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十三




 あの秋の日。

 ルドルフが初めてリサを見たとき、亡き妻のリアラだと直感をした。これはもう、理屈ではなかった。

「説明をしろと言われても、どう言えばいいのか判らない。ただ、すとんと胸に落ちてきたとしか言いようがない」

 暖炉の前に起き上がり、一緒に掛布と毛布にくるまりながら、ルドルフは思い出すように言う。起き上がるリサを彼は最初止めたが、戻ってきた顔色と彼女の「大丈夫」と言う言葉の力強さに、無理をさせない範囲であらためてゆっくりと身を起こさせた。

 リサの手が持つカップには、蜂蜜をお湯で溶いたものが入っている。冷えきった身体に、喉を降りていく熱く濃い甘みが強く沁み込む。じんわりとした感触は、(せい)の感触でもあった。

「そこに、いるじゃないかと」

 倒れるリサに、リアラが戻ってきてくれたのだと、本気で信じた。

『リサ』と名乗られたものの、それはたんに肉体の名前であって、宿っている魂はリアラなのだと信じた。別の人間の身体に魂が入ったことで、一時的に記憶を失くしているのだと―――荒唐無稽だとも気付かずそんな理由を作りあげて、自分自身に思い込ませた。

 だが、いままでの幸福な日々を思い出して欲しいと願う一方、思い出した記憶が万が一リアラのものでなかったらと、不安と恐れで現実を直視するのが怖かった。

 手放したくなかった。

 自分のもとに、閉じ込めておきたかった。誰かに奪われたくなどなかった。

 独り取り残される空虚な寂しさは、二度と味わいたくなかった。

「強引だとは、本当は、自分でも判っていた」

 揺れる炎に照らされて、ルドルフは他人事のように淡く儚げな眼差しを遠くに流している。

 先走り過ぎていやしないか。ダニロヴィからも、リサとの結婚申請に意見をされた。

 まだ出逢って数週間。家と家が絡んだ政略的なものならいざ知らず――政略結婚ならばなおさら、それに至るまでに水面下での工作が長期間あるのが普通だ――、リサに至っては記憶自体がない。背景がなにも知れない女性と出会ってすぐに結婚を申請するなど、貴族としてあまりに無謀だ。いや、ただの平民であったとしても、常識を逸している。

「それでも、リアラと自分が一緒にあるのは必然なことだと、譲る気はなかった。一刻も早く、あなたを繋ぎ止めなければと思い詰めていた。他の誰にも渡したくなかった。誰かのものになる前に、わたしのものにしておきたかった」

 リサの過去は、推定された年齢からリアラの異母妹ということにした。

 ルドルフがフォウセク領を相続したのは、男子相続の貴族社会にもかかわらず父親であるバルテルがリアラ以外誰も認知しなかったからだ。結局、リアラの幼馴染みでもあったルドルフが彼女と結婚をすることで領地没収はなんとか避けられたのだが、表沙汰にならないなりにも相続にあたって多少の騒動はあった。裏を返せば、愛人の多かったバルテルには、認知されていない子がそれなりにいたということでもある。その事実を利用し、リサの存在を『密かに認知していた婚外子』として、申請書を作成したのだった。

 だが、とルドルフは言葉にためらいをにじませた。

「違和感は、結局ずっと拭えなくて」

 いったん言葉を切ったルドルフは、きゅっと眉根を強く寄せた。

「『リィ』ではないのだと、あなたと日々を過ごすたびに思い知らされた。目の前にいる記憶を失った女性は、リアラではないのだと。リアラではないリサがどんどんわたしへと流れてきて。それが、裏切っているようで苦しかった」

「……」

 決定的なのは、ハサージュの花の色について尋ねられたときだとルドルフは言う。

「リアラは、ハサージュに黄色があることを知らないはずなんだ。この一帯の土壌が関係しているのか、黄色の花は咲かない。領地の外に出たことがないから、リィはハサージュの花は白と赤、薄紅色しか知らないはずなんだ」

 ジェイフのあの言葉が、彼の気持ちを引き裂いたきっかけだったのだ。

「愛しているのは『リィ』ではない現実を受け入れるのは、どうしてもできなかった」

 目の前にある現実と己の心に課していたリアラを恋うる想い。リサを前にして、その両者の間にいつの間にか(ひび)が入り、彼女を見るたび言葉を交わすたび、罅は音をたてて大きくなっていった。

 どちらを求めるべきなのか。

 頭では判っている。だが、心のすべては、これまでの自分を支えてきたよすがを失いたくないと激しく抵抗をする。

 だから、リサとの関係を踏み込むことができなくなった。顔を合わせても、当たり障りのない距離を敢えて取った。

「あなたを不安にさせていることは重々承知していた。けれど、どうしても」

 自分が自身から乖離していくのが怖くて、逃げることしかできなかった。

 ルドルフの告白に、リサは自分を苦しめていた思いに違和感を覚え、問わずにはいられなくなる。

「他に好きなひとが……できた、んじゃ、ないんですか……?」

「え?」

 思い詰めた色を瞳の底に宿すリサ。虚を突かれたルドルフは、彼女がなにを言っているのか、すぐに答えを出すことができない。

 不安げにリサは問う。

「わたしがリアラさまでなくなって、もっと似てるひとと出逢って好きになって、逢いに行った……のではないんですか?」

 うまく伝えきれないリサに、ルドルフは困惑を隠せない。

「……なにを、言っているんだ?」

「わたしから、気持ちが離れていったと……」

「え……?」

「それで、だから……、お仕事だと偽って逢いに行ってた、と……」

「逢いに行ったって。好きなひと? ……え?」

 ルドルフには、リサがなにを言おうとしているのかまったく判らない。

 リサも、混乱をきたすルドルフの様子に、さすがにおかしいと感じる。

 もしかして、もうひとりの女性は、―――存在していない……?

「……」

 なにかを、見失っている。

 けれど、ならば何故。―――その答えを、いまのいまルドルフは口にしたではないか。

 自分は、なにを見ていた……?

「リサ」

 ルドルフは、思考に意識を沈ませるリサの目をじっと見つめる。

「たぶん、あなたは思い違いをしている。なにかが、かけ違っている」

「……」

「好きなひと、というのは、わたしが好きなひと、ということ?」

 静かな問いかけに頷くリサ。

「わたしにそんな存在がいると、どうして思ったの?」

「……急に、よそよそしくなりました……」

 抱いてくれなくなった、とは、さすがに言えなかった。

「仕事だと言っていたのに、違っていたし」

 ルドルフは昨日のことを思い返す。リサに知られたくなかったから、その前日、先に休んで欲しいと伝えたのだが、逆効果だったようだ。

 世の中に仕事と言い訳をして女遊びをする男どもがいることを、ルドルフは知ってはいるけれど。

 脱力の溜息がこぼれた。

 ルドルフは額に手を遣る。自分の態度はまさに彼らと同列にとられてもおかしくはない。

「過去の自分を殴ってやりたい」

 あまりの情けなさに、胸の内に収めるはずの呟きがこぼれた。

「会いに行ったのは女性じゃない。男性だ。ジェイフ・ヒンデンシュタイン。あなたの義兄(あに)だ」

 リサの目が、はっと瞠られる。

「あなたと関わりがあるらしいと判ったから、言わなかったんだ。あなたを手放したくなくて、言えなかった」

 ルドルフはまっすぐに不安げなリサの瞳を見つめた。

「あなたの不安は、全部わたしのせいだ。他の誰かが絡んでいるわけじゃない。誰もいない。リサが愛しくて、自分が変わっていくのが怖くて、情けないくらいに怯えてたんだ。怯えていると知られたくなくて、迷惑をかけているとも苦しめているとも判っていたのに、まさかそんなふうにとられるとは思わなくて……、いや、思うべきだった。わたしが浅はかだった。―――すまなかった」

 リサの胸の内で、冷たく凍っていた不信が、溶けだしていく。

 ルドルフは、心変わりをしたわけではなかった……。

 一歩を踏み出すときの心細さや恐ろしさは、リサにも経験がある。

「好きなひとができたわけじゃ、ない……?」

「ああ。わたしのすべてはリサにあるというのに、どこにそんな余地がある?」

「どこにも、いない?」

「ああ」

「わたしを『リサ』と呼ぶのは……」

「本当に愛しているのは誰か、はっきりと見えたからだ」

 そう、断言された。

 ルドルフの中で、リアラとリサは完全に分離をし、リサだけが残った。

 愛しているのは、リサだけ。

 その真摯に訴える眼差しと声音に、胸に熱いものがこみあげてくる。

「リサ……」

 贖罪のような切ない声。リサは、想いを噛み締めるようゆっくりと、何度も頷いた。

「すまなかった、リサ……」

「わたし、……莫迦みたいです。ルドルフさまに訊くのが怖くて、思い詰めて、ひとりで……お屋敷を出て……」

「肝が冷えたよ」

 ほんのり、ルドルフは笑む。

「またこうしてそばにいられて……、本当によかった」

 リサの表情から僅かに硬さが薄れたのを見、ルドルフは「わたしこそが愚かだったんだ」と、再び暖炉の火に目を遣った。

 だがリサは、ルドルフを間近にしながらも本当は怯えていた。

 ルドルフの心に誰がいたのだとしても、リサが関わっていたことは、許されることではないのだから。

 ルドルフは彼女の怯えに気付いていないのだろう、淡々と言葉を続ける。

「いまならはっきりと判るのに、あのときは、なにも見えていなかった」

 不安に駆られていた当時へと、ルドルフは意識を戻す。

 リサを見るたび、接するたび、自分がどんどんあるべき姿から離れてしまう。

 それに怯えてリサとの関係もぎくしゃくしていたとき。

 ダニロヴィから、館の周囲を嗅ぎまわってた男を捕らえたという報が入った。

 近くの村の宿に留めおいたその男と昨日面会をしたルドルフは、心の臓が凍るほどの衝撃を受けた。

 リサが抱えていた過去を、その裏に秘められていた使命を、男が―――ジェイフが口にしたからだった。

 ルドルフのその言葉に、リサは顔をこわばらせて息を呑んだ。

「ジェイフ殿は、リアラの墓所から戻ってこないあなたを心配して、近くまで来たそうだ」

「!」

「ちょうど、わたしがあなたを抱え上げたのを見かけて、形は違ってしまったがうまく取り入れたと、いったんそのまま宿に戻ったらしい」

 本当に、すべてを知られてしまったのだ。

 リサの胸を痛いほどまでに染め上げたのは、後戻りのできない絶望の(くら)い色だった。

 断罪を待つ死刑囚の気持ちが、判る気がした。

 顔色を失くすリサの肩をルドルフはもう一度抱き寄せると、流れる黒髪を梳くようにして優しく頭を撫でた。

「約束の夜会にわたしもあなたも出席しなかったことや、あなたからの連絡が一切ないことで、ジェイフ殿も気になったらしい。館の周囲や近くの村で、わたしたちの様子をそれとなく訊いていたそうだ。こちらを窺う男がいるのは気付いてはいたが、……ただの間諜だとばかり思っていた」

 田舎領主とはいえ、ふたつの領地を治めている。政治的な醜い部分は皆無ではない。リアラを失って領地経営に身が入らなかったことも、よそからつけいれられる隙を生む原因でもあった。

「申し訳ありません……!」

 リサは頭を下げる。ルドルフの顔を、見ることができない。

「リサ?」

「わたしは……、お聞きおよびのとおりです。わたしたちはルドルフさまを騙してリトレウスの採掘権を奪おうと」

 ルドルフが、すっと硬い空気をまとう。次の反応を、リサは心が締めつけられ罅割(ひびわ )れそうな思いで覚悟をする。

 どんな断罪の言葉が投げつけられるのか、想像するのも恐ろしかった。

 彼は恐ろしさのあまり逃げ腰になっていたリサの肩に、そっと掛布をかけた。

 その、あまりにもあたたかく優しい感触に、あやうく縋りつきそうになる。

 いけない。

 嬉しいと思ってはいけない。

(わたしは、許されちゃいけない……)

 甘えたくなる思いを(こら)え、リサは、首を振ってルドルフの優しさを振り落とす。

 ルドルフはそれでもなお掛布を肩にかけ、やや強引にリサを抱き寄せた。

「本当に、思い出したんだね」

 責めるでもなければ、(なじ)るでもない声音だった。そうですという肯定の言葉は喉の奥で詰まって、だからリサは恐々と頷くことしかできない。

 沈黙に胸が張り裂けそうになった頃、長い溜息が頭上から降ってきた。リサを抱き寄せる腕に、いっそう力がこもった。

「そうか……」

「謝って、すむことじゃないと、すむはずないけれど……」

 見限られる。

 どんなに自分を叱咤しても、押し出す声に嗚咽が混じってしまう。泣いていいわけがない。泣いてどうにかなる問題でもない。

 自分を心から愛してくれたひとを、裏切ろうとしていたのだから。

(しゅ)に感謝しなければならないな」

 優しい声を、ルドルフは落とす。

 次にどんな言葉がくるのか読みきれなくて、リサの肩は警戒するように小さくはねた。

「あなたが記憶を失っていなかったらもっと違う関係になっていたかもしれないが、そのおかげで純粋な、なにも背負っていないあなたと出逢うことができた。記憶がなかったからこそあなたを愛し、まっすぐに見つめてもらうことができた。だから、リサ。あなたが謝るようなことは、なにひとつないんだ」

 それなのにわたしは、と、ルドルフは続ける。

「酷いことをした」

「……」

 こちらを責めようとしないルドルフに、断罪の台詞にどうしたらいいのかただそれだけを考えていたリサは、恐るおそるルドルフに目を上げる。

「あなたを責めるとでも思ったの?」

 なにかの拍子に彼の表情が一転して軽蔑に変わってしまうのが怖い。怖いけれど、―――怖いからこそ見つめ続けることしかできない。

 リサは、ゆるりとまた頷く。

 苦笑が返ってきた。

「どうして? わたしが出逢ったのは、なんの裏も抱いていないあなただというのに」

「……」

 どうしてと訊きたいのは、こちらのほうだった。

 記憶がなかっただけで、ルドルフを騙そうとしていた事実は変わらない。

「主は、すべてより良きように導いてくださった。すべてがうまく運ぶように、あなたから記憶をいったん取り上げた。あなたが実際にしたことはなに? わたしを騙した? ―――騙してなんかないだろう? リサ。あなたはただわたしと出逢い、愛してくれた。わたしに、道を与えてくれた。世界は目の前に広がっているのだと教えてくれた。それのどこが責められると?」

「ルドルフさま……」

 喉の奥がわなないて声にならない。

「責められるべきは、わたしなんだよ。すべてを切り拓いてくれたあなたを、裏切り続けていた」

 リサではなく、リアラを目の前の女性に重ね、求め続けていた。

 男女の恋愛以前に、ひととして許されることではない。

「謝ってすむことじゃないと判ってる。それでも、何度でも言わせて欲しい。すまなかった。リサ。あなたをずっと苦しめ続けていた」

 ルドルフの手がリサの頭を包み、頬を辿り、肩に降りた。ひどく申し訳ない顔をしたルドルフに、彼の言葉が少しずつリサの中へと沁み込んでいく。

 自分は、苦しめられた……?

 彼と出逢ってからの、違和感を覚えながらも愛を受け続けた日々を思った。

 傷付かなかったわけではない。他の女性の影に怯えたことも、苦しい思いをしたのも確かだ。けれど、すべての過去を失くしたリサをリアラと思わなければやっていけないほどに、彼はリアラを愛し抜いている。そんなひとを愛してしまったのだ。苦しかったことや傷付いたことで彼を責めるのは、―――たぶん、違う。

 首を振るリサに、ルドルフも同じ動作を返す。

「自分が本当にいま誰を愛し、誰を必要としているのか、ジェイフ殿に会わなければ判らずじまいだった。あなたを苦しめ続けるばかりだった」

「……」

「わたしは、どうしようもない男だ。誰を愛しているのか気付かないほど、愚かしい人間だ。何度も何度も、過ちを犯してばかりでいる」

 ルドルフが自虐的に己を評するのが、リサには意外でならなかった。

「わたしは、実際はどうであれ、ルドルフさまを騙そうとしていたんです。その事実は、どうすることもできません」

「それすらも、すべて主の思し召しなんだ」

「え……?」

「ジェイフ殿からすべてを聞いて、愕然とはしたよ。まさかと思った。でも、なんて言えばいいのか……。わたしたちは出逢うべくして出逢ったんだ」

 ルドルフの言っている意味がリサには判らない。その、彼のどこかすっきりした表情が、いっそうリサを混乱させる。

 種明かしをしよう、とルドルフ。

「領内にはリトレウス鉱山などないんだ」

「……え?」

 ジェイフに、貴石リトレウスの鉱山があると言ったのはリサの母親だ。母親はバルテルから教えられた。父バルテルの発言から、すべてが動き出した。

 その、鉱山が、ない……?

 目を(しばたた)かせるリサに、ルドルフは頷きをひとつ返す。

「十数年前のことだ。前領主の義父(ちち)バルテル……あなたの父上でもあるんだよな、その妾のひとりが、財産欲しさにいろいろと画策していたことがあったそうだ」

 ルドルフの言に、ああ、このひとは義姉(あね)の夫だったのだとあらためて思い知る。なんでもないことのように口にされた言葉は、語ろうとするその内容よりも、現実の自分の立ち位置を糾弾されたようにも思えて、リサは一瞬居場所を見失いそうになる。そんなリサの肩を、ルドルフは安心させるように軽く叩く。

 当時、バルテルの妾や愛人の総数は、リサの母カシェルを含めて十二人もいたという。その誰かが、バルテルが治めるフォウセク領を我が物にしようとしていたという。正妻も命を狙われ始め、バルテル自身も命の危険を感じた。

 彼女たちの仕業だとは判ったものの、それが誰なのかまで知ることはできなかった。

 そこで、エサをばらまいたのだという。

「金、銀、金剛石にリトレウス。犯人として挙がった人数が人数だから、三人ずつにそれぞれの鉱山が眠っていると偽りをほのめかした。もちろん、そこから採れる鉱物を好きなようにしていいと匂わせて」

 反応にはそれほど時間がかからなかった。

 リトレウス鉱山の開発をしたいという要請が、領内のある商会からあったのだ。打診を受けてすぐにバルテルはその商会を密かに、そして丹念に調査させた。すると、闇社会の暗い仕事を請け負う人々との怪しい繋がりが見えてき、あるひとりの女性の名前もちらほらと浮かび上がってきた。その女性こそ、リトレウス鉱山の存在を伝えた妾の一人だった。

 そこから先は、あっという間だった。

「リサの母上がどういう経緯で義父(ちち)と別れることになったのかは判らないが、義父が真相を伝え忘れたらしいことを思うと、時期的に見ても、この騒動のあたりなのかもしれないな」

 リサは、母親から何故父親と別れたのか聞いたことはなかった。ただ、

「ごたごたがあって、怖くなって疲れてしまった、とは言ってました」

「ごたごた、か。確かに、よく言えばごたごたではあったようだ」

 バルテルと正妻の命を狙っていた妾は斬首、彼女と繋がっていた商会の経営者も同じ道を辿ることとなった。これをきっかけに、愛人たちの何人かは離れていったという。リサの母親も、そうだったのだろう。

「だから」

 ルドルフの声に、甘やかなものが混じる。

「だから、リサが気にすることなどなにもないんだ」

 あれは真犯人をあぶりだすための嘘。リトレウスの鉱山自体が存在していないのだ。だから、その採掘権の独占がどうのこうのという画策は、意味を為さない。

 身体を抱く手にあやすような力がこめられるが、リサは素直に彼の言葉を受け入れることができない。

「ルドルフさまを騙そうとした事実は、どうあっても覆すことはできません」

「だからだよ」

「―――え」

「だから、わたしたちは出逢うべくして出逢ったのだと思った」

 どういうことか、判らない。リサの眼差しは怪訝に曇る。

義父(ちち)はしっかりしているのに、リサの母上に鉱山の顛末を伝え忘れていた。リサも判るだろう? そんなこと、義父にはありえないことだと。だからこそだ。だからこそ、わたしたちは出逢えた。だろう?」

 真摯に語るルドルフの声音に、リサの気持ちは崩れそうになる。

 ときどき母や自分に会いに来てくれていた父親が几帳面な性格をしていたことは、リサもよく覚えている。

 その、父親が肝心なことを母に伝え忘れていた、など。リサにははかりしれないなにかを思ってわざと伝えなかったのかもしれない。けれど、どんな理由があれ、母は真相を知らなかった。そうして、その情報はジェイフに伝わり、リサはルドルフと出逢うことができた。

「……だろう?」

 丁寧にリサの不安を取り除こうと言葉をかけ続け、すべてを暴いてもなお見つめてくる彼のまっすぐ注がれる眼差しに、なりふり構わず飛び込んで甘えたくなってしまう。喉から手が出るほど欲しかったものが、目の前にあって、ひたむきに自分を見つめてくれている。

 リサは、―――そんな自分の気持ちを抑えこみ、首を振る。

「結果論です。結果論でしかありません」

「だが、偽りの話をジェイフ殿が信じてわたしと会う夜会まで設定したのは、事実だよ」

 頑なにルドルフの言葉を拒むリサに、それでもルドルフは声を荒げることもせず、ひたすらに穏やかに語りかける。

「でも」

「ジェイフ殿は、あなたの気持ちを、知っていたんだ」

「―――!?」

 突然の、思いもよらないルドルフの告白に、リサは素になって言葉を失った。

 永遠に秘しておきたいリサの真実に斬り込んだルドルフは、けれど優しい眼差しを変わらず湛えている。

「リサとは違う種類だが、彼もリサを愛してたよ」

「……。ど……、どういう……」

 ジェイフに知られていた? それを、よりによってルドルフにも知られてしまっただなんて。

 いたたまれない羞恥心と絶望にも似たやりきれなさに、目の前が真っ暗になる。リサの声は情けないほどに(かす)れ、震えてしまっていた。

「自分のせいで適齢期を過ぎても結婚しようとしない妹に、相手を探したかったとも言っていた。ジェイフ殿は、わたしをその相手に選んでもくれていたんだ」

 画策したリトレウスの陰謀がうまくいかなくとも、リサが自身を幸せにしてくれる相手と出逢えるのであれば、それだけで成功だったと、それだけでもルドルフと出逢わせる価値はあるのだと、ジェイフは告げたのだ。

 そうして、夜会の前にあの事故は起きた。

「わたしたちは、あのとき出逢った」

 ルドルフは、自信すら窺える眼差しでリサを見つめてくる。

「夜会で逢ったのだとしてもどこで出逢ったのだとしても、わたしはあなたに惹かれていた。誰でもないあなたに、リサに、心奪われていた」

「わたしは……」

「あなたがどんな選択をしようとも、わたしたちは出逢う運命だったんだ。わたしのすべては、あなたに辿り着くよう導かれていた」

「……そん、な……」

 リアラの存在ですら、リサと出逢うがためとでも言うのか。自意識過剰かもしれないが、たとえ一瞬でもそう思ってしまった自分の利己的な思考が恐ろしかった。

 いけない。

 だめ。

 ルドルフにこれ以上近付いてはいけない。彼と接してしまうと、どんどん期待や希望が大きくなって、離れづらくなってしまう。彼の声を聞くたび、見つめられるたび、離れなければという思いは揺さぶられて消えそうになる。

 リサは強く目をつぶり、とにかくルドルフを視界から追い出した。

「リサ。記憶があろうとなかろうと、どんな事情を抱えていようと、わたしはあなたに惹かれていた」

「リアラさまは悲しみます。よりによってわたしでは、いい気はしないはずです」

「―――そうは、思わない」

 懸命に言葉をほとばしらせたリサに返ってきたのは、対して冷静な声だった。

「むしろ、彼女は認めている」

「……え?」

 リサはルドルフへと眼差しを上げる。

 ルドルフは、そばに置いてある一振りの剣に触れた。鞘に触れただけで、かちゃりと音が鳴る。

「この時期になると、この辺りには雪狼(ゆきおおかみ)という猛獣が群れをなしてひとを襲うんだ。白くて胴まわりがひと抱えもあるほど大きいんだが、金属の音が嫌いでね。だから、襲われないよう人々は鈴を身に着けて行動をする。この剣も実用性よりも音を出すためのもので……―――リサ。あなたは鈴を身に着けていなかったろう?」

「……?」

 雪狼という存在自体、いまのいま初めて耳にした。初めて知った動物だから、まったく現実味がない。そもそも、なにが危険かなど考えもせず館をあとにしたのだから、もちろん鈴の用意などあるわけがない。

「あなたが倒れていたすぐそばに、雪狼の足跡が残されていた」

 きょとんとなったリサにかけられた静かな物言い。その声音の低さに、すぐにぞくりと背筋が冷たくざわめいた。

 ルドルフは、身を避けようとするリサの肩を、諦めずに抱き直す。

「なのにあなたは無傷だった。すぐそばに無防備に倒れていたのに、雪狼の餌食になって当然だったのに、無事だった」

 リサは、肩にこめられるルドルフの力に抗うことができない。

「守ってくれたとしか思えない。リアラが、あなたを守ってくれたんだと。もう一度出逢わせるために。わたしに償わせる機会を、リアラが。あなたを」

「……」

 彼の言葉のひとつひとつが、静かにリサの心の底に降り注いでくる。

 頑なに拒絶という選択肢しか頭になかったリサの気持ち。離れようとしても何度も何度も腕を伸ばしてくれるルドルフ。

 彼と出逢えたということ。再会ができたということ。

 すべてが、ルドルフに向かって流れていく。

 ひとを襲う猛獣が自分のすぐそばにまで来ていたのに、無事だった現実。

 自分自身ではどうすることもできない大きななんらかの力が働いていたと、思わざるをえない。たまたま雪狼は狩りの後でお腹が一杯だったのかもしれない。意識を失くしたリサに気付かなかっただけかもしれない。それでも、その偶然は、なんらかの存在によって意図的にもたらされた……。

 そう思いたいという気持ちが、リサの胸の奥に小さく(とも)る。

 これまでのルドルフへと連なるあらゆる偶然と符丁が、リサの中に小さく生まれたその思いを煽るように揺らめいた。

 リサ。

 遠くから、愛しげに呼ばれた気がした。

 ―――一歩を、踏み出す勇気。

 会ったこともない異母姉リアラ。

 コルディク館にかけられた肖像画でしか見たことがない。

 なのに。

 声が聞こえてきた暗い闇の向こうから、絆が伸びてくる。

 ―――目の前の愛するひとへと身を委ねる勇気。

 緩やかに伸びてきた絆はリサの身を包み、甘やかすように揺らめいている。

 半分だけ血が繋がっている、ただそれだけなのに、いま初めて、時間と空間を超えてリアラから優しく見つめられている気がした。

 泥棒猫と責める色は微塵もなく、それでいいのだと柔らかに微笑んでくれている。リアラの穏やかな表情がそこにあるのだと、直感が教えてくれている。

 正妻の娘のリアラ。妾の娘のリサ。

 ルドルフに深く愛されているリアラ。ルドルフを騙そうとしていたリサ。

 血筋からも状況からも、決して太刀打ちできる相手ではないのに。

(リアラさまは……、リアラさまは本当にわたしを……?)

 あのとき、リアラの墓所でつまづいたとき。

 落葉が積もっただけの場所で、何故だかなにかに足の底が引っかかった。

 それすらも、本当はリアラの仕組んだことだったのか。

(判らない……)

 もちろん、真実など判るはずもない。

 だが、計画どおりリサが夜会に出席をしても、突発的になにかが起こってルドルフは出席できなかったかもしれない。リアラにはそれが見えていて、だからこそあのとき、リサの足をつまづかせたのでは。

 都合のいいことばかりが、頭の中に浮かんでくる。

「だから、なにも怯えることはないんだ。―――いや、違うな」

 視線を重ね合わせながら、ルドルフは言葉を切ってふと眼差しを不安げに揺らした。

「わたしが、怯えている」

「……?」

「あなたの信頼を裏切っていた。どれだけ言い訳をしても、謝罪をしてもし足りない」

「そんな……、そんな、ルドルフさま」

「あなたを離したくない。酷いことをしたのに、そばにいて欲しいと思ってる。あなたに拒絶されるかもしれないと思うと、怖くてならない」

 そんなまさかと戸惑っていると、ルドルフは居住まいをただし、茫然とするばかりのリサに改めて向き直った。

「もう一度、最初からやり直したい。最初から、……最初からただの男と女に戻ってすべてをやり直してはもらえないだろうか、……―――ミアーナ」

 最後に紡がれた音に、リサの目が、こぼれ落ちそうなほど大きく(みは)られる。

 いま、紡がれた音。

 何故。

 何故、その名前を。

「ジェイフ殿から聞いた。『リサ』はミドルネームで、本当の名前はミアーナなのだと」

 身体の内側から、ぱりぱりとなにかが音を立てて剥がれていく。それは願望もであり、失望感でもあり、諦めの気持ちでもあった。

 記憶を失くしていたとき何故か口をついて出た『リサ』という名。おそらくは、ジェイフから呼ばれていたせいでかろうじて記憶に残っていたのだろう。

 もうどれだけ、『ミアーナ』の名で呼ばれてなかったか。

 ジェイフの幼馴染みでもあった妻になる女性の名前が同じミアーナということから、母からもミドルネームの『リサ』でずっと呼ばれ続けていた。

 まさか、ジェイフが『ミアーナ』の名を覚えていたとは。

「あなた自身の名を呼びたい。リィでもリサでもない。あなたがご両親から授けられ、主の祝福を受けた名を。―――ミアーナ」

 その、音の連なり。

 心が、全身が洗われる思いだった。これまでの肉体を脱ぎ捨てて、新たな身体に生まれ変わったかのような、眩しくて光輝く思いが満ちてくる。

 自分の名前が、愛しい相手の唇から、自分に向けて紡がれる日が来るだなんて。

 ルドルフに手を取られ、リサの―――ミアーナの肩から、上掛けがするりと滑り落ちた。

 涙を溜めた眼で懸命にルドルフを見つめるミアーナの指先に、ルドルフの唇が触れる。

「あなたの名を永久(とわ)に呼びたい。その許しを、どうか」

 瞳の中に映るのは、ただミアーナだけ。

 ひたむきな眼差しに晒されて、いったい誰が否と言えるだろう。世界中のすべてのひとが言えたとしても、ミアーナには無理だった。

 喉の奥が痛い。引き()れて、熱くて、嗚咽を我慢できない。身体はいまにも崩れそうで、けれど力をどう入れればいいのか判らなくて、揺れる視界は涙でぼやけている。

 ほんの僅かに顎を引いただけで、まぶたの縁からほろりと涙の粒がこぼれ落ちた。

 こぼれ落ちた涙を、ルドルフの指が拭う。その何気ない感触すら、ミアーナには愛おしくてたまらない。

 涙をすくった動きのまま、ルドルフはミアーナの身体を抱き寄せた。

 力強い腕がミアーナを優しく包み込む。全身を包むぬくもりは、誰でもない、心の底から欲した、愛する男性のものだ。ミアーナだけを見て、ミアーナだけを抱き締めてくれている。

「わたしは……、足手まといに、なってしまいます。リアラさまのように、ルドルフさまを、癒して差し上げられません」

「莫迦なことを言うな。ミアーナ。あなたは、あなたであればそれでいい。それだけでいい」

 ミアーナを抱き締めるルドルフの腕に、力がこもっていく。

「あなたはリアラではない。リアラではないあなたを愛してる。そのままでいい。ずっと、これからはずっとそばにいて欲しい。―――そばに、いさせて欲しい」

「……ッ」

 喉をこみ上げる熱いものがミアーナから言葉を奪う。言葉と空気を求めて喘ぐ彼女に、それでもルドルフは、甘やかに目元を和ませることで、ちゃんとその想いをくみ取っていく。

 すべてを受け入れる彼の穏やかな顔に、ミアーナは小さく首を振る。首を振られたことをルドルフは誤解し一瞬眉を曇らせたが、なにかを訴えようとする彼女の様子に、次に来るだろう言葉を待った。

「ル、ドルフさま……ッ」

 ちゃんと、自分の言葉で伝えたかった。

 想いをくみ取ってくれるからそれでいい、ではない。自分の口で、自分の言葉で自分の想いを聞いてもらいたかった。

 ミアーナは彼にじっと視線を留めたまま、懸命に震える自分の喉を抑えこむ。

「わたしも、です。わたしを、ルドルフさまのおそばにどうか……、ずっとずっと、いさせてください」

 ルドルフの顔を間近に見上げ、嗚咽の合間合間に、ミアーナは想いを口にした。

「お慕いしています……ッ。ルドルフさまだけを、お慕いしてます」

「ジェイフ殿は……?」

 ルドルフの表情によぎる不安な影。ミアーナは、今度は強く首を振った。

「ルドルフさまに出逢えて、誰かを心の底から想うということが、判りました。ジェイフは、違ったんです。全然、違ってたんです」

 必死になるミアーナに、ようやくルドルフの眼差しが緩やかに(ほころ)んでいく。

 ひとつ、ルドルフは優しく頷き、ミアーナの頭に手を遣った。するりと、その手が髪を梳いていく。

「これだけは間違えないで欲しい。リアラが認めたからあなたを想っているわけじゃない。国中世界中すべてから反対をされても、わたしはミアーナを愛している」

 真摯な声に、はっとした。

 ルドルフの言葉は、ミアーナすら無意識の底に押しこめていた不安そのものだったからだ。

 ルドルフはミアーナが気付いてしまった不安をなだめるように、もう一度彼女の髪を梳く。

「リアラが反対しても、ミアーナを愛してる」

「……」

「あなたは、『リアラの異母妹』なんじゃない。ミアーナ・リサ・ヒンデンシュタイン。わたしが心から愛する女性だ」

「ルドルフさま……」

「愚かと(なじ)ってくれるか。狂おしいほどにどうしようもなく、ミアーナが愛しくてたまらない」

 途方もない愛しさが、彼から流れ込んでくる。こんなにも愛されてもいいのだろうか。彼からの愛を、誰にも遠慮せず受取ってもいいのだろうか。

 小さな戸惑いを見せるミアーナの唇に、ルドルフは己のそれを落とす。触れ合った薄い皮膚からのぬくもりは、一歩をためらうミアーナの背中を押してくれた。

 そうだ。

 このぬくもりは、最初からずっとそばにいてくれた。

 ミアーナも、リアラがすべてのお膳立てをしてくれたからルドルフを好きになったのではなかった。

 ルドルフだから、好きになった。

 リアラが反対したとしても、ジェイフや両親が反対しようとも、たった独りになってもこの気持ちは止められない。

 止めることなど、できないのだ。

 溢れるばかりの気持ちは幸福で、(はじ)けるように輝いていて、眩しい。こんなきらきらした想いが、自分の中に生まれたのは初めてだった。

 頬を染めながら小さく頷いたミアーナに、ルドルフはもう一度唇を寄せる。

「結婚申請書を、書き直さなければならないな」

 出逢って数週間で王都へ送ったふたりの結婚申請書。その許可の返答はいまだ王都から戻って来ていないという。

「名を、本名に直さないと」

 言葉自体は、なんということもない事務的手続きを語っているだけなのだが、ルドルフのどこか縋るような眼差しには、それだけではない強い決意があった。

 ミアーナには、もちろんルドルフがなにを言わんとしているのか判っている。

 ―――プロポーズ。

 彼は、改めてミアーナに結婚を申し込んでいる。

 ルドルフへの不信感と己の真実。リアラ。ジェイフ。ルドルフへの愛しさと戻ってきた記憶。雪狼が示したリアラの思惑。そうして、自分の名前。

 いろんなことが一度に起こりすぎて、ミアーナの頭はいっぱいいっぱいで動いてくれない。

 声にならない声に、唇がわななくばかりだった。

「―――……あ、の」

 ようやく言葉らしい言葉を紡ぐことができたのは、暖炉で燃えていた太い薪がかたんと音をたてて崩れてようやくだった。

「また……、時間がかかってしまうかもしれません……」

 前の結婚申請書を出して約二ヵ月が経つ。二ヵ月経っても返答が来ないということは、このタイミングで改めて訂正した申請書を出しても、それ以上の時間が更にかかってしまうことになる。

 ミアーナとの結婚を急いでいたルドルフには、避けたいことではないだろうか。

 ルドルフは首を振った。

「わたしは、急ぎすぎていた。いままで、まわりやあなたのことなど二の次三の次にして、ただあなたを失いたくない一心で、自分の気持ちだけをごり押ししてきた」

 まわりを埋められていくその速さに戸惑いを覚えたことは、確かに否定はできないけれど。

「ミアーナが言うように、正式な結婚ができるまで、また何ヵ月も、もしかするとそれ以上かかってしまうかもしれない。それでも、その時間をもう一度あなたとやり直せる時間にできるのなら、どれだけでも待てる。焦らず、ひとつずつ、あなたを愛してゆける。あなたの不安を、その間に全部取り除けたらと」

「不安なんて……」

 本当は、ないわけじゃない。だが、こうしてまっすぐにルドルフが見つめてくれている。ただもう、それだけでどんな困難も不安な思いも乗り越えていける気がするのだ。

「ミアーナ」

 ルドルフから名前を呼ばれる。

 リィでもなく、リサでもない、本当の真実の名前を。

 ―――ミアーナ。

 彼の口から艶めいた声で紡がれるたび、身体の内側がじんわりと熱くなる。

『リサ』という名前で呼ばれ続けて、自分が誰なのか、何者なのか境界が判らなくなって、生きていっていいのかすら悩んだこともある。

 ヒンデンシュタインの家から離れ、ルドルフと出逢えたことによってようやく長い呪縛が解かれたのだ。

 欲しかったのはただ、真実の名を呼ぶ声。

 自分は自分なのだと、教えてもらいたかった。

 誰もが当たり前として受け続けている幸福を、ようやくミアーナは手に入れることができたのだ。

 愛するひとの手によって。

 愛するひとの声によって。

 胸の底から、ふつふつと甘やかな想いが湧き出でる。その想いはとろけるほどの笑みとなって、ミアーナの顔に広がっていく。

「どれだけ時間がかかっても構いません。ルドルフさま。わたしを、どうか、あなたの妻に」

「ミアーナ」

 ルドルフに抱き締められ、唇が降ってくる。額に、瞼に、唇に。

 彼に名を呼ばれるごと、小さく砕かれて散り散りになっていた自分自身が、瑞々しさを取り戻して戻ってくる。

 ひとつひとつそれらが戻って自身に()まり込んでいくたび、全身に甘い痺れが広がる。

「ミアーナ。愛している。愛してる、ミアーナ」

「わたしも愛しています、ルドルフさま」

 ミアーナに世界と自分を取り戻させてくれたひと。

 きっと、記憶を失くしてしまったからこそ、いまがあるのだ。

 すべては、最初からなにもかもがルドルフに向かって流れていた。

 眩しく輝くミアーナの笑みに、ルドルフはもう一度、彼女の唇に自分のそれを落としたのだった。




                    了


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