Ⅲ
8
委員会室の扉を開けると、テーブルにはまだ誰もいなかった。
「未だ誰もいらしてません」
扉の前に座っていた若い女性職員が、私を見て立ち上がった。
「そのようだね」
「本会議が伸びていまして…」
彼女はさも申し訳無さそうに言う。
「よくある事だよ」
私は局長と言う札の置かれた席に着いた。「コーヒーでもお持ちしましょうか」
「いや、お構いなく。ありがとう」
私はそう言って、ブリーフケースを開き、報告書類にもう一度目を通した。
*
しばらくの間、私は書類を眺めていたが、とくに普段と違う内容もないし、目新しい事実もなかった。
私は彼女に荷物を見ているように言って、議事堂の中を散歩する事にした。
*
廊下には赤い絨毯がひかれ、所々にある閉じられた扉の前には、二人一組の衛兵が立っている。
彼等は銃底をを床に突き立てるようにして、じっと動かずに一点を見据えている。
まるで、そこに何かが存在するかのように。 もちろん、そこには何もない。
高い大理石の天井から、大きなシャンデリアが幾つもぶら下がり、無人の園を行くような世界に、私の踏み締める足音だけが鈍く響く。
私は、書庫に続く大理石の螺旋階段を降りていった。
*
議会の書庫は、過去にエウロパで出版された全ての書物を納めている。
階段の途中から、広大な書庫の全貌を見下ろす事が出来る。
書庫には特別な空気が存在している。
まるで、本が時間を吸い込んでいるに、そして、少しづつそれを紡ぎながら吐き出しているように、重く冷たい空気が書庫の中にとどまっているのだ。
遥か彼方にまで続く本棚の列は、まるで何かの作物の畑のようにも見える。
化石となった植物が息ずく、静寂の畑。
物質が気の遠くなるような長い時間をかけて、少しづつ崩壊していくように、本はゆっくりと彼の世界を構築していくかのようだ。 カウンターの老人に身分証を呈示して、私はゆっくりと書庫を進んだ。
*
歴史、宗教、言語、経済、政治、社会。
古典書物があり、戦争について書かれた書物がある。
事実についてかかれた物や、空想世界を扱った物。料理の作り方があり、映画の研究があり、美術について扱った書物がある。
ある物はロックスターの生涯を語り、ある物は旅行の楽しさを語っている。
あらゆる思想や事実が、本と言う閉じられた世界でゆっくりと醗酵していくかのように、本棚の上で静かに時の経過を受け入れている。
*
私は一冊の本を借りる事にした。カウンターの老人に本を差し出すと、彼は本に挾まれていたカードを引き抜いた。
そして、それを確かめるようにしてスタンプ台に置くと、力強くレバーを引いて今日の日付を刻印した。
*
私は本を持って、議会の喫茶室に向かう。 コーヒーを頼んで、白い石のテーブルに本を置いた。
本はサイズの面で、かなり大きな物で、写真が多く挿入され、近世の美術の変遷について語っている。
私はページをなるべくゆっくりとめくって、時間を潰した。
*
結局、予定より二時間も遅れて委員会は始まった。
会議はまず私の太陽の運行についての報告から始まる。
「手元にお配りしました通り…」
私はあらかじめ事務局から渡された、先月と同じ原稿を朗読する。
長時間の本会議に疲れた議員達は、誰も真面目に聞いてはいない。
「つまり」
私は最後に付け加えた。「前回と同じと言う事です」
私が発言を終えると、白装束に身を包んだ議員が立ち上がり、議長に発言を求めた。
議長はうんざりとした様子で、男の発言を認める。
「人工太陽は自然の摂理を壊し、環境に多大なる影響を与えています。文化的、教育的にも問題があります…」
男は宗教団体が送り込んだ議員だ。
人工太陽が自分達の教義に反すると言う事で、事あるごとに運行停止を求める発言をする。
「…また、人工太陽が癌の発病にも重大なる影響を与えているとの研究もあり、私は当委員会に太陽の運行停止と厳正なる調査を提案いたします」
男の提案についての裁決が行われ、大差で否決された。
「私は…」
次の議員が発言を始めた。「太陽の運行時間の延長を求めます」
男は農業団体を母体とする団体により選出された議員で、太陽の運行時間延長を公約にして当選してきた。
農民達は太陽の運行を延ばせば、更に多くの収穫があり、大儲けできると信じている。 収穫が多すぎれば、作物の価格が暴落するので、結局同じ事だと言うのを、なかなか理解してはくれないのだ。
「現在の運行は生態系の調和にとってもっとも良い形であるとの報告を受けており、変更は必要では有りません」
私が言うと、議員の多くが頷いた。
この提案もあっさりと否決される。
「私は太陽の交換を提案します」
今度は労働団体の男だ。新たな太陽の建設によって、職を作りたがっている。
今度は、さっきよりも少し多い賛成があるが、また否決されるのであろう。
委員会はこうして、いつもの儀式を繰り返すのだ。
9
いつもと同じような討議が行われた後、私が委員会から解放されたのは、夕方になってからだった。
私は急いで列車に乗り、太陽局への帰途についた。
砂丘の駅についた時、既に太陽は冷めかけていて、黄色に色褪せた光の奥から、鈍く光る鋼鉄の本体を覗かせていた。
私は駅を出て、風の吹く砂丘を足早に進んだ。
私が遅くなれば、ササハラの権限で勝手に太陽の収容を行ってもいい事になってはいたが、原則として私が立ち会って太陽の収容を指示する決まりだった。
*
太陽は余り長時間空に飛ばしていると、コントロールが利かなくなって、反応炉が暴走する危険性があった。
その太陽の技術的欠陥については、極秘事項として国民ばかりか、政府や議会の中でも知る者は少ない。
もちろん、今までそんな事故は無かったが、万一事故が起これば想像もつかない大惨事になる事は目に見えていた。
*
それにしても、今日はおかしい。ササハラがマニュアルに則って、緊急収容を行ってもいい時間だ。
それなのに太陽は収容軌道に近付く気配もない。
私は不安に駆られながら漁村を目指した。
*
漁村では、昨日の漁の犠牲者の葬儀が行われている最中だった。
黒づくめの服装に、赤い帽子を被った村人達が通りを埋め尽くし、うねる様にして狭い路地をゆっくり進んでいた。
若者達によって担がれた木の棺桶が三つ、群衆の中心に高々と担がれながら、丘を目指していく。
彼等は太陽局の裏手にある墓地まで、柩と共に進んでいくのだ。
私は知り合いに私の狼狽を気付かれないように、平然とした仕草で挨拶を交わして、群衆をかき分けた。
しかし、人々の歩みは遅く、なかなか前に出られない。
私は群衆に揉まれながら、次第に焦りを深くした。
太陽は更に色褪せて、炉心の赤い光がゆっくり点滅するのが見えるようになってきている。
それはとても危険な徴候だった。
「すみません。通して下さい」
私は小声で言いながら、群衆の中を急いだ。 人々は前を向き、口々に呪文に似た祈りの言葉を呟き、全体では低い唸りを発しているようだ。
私は思うように前に進めない。
彼等の知らない所で、彼等の死の危機は迫っていた。
私には人々の呟きが、まるで自分の葬儀の為の祈りをしているように聞こえる。
*
私は何とか人々の列を抜け出して、丘の道を掛け登った。
太陽局の白亜の建物が太陽の炉心を映して赤くなっている。
ササハラは何をやっているのだ。
私は苛立ちながら、息を切らせて建物に飛び込んだ。
10
入り口の吹き抜けのホールで、ローラが傍らにバケツを置いて、ゆっくりとモップをかけていた。
「ササハラは、ササハラはどうした」
私の叫ぶような声を聞いて、ローラは怯えたように立ちすくんだ。
「あの、ササハラさんは多分、地下室から出ていないと思いますが…」
私はローラの答えを聞きながら、地下室への階段に飛び込んだ。
地下室の白い鉄の扉は、ロックをされたまま閉ざされている。
「ササハラ、ササハラ」
私は叫びながら、扉を激しく叩いたが、中から応答はなかった。
私は傍らのパネルを操作して、ロック解除の暗唱番号を叩き込む。
重い金属音を残してロックは解除された。 私は急いで扉を開く。
思わず。驚きに息を飲んだ。
私は言葉を失い。その光景を茫然と眺めた。 (なんと言う事だ)
天井の金属パイプからロープを伸ばし、ササハラの体が揺れもしないでぶら下がっていた。
太陽の状態を警告する赤ランプの点滅に照らされ、目を開けて虚空を見つめるササハラの顔が、暗闇の中に浮かび上がっている。
*
耳をつんざくけたたましいアラームの音に、私は辛うじて正気を保つ事ができた。
私はまず、自分のやるべき事を冷静に考えた。
私はモニターのスイッチを入れ、太陽の軌道変更と収容準備の操作をする。
モニターに映し出される太陽は、内部の炉が高温になっているらしく、ゆっくりした周期で、赤く点滅を繰り返している。
それは明らかに暴走の徴候だった。
とにかく早く収容して冷却を行わなくてはならない。
漁村にサイレンが鳴り響き、海底のドームが競り上がる。
赤黒い太陽が、ゆっくりと降りて、収容軌道上にやってくる。やがて、太陽は加速をしながら高度を下げ始めた。
太陽は、天に向けて光の尾を伸ばしながら、海面を一直線に目指してくる。
太陽が近づくにつれ、太陽の大きさが大きくなり、鈍い唸りが響いてくる。
高速の太陽が海面に突き刺さった。
波立った海面が激しく沸騰して、白い蒸気が沸き上がる。
海面で減速した太陽は、ゆっくりと減速しながら海の底へと沈んでいく。
私は太陽をドームの方に誘導した。
太陽の内部が激しく光り、炉はいつ破裂してもおかしくない状況だった。
ドームに誘導された太陽を台座に固定して、非常用の反応抑制棒を突き刺す。
炉に入り込んだ反応抑制棒は、新たな反応因子を吸収して、加熱した炉の反応を押さえていく。
計器を通じて、炉の温度が下がっていくのが確認できた。なんとか危機を回避した事がわかり、私は大きな溜め息をついた。
*
私は傍らのササハラに目をやった。
ササハラの口は、だらしなく開かれ、体中の筋肉が弛緩して、手足がだらりと伸びている。
私はササハラの体を下ろそうと思い、首の後ろのロープの結び目を解いた。
ササハラの体が音を立ててコンクリートの地面に落ちた。
*
「局長…」
振り返るとローラが扉の前に立っていた。「全く気付きませんで…」
「仕方がないさ」
私はササハラの体を仰向けにして、地面に横たわらせた。「誰かを村の駐在所に行かせて、巡査を呼んで来るように言ってくれ」
ローラに言って、私は階段を登った。
「局長、どこへ…」
「部屋にいる。巡査が来たら呼んでくれ」
私は自分の部屋に戻って、ベッドに横たわった。しばらくして、秘書官が扉をノックした。
「こんな事になるとは…」
秘書官は扉の前に立って言った。
「想像も出来なかった」
「ええ…」
秘書官はそう言って、その後の言葉に詰まった。
「私には」
私は天井を見詰めたまま答えた。「想像できたような気もするんだ」
「………」
秘書官は何と答えていいか分からない様子だった。
「しばらく一人でいたい。悪いけど巡査が来るまで誰も来させないで欲しい」
「分かりました」
秘書官は扉を閉じた。
*
一人になって、私は目を閉じた。瞼には、ササハラのだらりとした肢体が鮮明に浮かんだ。
私は、ササハラの人生について少し考えてみたが、やがてそれも思考の底に沈んで行った。
目を閉じていると、私の体は宙に浮いているように感じられた。
時間を超越した空間を、実態のない精神の塊が、あてもなく漂っているみたいだ。
*
私は眠りに落ちた。いや私は覚醒している。 それとも、始めから眠っていたのか。
私の精神は体から浮き上がり、心地好いゆらぎの世界をゆっくりと飛行する。
私の精神は海を越え、空の果てからエウロパを見下ろしていた。