第1章 今夜も配信を始めますか?
シャワーを浴びて部屋に戻る。
帰宅してすぐクーラーを付けておいたおかげで、部屋は心地良い温度になっている。
まだ6月も半分を過ぎたばかりだというのに、東京は最高気温が30度を超える日が続く。
一日頑張って働いたご褒美に、これくらいの贅沢は許されるだろう。
もっとも俺の仕事の殆どは、デスクでPCに向かう事と会議室での打ち合わせだが。
冷蔵庫に常備している発泡酒の缶を取り出し、帰りがけに買った柿ピーの袋と一緒にパソコンデスクに置く。
プルトップを引くと、乾いた音を立てて栓が開いた。
生ビールの魅力には敵わないが、これはこれで幸せな瞬間だ。
デスクトップPCの電源を入れて起動を待つ間、TVを点けて適当にザッピングする。
仕事の終わる時間に波があるのでドラマは見ない。
どうせ見るとは無しに流しているのだから、そのときの気分で旅番組だったり、バラエティだったりもする。
ニュースのスポーツコーナーが気になり、今日は取り合えずコレにしようと決めた。
五百ミリの缶が半分ほど空いた所でPCが立ち上がる。
時間は22時を少し回ったところ。
明日は土曜で仕事は休みだし、相変わらず予定もない。
「ちょっとは夜更かしも良いだろう」
誰に言うでもなく呟いて、ブックマークから『動画配信サイトM-STUDIO』をクリックする。
今夜も『とあるアラサーの独り言放送』の配信スタートである。
俺の名前は矢島智史。
苗字は「やしま」、名前は「さとし」って読む。
でも大抵の人は「やじま ともふみ」だと思ってる。
中学でも高校でも大学でも会社でも、呼ばれ方は「やじー」か「やじさん」。
昔は『ヤジキタ道中』みたいで好きじゃなかったし、「こう言ったのはちゃんとしないと」と思って訂正もしたのだが、もう慣れた・・・と言うより正直なところ諦めてる。
仕事は一般的に言われるSEって職種。
主に携帯電話の内部システムを作ってる。
大学時代からPCは使ってたけど、別に工学部や情報系の学部を出たわけじゃない。
ちょうどSEって職業がメジャーに成りだした頃で、募集も多かったんだ。
「PCの前に座ってるのは嫌いじゃないし、営業みたく初対面の人と話すのは得意じゃないから向いてるかな?」くらいの気持ちでエントリーしたってのが本当のところ。
まぁそれでも7年勤め続けられるんだから、やっぱり向いてたのかもしれない。
実家は東京の練馬で、今も両親は練馬に住んでる。
俺は働き出して2年目に「会社の近くに住みたい」って理由で、この立川のアパートに引っ越してきた。
帰ろうと思えばいつでも帰れる距離が災いして、実家にはもっぱら盆と正月にしか帰らないけど。
まぁ、それでも3つ年下の弟は未だ実家に住んでるし、もう10年くらいは好き勝手やれんじゃないかと思ってる。
ただ最近、両親とくに母親が、「そろそろ結婚して落ち着きなさい」って言うようになったけど。
放送を配信をしてると時々聞かれることがある。
『主は彼女いないのか?』
俺は決まって、「うん、残念ながらね・・・」と返す。
反応は毎回さまざまだ。
『意外だな』って返すリスナーもいれば、『あぁ、やっぱりwwwww』ってコメントがつく場合もある。
時には『ゲイなのか?』なんて聞かれる事もある。
申し訳ないが俺はゲイじゃない。
顔は普通・・・だと思う。
とても放送で『顔出し』出来るレベルじゃないが、少なくとも他人に嫌悪感を与えるような顔じゃないと思ってる。
身長は・・・1センチさば読んで170。
欲を言えば、あと5センチ欲しかったが仕方ない。
体重は並よりちょっと軽い部類。
趣味は動画配信やってる時点で『ややヲタク』に分類されるかも知れないが、廃人にはなってないつもり。
性格は、自分で言うのも何だが真面目。
むしろ「真面目すぎる」とか言われるけど、これも仕方ないと思ってる。
そもそも「真面目じゃない」より良いだろ?
仕事もしてるし、一人暮らしもしてる、少々だけど貯蓄だってある。
それでも俺はモテなかった・・・
いや、モテるなんて望んじゃいない。
別にモテなくたって良いんだよ。
ただ・・・
一度くらい彼女ってモノが欲しいなって思うだけ。
ここまで言えば分かるだろ?
そうさ、俺は年齢=彼女いない暦の男だよ。
俺の配信してる放送『とあるアラサーの独り言』は、名前の通りに俺が酒を飲みながら思うままに語る放送だ。
動画投稿サイトM-CUBE内にあるM-STUDIO(Mスタ)って所で動画配信してる。
Mスタ内には『歌ってみた』や『踊ってみた』、『声真似』に『ゲーム配信』なんて色んなジャンルがある。
けど、歌ってみるのは恥ずかしいし、踊ったり声真似するスキルもない。
ゲーム配信は出来るだろうけど、あまりワイワイしながらゲームするのも好きじゃない。
そんな訳で俺の放送は専ら雑談オンリーの放送だった。
そもそも俺がMスタを見だした理由が「部屋に1人で暇してるのも何だな・・・」って所からだ。
それを考えれば俺の放送がこのスタイルなのも当然の流れかもしれない。
まぁ、アラサーの男が1人で喋る放送にそんな需要があるわけも無く、俺の放送はいわゆる『過疎放送』の部類に入ると思う。
リスナーは30分の1枠で累計20人も来れば良い方。
休日の昼間なんかだと5人とかの時もある。
それでも大事なリスナーさんだけどね。
「さて、今日も『とあるアラサーの独り言』はじめます。良かったら最後までゆっくりしていって下さい。」
これが毎回枠の頭に言う始まりのフレーズ。
そうすると少し時間を置いてリスナーからのコメントが書き込まれていく。
こんな俺の放送にも嬉しい事に、アカウント名を残して行ってくれる常連さんだっているんだよ。
【わくおつ!@コン太】
【わこつ 今夜は遅かったな オ●ニーでもしてたか?wwww@ふぅ】
【枠乙です 今夜もヨロシク@向日葵】
『わくおつ』『わこつ』ってのは『放送の枠取りお疲れ様』の略。
今じゃ放送枠は5千を超えるMスタだけど、かつて枠の数は50とか100とかで、放送の順番を待つのに数十分かかることもあったらしい。
それで放送の頭にはリスナーから『枠取りお疲れ!』ってコメントが続いて、今じゃMスタでは頭の挨拶で定着してる。
@の後はリスナーさんのアカウント名。
『ハンドルネーム』なんて呼ばれたりもする。
ネットは顔も本名も分からない匿名が当たり前。
だけど俺はアカウント名を出す事で少しの親近感と、コメントへの責任感みたいなもんが生まれる気がする。
もっとも強制はする気はないけどね。
まぁいきなり下ネタなコメントが飛んだけど、俺の放送はだいたいこんなもの。
アラサー男の放送なんだからリスナーの平均年齢も高いし、多少の下ネタはご愛嬌だ。
もっとも過激になりすぎたら俺が止めなきゃいけないけどね。
【わこつでゴザル!聞いてくだされ!大事な仲間が結婚するでゴザルよ!!@The Wall】
【仲間ってDT仲間か?www@ふぅ】
【DTって何ですか?@鼻水王子】
【DTってのは童貞の事で・・・@山菜】
【崇高な魔法戦士の事でゴザル!!@The Wall】
【恥ずかしい連中の総称に変わりない@スイスの熊】
【DTって恥ずかしいものですか?恥ずかしいものですか?恥ずかしいものですか?@パンク姫】
えーっと・・・
取りあえず週末の夜って事もあって、常連さんもずいぶんと盛り上がってるみたいだね・・・