【2】
ベルディナス侯爵家に言っていたので、マリオンが宮殿に上がったのは昼過ぎのことだった。魔法研究所の敷地内に入ると、名を呼ばれた。
「マリオン」
落ち着いた渋い声だった。マリオンははっとして目を凝らす。
「先生!」
マリオンはパッと笑うと、自分の名を呼んだ男性に駆け寄った。その勢いで抱き着く。
「お帰りなさーい」
「元気そうだな、マリオン」
男性はマリオンをそっと引き離すと、頭を撫でた。マリオンはにこにこしている。
「午後出勤か。珍しいのではないか?」
「朝、ちょっと出産に立ち会ってて。先生はいつお戻りに?」
「実は昨日のうちに帰ってきていたのだが、陛下に挨拶に行っていてな」
「おお。さすがは宮廷医」
マリオンはぽん、と手をたたいて言った。この男性は、マリオンの師である宮廷医ティエリである。七十手前の男性であるが、医師としての腕はおそらく、この国一。数年前に息子に王位を譲った先王の元に招聘され、しばらく王都を留守にしていたのだ。
「先代様は息災でございました?」
「お元気であらせられたぞ」
という報告を聞いたとき、マリオンは名を呼ばれた。返事をして振り返る。
「先生! 患者さんがお待ちです」
「えー。はいはい。今行くわ」
やってきたのはポリーヌだった。マリオンはそう言って身をひるがえす。ティエリが苦笑してその背中に声をかけた。
「人気者だな、マリオン」
「女の医者は少ないですからね」
マリオンは一瞬振り返って言った。最後にぶんぶん手を振る。
「先生も体に気を付けてくださいね」
ティエリは苦笑し、マリオンに向かって手をあげた。
△
「マリオン」
うとうとしていたマリオンはカロンの声にはっとした。ソプラノ歌手の歌が聞こえる。
「大丈夫? もうすぐ終わるけど」
「うん……」
マリオンは目をこすろうとして手首をつかまれた。
「ほらほら。眼はこすらない、お医者さん」
苦笑気味にカロンが言った。まあ、確かにこすれば目元の化粧が落ちるけど。代わりにマリオンはしきりに瞬きした。
「今日朝早かった?」
「夜中から明け方にかけて、ロシェルのお兄さんの奥さんの出産に付き合ってたの」
「ああ、なるほど」
カロンは納得した様子でうなずいた。マリオンの頭を撫でて微笑む。
「別の日に改めたほうがよかったかな」
「……自分では大丈夫だと思ったの。せっかく誘ってくれたのに、ごめん」
「いやいや。僕の方も気を使わせちゃったね」
カロンがマリオンの頭を引き寄せて頬に口づけを落とした。マリオンは頬が熱くなるのを自覚した。カロンは誰にでもこういうことをしているのかもしれないが、慣れないマリオンには刺激が強かった。マリオンは一度ギュッと目をつむり、視線を舞台に移した。内容が頭に入ってこない……って、さっきまで寝ていたから、流れがわからないだけか。
マリオンはそっと首を傾けてカロンの肩に頭を乗せた。カロンがその頭を撫でる。
「今度また、一緒に見に来ようか」
「……次はロシェルと一緒に来る」
「これは手ごわい相手だ」
マリオンの黒髪をもてあそびながらカロンは笑った。そこにノックがあり、マリオンはパッとカロンから離れた。カロンが立ち上がり、ドアを開ける。
「失礼いたします。カロン・ラリュエット様とマリオン・ド・シャレット様ですね」
マリオンは立ち上がった。カロンはともかく、自分の名まで呼ばれるとは思わなかった。見ると、劇場スタッフのようだ。
「宮廷医のティエリ様がマリオン様をお呼びです」
マリオンとカロンが目を見合わせた。カロンではなく、マリオンに用があるらしい。
とはいえ、カロンはマリオンを一人で行かせるようなことはしなかった。一緒についてきてくれて、ともに舞台裏に入る。普段は入ることがない場所なので、ちょっとドキドキした。
控室のような場所に通された。中にはティエリがいた。
「おお、来たか」
「先生。どうしたんですか?」
「いや、ちょっと見てくれ」
ティエリが手招きするので、マリオンはスカートを持ち上げて回り込む。ちなみに、このドレスもカロンが見立てたものである。
ティエリが見ていたのはオペラ歌手らしい男性だった。最初の方で見たような気がする。服も舞台衣装だし。問題は、その舞台衣装の右腕の部分が裂けていることだ。
「あの……彼女は」
男性が不安そうにティエリを見る。ティエリはほけほけと笑った。
「私の弟子だ。若いが、いい腕だぞ」
「はあ……」
頭の上でそんな会話がなされている。マリオンは透視能力で腕の怪我を見た。それから尋ねる。
「魔剣にでも切られましたか?」
「は?」
男性が声をあげた。マリオンは首をかしげる。
「傷口から魔力が感じられます。切られた時に、何かの魔法が定着したんでしょう」
「やはり魔法性外傷か。マリオン、専門だったな?」
「……そうですけど、先生も詳しいじゃないですかぁ」
マリオンはそう言って唇を尖らせる。ティエリも魔法性外傷だとわかっていたからマリオンを呼んだのだろう。
「だが、魔力に関してはお前の方が上だ」
「はーい」
マリオンは間延びした口調で返事をして、治療にかかる。マリオンがこんなに暢気なのは、何かあってもティエリが控えているという安心感があるからだ。もしかして、みんなもマリオンが来てほっとするのはこういう心境だからだろうか、と思った。
彼がこんなところで何故魔剣に斬られたのか気になるが、その辺はマリオンの管轄ではない。実際に、カロンが事情聴収を始めている。いや、正確にはこの案件、魔法省が担当すべきなのだが、軍務省も無関係ではないだろう。魔剣は軍の武装の一つでもあるからだ。
マリオンは男性の傷口を見て、少し顔をしかめる。
おかしいわね。この魔法なら、すでに腕全体が壊死していても不思議じゃないのに。
戦場にも派遣されたことのあるマリオンは、魔法性外傷にもそれなりに詳しいつもりだ。こんな症例は初めて見た。
別の魔法が上掛けされてる? ……違うわ。反作用魔法が働いてるんだ。
腕が壊死しないように、ただ、熱を持って痛み、魔法性外傷に見せかけるように、壊死魔法の反作用魔法がかかっているのだ。
ティエリと一緒に楽屋を検分していたカロンがマリオンに声をかける。
「どう?」
「大丈夫よ。すぐによくなるから安心して」
後半は怪我人の男に向けた言葉だ。舞台役者らしく整った顔をした男は「ありがとう」と微笑んだ。とても魅力的だと思ったが、マリオンは微笑み返すだけにとどめた。
「まさか君みたいなかわいらしい女の子が医者だなんて。人は見かけによらないな」
「おかげで『医者です』っていうと、怪しまれるんですけどね」
男の言葉に、マリオンはそう言って苦笑した。
「舞台、すてきでした」
「気に入ってもらえたならよかった」
無難に感想を言ったマリオンに、カロンから鋭い指摘が飛んでくる。
「マリオン、寝てたでしょ」
「最初はちゃんと見てたもの!」
マリオンが子供っぽく頬を膨らませると、よしよしとカロンがマリオンの頭を撫でた。舞台役者の男が二人を見比べる。
「恋人?」
「違います」
即答したのはマリオンだった。カロンは「そこは冗談でも『そうです』っていうところでしょ」などと言っている。ティエリはそんなやり取りを見て「若いなぁ」としみじみしている。
「ところで魔剣っぽいもの、あった?」
「ない。僕とティエリ先生の目をすり抜けられるとは思えないんだけどね」
と、カロンは打って変わってまじめな口調で言った。
「どこかに隠した、ってこと?」
「さすがにそこまではわからないけど」
とカロンは肩をすくめた。俄かに廊下が騒がしくなる。楽屋に、「アルマンさん!」と叫びながらスタッフらしい女性が飛び込んできた。
「大変です! シメオンさんがし、死んでます!」
途端に、マリオン、カロン、そしてティエリの視線が鋭く細められた。
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