エクサール家のリンネ
それから一週間後。
必要な荷物は後で送ることにし、すぐに使う物だけを持ってニルケはエクサール家を訪れた。
エクサール家へ来たのは、かなり昔のこと。幼い頃、父に連れられて来たことがある。この前のリンネと同じような状況だった。その時のラグスはまだ独り身だった、と記憶している。
家はラグスが結婚する時にかなり修繕され、覚えている屋敷とはかなり変わっていた。でも、所々に何となく見覚えのある部分も残っている。
「ニルケ、よく来てくれたな。疲れたろう」
ラグスと、あと三ヶ月程で二人目の子が生まれるリリアが出迎えてくれた。
が、肝心の少女の姿がない。
もしかして、勉強させられるなら、と逃げたんでしょうか。
ラグスからは、リンネが勉強をいやがって抜け出す、ということを聞いている。
「リンネは?」
「あ……今、捜しているんだが……。どこへ行ったんだか」
思っていたより大変かも知れませんね、この状態だと。
この時考えたことは正しかった、と後になってニルケはしみじみ思うことになる。
ラグスとニルケがお茶を飲みながら話をしていると、玄関の方が騒がしくなった。使用人達が「あらあら」だの「まぁ、大変」と言っているのがかすかに聞こえる。
何があったのかと行ってみると、そこには真っ黒に汚れたリンネがいた。顔や服のあちこちに泥が付いている。
「リンネ! お前、何て格好を……。おい、早く着替えさせてくれ」
そばにいた侍女に、急いで浴室へ連れて行くように言い付ける。その前に、リンネがニルケの姿を見付けた。
「あ、ニルケ、来たのね」
泥だらけの手で、リンネがニルケに手を振った。ニルケは苦笑しながら近寄り、しゃがんでリンネと視線を合わせる。
「ええ、来ました。リンネ、一体、どこで何をして遊んでたんですか?」
「あのね、ファイズさんちのポゥタとあそんでたの」
そこまで言うと、リンネは侍女に連れて行かれた。
「何ですか、ポゥタって」
リンネが行ってしまったので、ニルケはラグスに尋ねた。
「犬だ。ファイズ氏がポスベームから取り寄せた、リンネと背がほとんど変わらない大きな犬だよ」
「四つ足の状態でですか? それって、後ろ脚で立ったら大人より大きいんじゃ……」
「ああ。私も初めて見た時は、熊かと思ったよ。おとなしい性格とはいえ、大人でも怖がるのに、リンネはその犬と平気で遊ぶんだ」
やれやれ、という口調のラグス。どうやら、リンネがその大型犬と遊ぶのは今回だけではないらしい。ニルケは目を丸くして、リンネが連れて行かれた方を見る。
この日、ニルケのリンネに対する印象が少し変わった。
☆☆☆
それから、一週間が過ぎる。
一緒にすごすにつれ、ニルケはリンネの性格がわかってきた。
ドュート家を訪れていた時は、さすがにおとなしくしていたリンネ。だが、自分の家では倍程も元気さが違う。
ちゃんと勉強する日もあるが、逃げられてしまう日の方が多い。
帰って来るのは夕食前。ほとんど一日、外で遊んでいるのだ。
世間からは「令嬢」と呼ばれてもおかしくない立場の人、ですよね? 何なんですか、この遊び盛りのわんぱく少年みたいなバイタリティは。
ニルケが見付けて追いかけても、リンネは小さいのに逃げ足が結構速い。それに、リンネはどこか追いかけられることを楽しんでいる向きもあるような気がするニルケ。
遊ばれてますね、完全に……。
そうとしか思えなかった。齢六歳にして、十五の魔法使いを四苦八苦させるのだから、ある意味ですごいかも知れない。
この先、やっていけるんでしょうか。かなり前途多難な気が……。
少し自信を失いかけた。まともに勉強させてもいないのに、お金をもらうなんてできないし、かと言ってリンネを捕まえることもままならない。これでは、家庭教師失格だ。
ニルケは本気で、今回の話をなかったことにしてもらおうか、と考えた。
しかし、考え直す。
これまでの家庭教師はそれぞれに理由があったとしても、結局のところは「リンネと彼らの性格が合わない」から辞めたのだ。
自分が辞めようと考える理由は、リンネに遊ばれてしまっているから。
これは……理由としてあまりにも情けなくないですか。
そう考えると、辞めるという選択肢はニルケの中から弾けて消えた。
逃げられたら、捕まえればいい。自分は魔法が使えるのだ。
子どもに対して魔法を使うのは、多少の抵抗がある。でも、傷付けるのが目的ではないし、自分の任務を遂行するためだ。ひいてはリンネのためでもある。
逃げたくないと思ったら、次の行動は早い。
ニルケはまず、リンネがどこから屋敷を抜け出すのかを探した。
いつも気が付くといないのだ。で、外から戻ってきた侍女から、どこそこを走って行くのを見た、という報告を聞く。もう勉強が終わって遊びに行くのかと思って止めなかった、というのがだいたいのパターンだ。
門が開けばその音ですぐにわかるから、そちらからは出ていないだろう。となれば、どこから出て行くのだろうか。
屋敷のあちこちを探し、ついにニルケは壁の一部が破損している所を見付けた。子ども一人なら楽に通り抜けられる大きさだ。ちょうど植木の陰になっていて、大人の視線ではわからない。
どうやってこんなものを見付けたのか、面白いものをうまい具合に使っている。
ニルケはとりあえず、魔法で透明な壁を穴に張り、通れなくしておいた。その後、ラグスにこの壊れた壁の話をして、早急に直すよう伝えておく。
これで、簡単に逃げ出すのは無理だろう。あとは向こうが新しい手を考えてきたら、こちらもそれに対抗するまで。
さて、今日はどこから帰って来るでしょうね。
いつもなら、気が付くと屋敷へ戻って来ている。きっとあの抜け穴を使って帰って来ているのだ。
でも、今日はもう使えない。となると、どうするだろう。
調べてみたが、他に抜け穴らしきものはない。門から入るしかないはずだ。
ニルケはリンネが戻って来る頃合いを見計らって、門で待っていた。
やがて小さな影が現れる。ニルケを見付けてピタッと止まった。彼がいるから門を開けられない。
「お帰りなさい。今日も一日楽しかったですか?」
「うん、楽しかった」
ニルケの言葉に、リンネも負けじと答える。実際、楽しんで来た。
「リンネが使っていた出入口はもう使えませんよ。明日にも塗り込められますからね」
拗ねた目でリンネはニルケを見上げた。
「ここ何日か遊んでいたでしょう。そろそろ勉強の方もやってもらわないとね」
「……べんきょー、きらい」
「わかるようになると、面白いものですよ。食わず嫌いというのが一番よくありません」
ニルケはやっと門を開けて、リンネを中へ入れた。
「さ、早く手や顔を洗ってもらいなさい。汚れたままだと、またご両親に叱られますよ」
リンネは頷いて、ぱたぱたと屋敷の中へ入って行った。
☆☆☆
次の日。さすがに出入口をふさがれては、リンネも屋敷を抜け出せずにいた。
ニルケが部屋にいるリンネを呼びに来て、二人は勉強部屋へと向かう。
勉強部屋と言っても、元々は広めの書庫だった部屋だ。ラグスやリリアが以前から持っていた本に加え、結婚してから新たに色々な本を入手して本棚に並べていたのだが、明るい窓際にスペースを取って机が置かれた。
個人的に所有する本以外はここに置かれているので、何かを調べようと思えばすぐに棚から取り出せる。小さな図書館で勉強するようなものだ。
さて、授業をしようという段になって、ニルケは今日使おうと思っていた本がないことに気付いた。他の棚に並んでいるのかと思って捜してみたが、どこにもない。
「ニルケの部屋じゃないの?」
どういう風に勉強を進めるかを考えるのに、自分の部屋へ持って行ったのだろうか。よく覚えてないが、考えごとをしながら無意識に、ということもある。
とりあえず、ニルケは自分の部屋へ戻って捜してみることにした。
やはりどこにもない。何気なく勉強部屋のどこかに置いて、そのままにしてしまったのか。もしくは、誰かが別の場所へ片付けてしまったのかも知れない。
今日は本なしでやりましょうか。
そう思ってニルケが勉強部屋へ戻ると、そこは見事に空っぽになっている。
やられたっ。
本もきっとリンネが隠したのだ。明日はこれこれの勉強をしますからね、と昨夜のうちに言っておいたから、どの本なのかおおよその見当をつけて隠したのだろう。
今頃、リンネは屋敷の外だ。それくらいの時間は充分にあったから。
ニルケは仕方なく、本を捜した。ありそうな場所は全て見たが、どこにもない。あきらめて、魔法で捜すことにした。こんなことに魔法を、と思って自力で捜していたのだが、最初からこうすればよかったかも知れない。
魔法が指し示したのは、ラグスの書斎だ。
よく頭が回りますねぇ……。
ここならリンネは自由に入れる。逆に、ニルケは用事でもなければ滅多に入ろうとはしない。まさか捜す本がこんな所にあるとも考えない。どこを捜してもわからないはずだ。
ニルケはノックして中へ入る。部屋にはラグスが何かの書類を書いていた。
「どうした、ニルケ?」
「すみません、お仕事中に。すぐに出て行きますから」
書斎と呼ぶからには、ここにも本がたくさん並んでいる。仕事で必要なことを調べる時に使う本なので、勉強部屋には置かれないものばかりだ。
ニルケは真っ直ぐにラグスの横の書棚へ行くと、一番下の段の端にある本を引き出した。さっきからずっと捜していた本だ。
リンネと大人とでは、目の高さが違う。壁の穴と同じだ。普通にここへ捜しに来たとしても、きっとまず自分の目の高さの段を探してしまうだろう。魔法がなければ、もう少し時間がかかるところだった。
「どうしてそんな本がここに?」
仕事とは全く関係のないタイトルの本に、ラグスが首を傾げる。
「すみません、やられました」
「……リンネか。ニルケ、私達に遠慮せず、叱る時は思いっ切り叱っていいからな」
叱ってもあまり効果がないような気がする。でも、ニルケは頷いておいた。
「ええ、帰って来たら、お尻をひっぱたいて、机に縛り付けるくらいはしないと駄目ですね」
ニルケはそう言ったが、リンネなら縄抜けくらいやってのけそうな気がした。
☆☆☆
リンネが本を隠すいたずらをしたり、ニルケの目を盗んで屋敷を抜け出したり、たまにニルケに捕まって勉強させられたり……という攻防の日々が続いた。
今までの家庭教師は十日ともたなかったが、ニルケの場合は気付けば半月が過ぎた。現在、これは最長記録である。
リンネの授業放棄など色々と問題はあるようだが、エクサール夫妻はニルケががんばってくれているので、とても喜んでいる。
ニルケとしても、自分の半分にも満たない年月しか生きていない子に遊ばれたくない、という意地が出て来ているのだ。彼もおとなしそうな顔をしながら、結構負けず嫌いな面があったりする。
勉強の様子を見ていると、リンネは頭は悪くない。むしろ、いい。
でも、机にじっと座っている、というのが苦手のようだ。分析するまでもなく、動いている方が好きなのである。元気すぎる。だから、勉強したがらない。
それでも、逃亡に失敗してニルケに捕まってしまうと、観念してその間はちゃんと勉強していた。リンネにすれば、させられている、と言うだろうが。
ある日、ニルケは計算問題を出した。まだ難しい計算はできないので、りんごやみかんを例に使って、数を足したり引いたりのレベルである。
「それじゃ、りんご三つとみかんを二つ買うとしたら、全部でいくつになりますか?」
「えーと……五つ」
「はい、よくできました」
「りんご一つ、おまけにつけちゃおう」
「つけなくていいです!」
どうやら、街の果物屋の主人の口癖らしい。彼らの商売を見ているから、こんな余計な付け足しまでしてしまうのだ。これが現実なら客も喜ぶだろうが、今しているのは計算問題。おまけはいらないのだ。
これでいくと、金額の計算問題なんかをさせたら、一割引いていくら、なんてしてしまいかねない。ちゃんとできるのなら計算能力が高い、ということにはなるのだが……。
「つけてあげたら、おばさん達、よろんで帰るよ。また来るわねっていいながら」
それはそうだろうが……。
「リンネ、これは計算問題です。お店のマネはしなくていいんですよ」
どこの計算問題に「おまけ」が付くのだ。
読み取りでは、店の名前だとか、チラシに書かれているような文字は早く読めた。普段からそれらを目にしているので、覚えてしまっているようだ。
何にしろ、飲み込みは早い。街に出ていて、あれこれ吸収しているのだ。
普通のお嬢様なら、もっと別の方面から字を覚えそうなものですけれど……。
世の中、何が幸いするかわからないものである。





