リンネの涙
その日はリンネの勉強も無事に終わり、ニルケは自室で魔法書を読んでいた。辞書を調べたり、本に何か書き込んだりしてページをめくっていく。
何時間か経ち、休憩することにした。喉が渇いたので、お茶をもらおうと部屋を出る。
ふと庭の方を見ると、中央にある大きな木の上の方で何かが動いた。目をこらしてみると、リンネだ。彼女がいる枝のさらに上の枝に鳥の巣があり、それを覗き込んでいた。
リンネが木登りしているのはこれまでも何度か見たことはあるが、今日はまた一段と高い所にいる。
それを見て、さすがにニルケも少し慌てた。リンネが立っている枝は、いつもいる下の枝よりも少し細いのだ。いくらリンネが小さく軽いといっても、限度がある。そのままずっといれば、折れてしまいかねない。
でも、驚かせたり慌てさせたりしたら、その動きで本当に折れてしまう。ここはゆっくり降りるように言わなければ。
「リンネ」
ニルケは木の下へ行くと、リンネを呼んだ。
「あ、ニルケ。あのねぇ、ここの鳥がタマゴをうんだのよ。んと、四つあるわ」
卵の数を報告してくれるリンネ。
卵の数なんて今はいいですから、と心の中で焦りながら、ニルケは表面上は落ち着いているような顔で言った。
「そうですか。それじゃ、母鳥が戻って来る前に降りて来なさい。取られてしまうと思って、つつかれますよ」
「はぁい」
素直に返事し、リンネは幹の方へと移動し始めた。
「ゆっくりでいいですよ、リンネ」
気のせいでなければ、枝がミシッといやな音をたてたような気がする。
折れる前に降りて来ますように。
本気で祈ってしまう。そんなニルケの気持ちを知らず、リンネは平気な顔で枝を伝っている。
そこへ母鳥らしい小鳥が飛んできた。鳥はリンネが卵を奪いに来たと思ったのか、高い声で鳴き、リンネの周りを飛び始める。
「きゃっ。あたしはタマゴを取ったりしないわよ」
リンネが言っても、鳥には通じない。卵泥棒をつつこうとしてくる。
「暴れないで、リンネ。ゆっくり降りなさい」
そう言われても、鳥が堅いくちばしでつついてくるので、リンネにすれば手で追い払いたくなる。
だが、そうしたために、バランスが崩れた。
足が枝も何もない所に踏み出す。リンネの身体は、真下へ向かって落下を始めた。
「リンネ!」
ニルケは急いで風の魔法を起こした。上へと突き上げるようにして風が吹き、落下のスピードを殺す。その魔法と同時に、ニルケはリンネの身体が落ちて来る所へと走った。
ゆっくり落ちて来たリンネを、ニルケが抱き留める。リンネは何が起こったかわからない表情で、きょとんとニルケの顔を見ていた。どこもケガはないようだ。ひとまずほっとする。
「リンネ、もしここに誰もいなかったらどうなっていたか、わかりますか?」
「おっこちた……」
ニルケはゆっくりとリンネを降ろした。
「あんな高い所から落ちたりしたら、死んでしまうんですよ。おてんばもいいですけれど、ほどほどになさい。ケガをして痛い思いをするのは、リンネですからね」
うんと頷き、それからみるみるうちにリンネの瞳に涙がたまっていく。滴がぽろぽろと頬を伝う。
「怖かったですか?」
ニルケはしゃがむと、リンネの涙を拭いた。さすがにあの高さから落ちて恐怖を覚えたのだろうか。
「あたし、卵を取ったりしないのに、つつかれた……」
ニルケが思っているのとは違う理由で泣いているらしい。リンネにすれば、鳥につつかれたことが、木から落ちたことよりもショックだったのだ。
「子どもを持つ動物は、いつもより強く警戒してしまうんです。リンネのことが嫌いな訳じゃないんですよ」
そう慰めていたニルケは、小さなリンネの手の甲に軽いひっかき傷があるのを見付けた。鳥につつかれて防御しようとした時の傷だ。
「いつも元気なリンネが泣くなんて、おかしいですよ。その傷を消毒したら、何かおやつをもらいましょうか」
リンネを促し、ニルケは庭を出た。
リンネも泣くことがあるんですね。
本人が聞けば失礼だと怒りそうだが、ちょっと意外なリンネの一面を見たニルケの正直な気持ちだった。
☆☆☆
ニルケがエクサール家へ来て、早くも一ヶ月が経過した。
口に出しては言わないが、使用人達もニルケがよく続いているものだと感心しているに違いない。しょっちゅう屋敷の内外で二人が追い駆けっこをしているのは、誰もが目にしている。すでにエクサール家の名物になりつつあった。
予定通り、とはいかないが、だいたいの教科はそれなりに進んでいる。だが、書き取りがよくない。リンネがぐずってやろうとしないのだ。読むのはともかく、何度も同じ字を書くのが嫌いらしい。
「やだ、もう書くの、いやっ」
「困るのはリンネですよ。ちゃんとやりなさい」
「やだったらやだ」
癇癪を起こしたリンネは、机の上にあった紙やペンを床にぶちまけた。
「リンネッ!」
ニルケはリンネの方につかつか歩み寄ると、ひょいと身体を抱え、お尻を叩いた。温厚な先生でも、怒る時は怒る。遠慮せずに叱ってくれ、と保護者からのお許しも出ている。だから、ニルケは本当に遠慮しない。
「いーたーいっ。やぁーだぁー。はなしてー」
どんなにすばしっこくても、大人に近い男性に抱えられたら逃げられない。ばたばた暴れるリンネのお尻を数回叩くと、ようやくニルケはリンネを解放した。
「リンネがいやがるのは勝手ですが、物にあたるのはやめなさい。これらを作るためにも、たくさんの人の手がかかっているんです。使っていない紙を破いたり、ペンを壊したりしたら、作ってくれた人に申し訳ないでしょう」
それから、ニルケは落ちた物を拾うように言った。リンネはしぶしぶと拾い上げる。叩かれたお尻が痛くて涙を浮かべながら。でも、泣くのは悔しい。
「リンネは手紙を書いたことがありますか?」
ふいにニルケはそんなことを聞いた。潤んだ目をニルケに向けながら、リンネは首を横に振る。
「……ない」
「ペンスの街に、おじいさんとおばあさんがいらっしゃいましたよね。お二人がリンネから手紙をもらったら、とても喜んでくださいますよ」
「そうなの?」
「離れて暮らしていますから、なおさらにね。でも、今のリンネの文字では、読むのが大変ですよ。暗号みたいで」
ミミズがのたくってるような、文字に近い線でしかない。
「リンネが何を伝えたいのか、わかってもらえないのはつまらないでしょう? 練習をしてちゃんとした文字が書けるようになれば、どんなに短い手紙でも喜んでもらえますよ」
「……」
「今日はもう終わりましょう。リンネもイスに座れないでしょうしね」
ニルケの口調は、手紙のくだりからいつもと変わらなくなっていた。もう怒っている顔はしていない。
それなのに、授業の終了を告げられると、リンネはひどく突き放されたような気分になった。
☆☆☆
その日の夜。
予定していたページまで魔法書を読み終え、ニルケは机の上の明かりを消した。時計を見ると、ずいぶんと遅い時間になっている。家中が静まりかえっているようだ。明かりがあるのはこの部屋だけだろう。
少し首を回して肩の力を抜き、身体をリラックスさせる。机の上を整理し、ベッドに入ろうとした時だった。
コンコンと、扉を叩く小さな音が響く。
こんな夜中に誰が起きているのだろうと思いながらニルケが扉を開けると、そこには枕をしっかり抱き締めたリンネが立っていた。
「どうしたんですか。もうとっくに眠ってなきゃいけない時間ですよ」
「ねむれないの……」
うつむいて、ぽそっとつぶやくようにリンネは答えた。
少し青白い顔をしているので、ニルケはそっとリンネの額に手を当てた。熱はないし、具合がよくないようでもない。頬には寝間着か枕だかのあとがついている。今まで眠っていたのだ。
それが眠れないということは、大方怖い夢を見て眠れなくなってしまったのだろう。誰かがそばにいてくれないと。
「一人では眠れませんか?」
リンネの頭が小さく縦に揺れた。
「どうします? ぼくがリンネの部屋へ行く方がいいですか? それとも入りますか?」
リンネは動かない。ニルケがすっと横へ引くと、リンネはとことこと部屋の中へ入った。
ニルケが扉を閉めて振り返ると、リンネは黙ってニルケの方を見ている。
妙な疑いをかけられたりしないでしょうか。世間にはリンネくらいの幼い少女に強い興味を持つ人がいる、と聞いたことがありますが、ぼくがそういう人種だと思われるようなことは……。
そんなことになったら面倒な話になりそうだが、疲れて眠くなっていたので深く考える気になれない。
「さぁ、もう遅いから寝ますよ。早くベッドに入って」
言われてリンネはベッドの上に飛び乗り、ニルケの枕を横へずらすと自分の枕を置いた。
枕元にある明かりを落としたが完全には消さず、ニルケもベッドに入る。一人用にしてはかなり大きいベッドなので、二人でも充分にゆったりと眠れるサイズだ。
「リンネ、どうしてぼくの部屋へ来たんです? リンネの部屋からだと、お母さん達の部屋の方が近いでしょう」
「だって……かあ様は赤ちゃんがおなかにいて、たいへんだもん。とう様はおしごとでいないし」
そうだった。ラグスは仕事の都合でここ一週間程、留守にしている。リンネにすれば母親に甘えたいところだろうが、普通ではない状態の母を彼女なりに気を遣っているのだ。
あとは使用人だけしかいない。ニルケを除けば。
「ひとりでねられないって、赤ちゃんみたい?」
「……たまにはいいと思いますよ。ぼくも怖い夢を見て、両親のベッドに潜り込んだことがありますから」
「よかった。あたしだけじゃないんだ」
ほっとした口調に、ニルケは思わず笑みを浮かべた。あれこれやらかしてくれるが、やっぱりこういうところはまだ子どもだ。
「お尻はまだ痛いですか?」
「……いたい」
ぽそっと答えが返ってくる。
「リンネが悪いことをしたら、今日のようにしますからね」
「いい子にしてたら?」
「ほめてあげます」
ニルケの返事は簡潔だった。
「さぁ、怖い夢は忘れて、おやすみなさい」
「ん……おやすみなさい」
すぐに静かな寝息が聞こえてくる。やはりそばに誰かがいる安心感からか。
そして、ニルケも眠りに入った。





