何、クリス」

 また沈黙。その静けさが妙に心地良い。

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