その十七.点を欠く犬神使い
地下街の一角に埋もれるようにしてその古本屋は存在していた。
迷いなくガラス戸を叩き割り、吹雪を担いだ時久が店内に侵入する。床に散らばった硝子片を無造作に払いのけ、彼は吹雪をそこに横たえた。
「……不法侵入ですよ」
「緊急事態だ。それに多少荒っぽくなることは依頼人も承知している」
「まったく」
陳列台にもたれかかり、吹雪は深々と呼吸する。
時久は割れたガラス戸に何枚かの札を貼り付けた後、吹雪の方に近づいた。腰のポーチから鉄製のボトルを取り出し、蓋をこじ開ける。
「飲め。少し楽になる」
無造作に突き出されたボトルを吹雪は震える手で受け取った。
口を付けると、甘い蜜の味とともに爽やかな香草の風味が口の中に広がった。
「……これは?」
「薬草の蜜漬けを水で割ったものだ。飲めば霊傷……霊力によって受けた傷が治癒する」
「なるほど」
吹雪は小さくうなずき、少しずつ薬湯を飲む。その効果は抜群で、徐々にめまいは落ち着き、頭痛は溶けるように消えていった。
吹雪が薬湯を飲んでいる間中、時久は黙ってその様子を見守っていた。
「……皆さん、今回のことを最初から予測していたのですね」
「ああ」
「わかっていて私を?」
「殴りたいなら殴っても構わんぞ」
時久がじっと見つめてくる。威嚇するようなまなざしではなかった。その瞳は黙って、吹雪の反応をうかがっているようだった。
ふっと息を吐き、吹雪はボトルを時久に返す。
「……いいです。何か理由があるのでしょう?」
「ああ。――傷を見る。上着を少し裂くぞ、良いか?」
「構いません」
頭痛は落ち着いたが、まだ重い疲労感は抜けない。手足を動かすのも一苦労だった。
時久は吹雪の制服に手を掛ける。
「あらかじめ言っておくが俺は貴様の貧相な裸などには興味がない」
「前言撤回です。殴らせて下さい」
「時効だ。見るぞ」
布が破かれ、白い肌が外気にさらされた。傷口に痛みが走り、吹雪はわずかに眉を寄せる。
時久は表情も変えず、傷の具合を確認する。
「やはり傷自体は浅い。大神や犬神どもの傷は肉体に痛みを与えるものでなく、霊力を削り取るものだからな……腕に痺れなどはないか」
「特には。薬湯のおかげか、少し楽になってきました」
「そうか。とりあえず消毒と血止めをしておく」
「っつ……!」
時久は容赦なく消毒液を吹雪の傷口にぶっかけた。
びりびりとした痛みに吹雪は顔をしかめる。
「くっ……あれは、一体なんなのですか。犬神とは違うものなのですか?」
「似て非なるものだ」
吹雪の肩に包帯を巻きつつ、時久は答えた。
「犬槙は強力な犬神筋の家に生まれた。しかし、あいつは本来犬神使いが持つはずの素養を一切持たずに生まれた落ちこぼれだ」
「素養……犬神を宿し、操るための異能ですか」
「そうだ。あいつにはもっとややこしいモノが生まれつき憑いていたからな」
「それが大神ですか……何故あんなものが」
一瞬、時久の手が止まった。
地下街の入り口で別れた時のように不自然な沈黙が訪れる。しかし先ほどとは異なり、それは長続きしなかった。




